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爺の前に道は無し。爺の後にも道は消えかけて…枯れた中年爺の独り言

「ル・コルビュジエが見たい」読書メモ

2016-10-12 19:01:15 | 書籍
「ル・コルビュジエが見たい」監修:加藤道夫氏 発行:洋泉社 
加藤さんは私の出身高校の同級生で、現在は東京大学大学院総合文化研究科教授です。
私自身は建築には疎かったのですが、先日、たまたまふと国立西洋美術館が世界遺産に登録されたニュースを思い出し、訪れてみました。はじめは殆ど期待していなかったのですが、中に入ってみて思いもかけない素晴らしさにただただ驚嘆するばかりでした。いつかはこれを建てたル・コルビュジエについて知りたく思っていたところ、運良く加藤さんが高校同級生のメーリングリストで本書を紹介してくださいました。
拝読して、更に驚きました。さすが加藤さんです。私のような無骨な者でも、ル・コルビュジエの魅力を分かりやすくコンパクトにまとめてくださっているのはもちろんのこと、さらにコルビュジエの作品を鑑賞したくなってくるほど内容が秀逸でした。
ぜひ、皆さんもこの本を手に取り、実際に上野の国立西洋美術館を訪れてみることをお勧めします。新しい芸術への空間へと誘われる自分自身に驚くことでしょう。

【読書メモ】
「ル・コルビュジュビュジュが見たい!」洋泉社
 本書は高校の同級生、加藤道夫氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)の監修本。
 今年(2016年7月)、東京・上野の国立西洋美術館をはじめ、ル・コルビュジエの手がけた世界7カ国の17資産が世界文化遺産に登録された。本書は、その全体像をざっと知る上で手頃と思われる。

《内容概略》
第1章 国立西洋美術館を見る
◯日仏友好の架け橋となった美術館
・戦後からの転換期に訪れた好機
 国立西洋美術館(1959年3月落成式) は戦後10年経ってなお爪痕が残る日本を立て直す一つのきっかけとして「近代建築の父」の一人であるル・コルビュジエに日本の近代化を託し、日仏友好の架け橋となった美術館。

・コレクション返還にともない創設
 戦争をきっかけにフランス政府帰属となった松方コレクションを、戦後日本が返還を求め、その条件として「フランス美術館(仮称)」を創設することを求められた。その設計者としてル・コルビュジエが選出された。

◯日本の近代建築プロジェクト始動
・緻密なコルビュジエ建築
 当初示された計画案は美術館以外の施設も含む総合文化施設のようなものであったが、予算縮小などで美術館のみとなった。
 基本設計はアバウトなものであり、ル・コルビュジエ建築のルールにのっとって日本側で入念に修正や再設計がなされた。
 ル・コルビュジエが建築に用いる代表的なものに、「近代建築5原則」、「モデュロール(独自の寸法の決め方)」があり、豊かな発想で自由に表現されているようで、きちんとした〝法則〟にのっとっている。

・成長する美術館を構想
 彼が考えた国立西洋美術館の原型は、「無限成長美術館」というもので、中心をメインとして、外向きにぐるぐるとかたつむりの渦のように部屋を伸張していくプランだった。ただし、このアイディア通りに増築されることはなく、1979年に前川國男設計の新刊が竣工した。

国立西洋美術館 8つの見どころ
(1) ピロティ(コルビュジエの「近代建築5原則」の1つ)
建物の1階部分に柱だけの空間をつくり、軽やかな印象を与える。
(2) 外壁/石畳
外壁は玉石を敷き詰めたパネル、前庭床の石畳はコンクリート製。サイズの違う長方形もすべてモデュロールで決定している。 
(3) 19世紀ホール
建物の中心にある19世紀ホール。館内散策はここからスロープを通って2階の展示室へ向かうところから始まる。
(4) 律動ルーバー
桟のような板状のコンクリートは、ガラスの外側にリズミカルに配置することで、室内に入る光が変化するようにデザインされた。
(5) 雨樋
通常屋外にある雨樋をあえて屋内に設置。支柱の隣に楕円形の雨樋が館内を垂直に通っている。
(6) 中3階
本館展示室に3箇所細長い階段が設けられている。小さな作品の展示が想定されていたが、現在は使われておらず立ち入ることはできない。
(7) 展示室
間仕切りがない展示室は、壁の絵を見ながら回遊する構造。空間の変化を楽しめる。
(8) 屋上庭園
コルビュジエ建築の代名詞ともいえる。館内に光をたくさん取り入れるための窓がたくさん出ているのが特徴的。

