最近感じること(ブログ版)

粕井貫次の書き下ろし個人エッセイ

「最後の特攻」への返事

2013年02月01日 | 感動したこと
 過日「大阪シニアクラブ」の会合で昨年の11月号「特攻」に掲載された私への
特攻インタービュー記事のコピーをくばり、1時間あまりお話をしました。お聞き
になっていたMさん(何十年来の親しい友人)から、その時のご丁寧な感想のお手
紙をいただきました。その手紙には商社で後輩でアメリカに勤務したことのある
Aさんが、アメリカの雑誌に掲載された特攻に関連した写真などを送っていただき
大変喜んでいます。
 ところで特攻について私の思いを次の通りお返事しました。
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拝啓 お手紙ならびにAさんからの貴重な資料などお送りいただき有難うございました。いかにも私が憂国の士のように思われていますが、あの当時は日本全国が殆どそのような心境でした。東京、横浜、名古屋、大阪、神戸など主要都市は焼かれ、その上、廣島、長崎は終戦直前