※無限成長美術館…渦巻貝から発想されている。外周部に展示スペースを広げ、無限に成長することができる。1929年から構想され、実現したのはアーメダバード(インド)、チャンディガール(インド)、そして国立西洋美術館のみ。

※近代建築の5原則…コルビュジエが考案した「ドミノ」という構造システムが可能にする近代建築の新しい在り方で1926年に公表された。《柱》が床板を支えることで、《壁》は建物を支えることから解放され、建築に様々な可能性をもたらした。
1、ピロティ…(前述)
2、屋上庭園…勾配屋根でなくなった屋上は空中庭園として利用出来る。これによって都市は再び自然を取り戻すことができる。
3、自由な平面…構造体から切り離された間仕切り壁は、自由に空間を配置できる。
4、横長の窓…荷重から解放された外壁は横長の窓をつくることが可能になる。結果として内部に均質な光が取り込まれる。
5、自由な立面…外壁には厚さや形状・素材に制限がなくなり、壁面パネルやガラス壁が可能となる。


第2章 近代建築家ル・コルビュジエの誕生
◯「ル・コルビュジエ」になるまで
 ・ル・コルビュジエのルーツ
 本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(1877年スイスで誕生)

 ・建築家としての出発点
 美術学校の恩師レプラトニエ(自然を理解することの重要性を説いた)が、コルビュジエに美術学校の理事の家を作ることを提案(初めての家づくり)した。そして、建築とは何かを学び、装飾についての理解を深め、造形感覚が養われた。

・転機となった外国旅行と修行時代
 20歳初めての国外旅行をして、イタリア、ブタペスト、ウィーン、ドイツ、パリを回り、欧州旅行が最初の修行の場となった。そして、ドイツで目にした新たな建築物や美術などに大きく突き動かされ、ドイツ近代デザインの先駆者ペーター・ベーレンスの門を叩いた。
『東方への旅』(古典主義)
 建築家としての礎(1911年5月旅…ドイツ、ブルガリア、トルコ、ギリシャ)
→生活に根付いた民衆芸術の美しさや悠久の歴史が生んだ芸術に感動し、「素晴らしき民族には大衆の洗礼と時の琢磨とがある」『今日の装飾芸術』
 ※パルテノン神殿に「うちのめされた」→後年建てたロンシャン礼拝堂など宗教建築の設計にも通じていった。

・ドミノシステムの開発…スイスへ帰郷後教官として採用される、ドミノシステム工法開発…従来の石を積んでつくる家ではなく、3枚の床板に6本の柱を垂直に立て、階段をつけた鉄筋コンクリートづくりの量産住宅==この画期的な建築の工法がル・コルビュジエ建築の基礎となった
 
◯建築界の革命児 ル・コルビュジエ誕生
◎パリにて「ル・コルビュジエ」デビュー
・第1次大戦後、パリでの生活スタート、左目失明。絵を描き始める、キュビスムの流れを批判的に継承する「ビュリスム」宣言⇨行き過ぎたキュビスム批判、しかし、またキュビスムに戻る
  1920年画家オザンファン、詩人ポール・デルメとともに総合雑誌『レスプリ・ヌーヴォー(新しい精神)』創刊
このときに使ったペンネームが「ル・コルビュジエ」
 ル・コルビュジエは華美に装飾された前世紀的なデザインを引きずる風潮に噛みつき、「住宅は住むための機械である」と発言。「ドミノシステム」を基盤とした「シトロアン型住宅」を発表する。
 
・パートナーとの出会い
       従兄弟ピエール・ジャンヌレはル・コルビュジエの発想をかたちにした。
 「300万人の現代都市計画」の設計を独自に展開し、集合住宅を中心とした街づくりを積極的に提案していく。
 ヨーロッパで脈々と続いてきた石やレンガづくりの家が立ち並ぶ光景を一掃するような刺激的なアイディアは反発を呼び、旧体制のアカデミーと戦う一因にもなった。この頃からル・コルビュジエは一戸の住宅を建てる以上の興味を都市計画に抱きながら、建築家としての経験を重ねていった。
伴侶とも出会った。
 
・故郷スイスにのこした家
   「シュウォブ邸」ル・コルビュジエ黎明期

・アグレッシブに活動する日々
        1925年オザンファン(ピュリスム)との決別『レスプリ・ヌーヴォーの廃刊
        1926年「近代建築の5原則」…クック邸(1926)この5原則が実現した最初の作品。
    (活動はパリに留まらない)
  1927年国際連盟会館設計のコンペに応募
    ドイツ国際展招待受ける…批判、評価様々
  1927年CIAM発足…近代建築と都市計画の理念の追求
     第一回近代建築国際会議開催
  1928年モスクワのコンペに招待され、講演活動…ル・コルビュジエ入賞
        1929年寝椅子出展…家具作り
 
◎サヴォア邸竣工と新たな転換期
        1920年台半ば以降、各国に「白い箱型住宅ブーム」
        1928年「サヴォア邸」で最高潮…現代では評価が高いが、当時は常識を覆す住まいの形
        ☆家全体にピンと張り詰めた緊張感、装飾のない白い箱型住宅(ル・コルビュジエの専売特許ではない)
 

第3章 新たな建築を目指したル・コルビュジエ
◯時代の寵児 新たな挑戦
・新素材、師匠現住宅の提案
 鉄鋼を建材に使用…軽量、組み立てやすく加工しやすい→デザイン性が高い、集合住宅に適している

・異素材の質感を活かしたスイス学生会館
 建設当時はスイス的でないと批判されたが、1950年代以降評価が高まり、現在は歴史的建造物に指定されている。
(時代の先を行き過ぎている)

・戦争、そして相棒との別れ
 各地を転々、政治思想を持たないル・コルビュジエのある種節操のない行動にピエールは憤慨し、去った。

・戦後復興住宅で旋風
 1942年パリに戻り、ASCORAL(建築革新のための建設家会議)設立…アルジェの都市計画案、戦後を見据え、着々と準備
 第二次大戦終結、転んでもただでは起きないル・コルビュジエ(マルセイユ集合住宅)

・屈辱を味わったデザイン改変
 1946年国連常設本部委員会フランス代表に選出される→ハリソンによって設計が改変される…ル・コルビュジエは激怒

・ロンシャン礼拝堂設計、新境地へ到達
 唯一無比の宗教建築として衝撃を与える。ユニークさが際立った造形的な建物は20世紀を代表する作品にもなった。


第4章 都市計画の夢とル・コルビュジエの果てしない挑戦
◯戦う建築家 見果てぬ夢をかたちに
・多忙を極めた50年代
 60歳代だが精力的に働く。有能な弟子も数多く育ってきた。
 インドのチャンディガールの案件は引き受けた中で最大の案件

・念願の都市建設が実現
 1950年インド独立 新しい首都づくりプロジェクト
 ネルー大統領「この都市を過去の因習から解き放たれた新しいインドの自由の象徴にしてほしい。国家が未来を信じていることを表現する都市にしてほしい」→チャンディガール

・都市機能をつけた修道院
 ラ・トゥーレット修道院…修道僧が神に祈りを捧げ、日常を過ごすための厳かな空間設計がなされている。

・切望したフランス国内での町づくり
 1931年から10年間、最も熱を帯びたのは「アルジェの都市計画」だったが、フランスで町をつくるということは積年の思いだった。
 フィルミニの町づくりは都市全体ではなく、施設や集合住宅などの建築物のみに限られたが、敷地面積の広さと、そこに複数の建築をつくっていくというプロセスは、ある意味、町づくりに近い。

・愛した地中海での生活と最晩年の仕事
 南フランスの小さな街カップ・マルタン
 (簡易宿泊施設「キャンピング・ユニット」P121加藤氏撮影)

◎時代を疾走し、古い慣習に風穴をあけるが如く戦い続けた建築家は、1965年8月27日、大好きな地中海で泳いでいる最中になくなった。

◯登録まで9年!世界文化遺産への道のり
・紆余曲折の末、世界文化遺産登録へ
 最初に関係各国が共同推薦したのは2007年。しかし、各国の思惑や価値観を調整することが難しく、どの資産を入れ、除外するか、紆余曲折あった。
※ル・コルビュジエの都市改革
 1922年「300万人の現代都市計画」発表…彼の理想都市の最初の原型
 1930年「輝く都市」発表…それまでのモデルを修正し、一般化を図った
 1933年「アテネ憲章」…「機能的都市」“住む、働く、憩う、移動する”
   >>理念…都市は「太陽・緑・空間」をもつべきで、都市の機能は、地区ごとに分離すべきとしている。

5章 ル・コルビュジエと日本の弟子たち
◯〝ル・コルビュジエ〟を引き継ぐ日本人
・日本に刻まれたル・コルビュジエの記憶
 日本でのル・コルビュジエ旋風…陸軍省出身の建築家、薬師寺主計1923年に雑誌でル・コルビュジエに面会したエピソードを紹介、広く認知される。
 1930年前後の日本では、ル・コルビュジエが作る住宅群や都市計画が世界最先端のものとして注目された。
 国立西洋美術館を手がける3人の直弟子(前川國男、坂倉準三、吉阪降正)→丹下健三へ
 以来、日本では、直接ル・コルビュジエと接することはなくても、その精神を引き継ぐような建築家が誕生し、世界に注目される作品が生まれた。日本の近・現代史に名を連ねる偉大な建築家は皆、ル・コルビュジエという”建築回廊”をくぐった。

◎ル・コルビュジエの弟子たち
<前川國男>
ル・コルビュジエ建築のトレードマーク…ピロティがある大きな箱型建築物
「京都会館」「新宿紀伊國屋書店」「埼玉県立博物館」「熊本県立美術館」『東京文化会館』
<板倉準三>
1937年パリ万博「日本館」…建築部門でグランプリ獲得
「神奈川県立近代美術館」「神奈川県庁(新庁舎)」
<吉阪降正>早稲田
「呉羽中学校」「アテネ・フランセ」「大学セミナーハウス」<「有形学」という言葉を生み出した>

<丹下健三>東大
「愛媛県民会館」「図書印刷原町工場」「広島平和記念資料館」「旧東京都庁舎」「倉敷市庁舎」
「国立屋内総合競技場付属体育館(国立代々木競技場)」で国内外の賞を総なめ→磯崎新、黒川紀章、槙文彦
安藤忠雄は「香川県庁舎」に感動


<監修者:加藤道夫に聞く>
◎ル・コルビュジエ作品の魅力と人間性に迫る
◯革新的なものを生み出すパワーの裏側
・第一次大戦後、コルビュジエがパリで活動し始めた頃、建築界は保守的な既成勢力と改革派に二分していた。改革派のコルビュジエは足を引っ張られることが多かった。コルビュジエはスイスの田舎出身でヨーロッパの既成勢力でなかったので、既得権益の外部にいる人間が這い上がるには、それに取り入るか、改革を打ち出して対抗する以外にない。保守的な考えに繋がる感情を封印し、反対方向に舵を切った。
 特にパリは、「石」の持っている存在感が町をつくっている時代だった。パリ人は壁の建築に対する安心感があったし、石が持っている建物としての存在感に対する愛着は強かった。しかし、彼は一貫して主義主張を発信し、支援者を増やしていった。さらに、住宅だけでなく都市計画案を掲げて改革を主張した。
 都市計画は1920年代から始めているが、最初は機械的な構想。しかし、1930年の都市デザイン《輝く都市》から生命体へのアナロジーを伺える。
 建ぺい率は少なくとも高層化によって空き地がたくさんできるという案と、自動車交通を主体にした交通網を提案。階層化して上下を使い分け、人間と道路のレベルを分けるというプランを1922年にすでに立てていた。
 コルビュジエ作品三代傑作
 …サヴォア邸(幾何学に基づく普遍性を追求した集大成)
 …ロンシャンの礼拝堂(「機械」とは正反対の「生のイメージ」)
 …ラ・トゥーレット修道院(様々なイメージを自由に組み合わせた)
※パルテノン神殿が持つ完成度に対する嫉妬心と、完成してしまうと動きが止まる=死んでしまう、という信念があったかもしれない。流れを絶たずに常に動く「生」を大事にし、設計するときにも、建物の中で人間が生きるということを大切にしていた。コルビュジエは、とにかく動くことをやめたくない、生きていることが好きな人。

※激しくドラマチックに生きる
 世界のトップに同格に扱ってもらうことを好み、積極的に近付いて巧みに利用した。時代感覚を嗅ぎ取る能力に優れ、やりたいことを実現するための手段は選ばない傾向があった。
 
※他人に厳しい一方で家族思いの一面も
 母に対する愛情は特に強く、評価されたいという思いがあった。家族以外には画家のレジェとは仲が良かった。

※人間的には、強い人ではなく、強がりな人。逆に言うと、本当は気弱だから強がっていたかも。あれだけ強くやるっていう人は、実は自信がないからかも。彼は若い頃ありとあらゆることに噛み付いている。名声が高まってからも自分の考えを相手構わず主張し続けた。

※ピュリスム
 ル・コルビュジエはパリで当時の最先端の美術様式であるキュビズムに出会う。しかし、時が進むにつれ、細かく分解さればらばらに配置されてしまうことに批判が起き、オザンファン主導で提唱された芸術運動。初期のル・コルビュジエに影響を与えるものの、ピカソやキュビスムへの憧れや魅力が断ちがたく、ついにはオザンファンと袂を分かつ。


◎巻末特集 日本でル・コルビュジエに触れる
◯日本でル・コルビュジエの美術作品を堪能できる(大成建設ギャルリー・タイセイ)
・世界有数のコレクション数
 1992年新宿区の大成建設本社内にギャラリースペース(一般開放)

・一部のコレクションを国立西洋美術館へ寄託
 2009年にギャラリーを横浜に移した際、スペースの都合で一部作品を寄託。
「コルビュジエが建てた美術館で本人の作品が見られるのは日本だけ」

・さまざまな角度からコルビュジエを読み解く
 ギャルリー・タイセイでは、コレクションの公開だけでなく、ル・コルビュジエの発想の源になったことやインスピレーションのきっかけになったものにも注目し、彼の軌跡や人生観を掘り下げて紹介するなど、ユニークな企画展示が楽しめる。
ル・コルビュジエ自身が才知溢れる人々に刺激を受けながら様々な活動をしていたので、切り口はつきない。

・ギャルリー・タイセイの展覧会
 現在は年間2本のペースで企画展が行われる。

◯ル・コルビュジエと絵画作品
・絵画でコルビュジエをひも解く
 建築家を目指す前から絵を描いており、コルビュジエを知る上で、絵画はこれから研究されていく分野

・自由な表現を絵画で楽しみ建築に反映
 コルビュジエはたくさんの絵画作品を残しており、「牡牛」は、第二次大戦後の代表的なモティーフの一つ。
 コルビュジエのクリエイティブな要素が直に表れているのが絵画であり、それを自身の建築にも反映させることで、自分のアーティスティックな面を打ち出したかったのかも。
 彼がさまざまなかたちでのこしたアートワークから学べることはたくさんあるだろう。

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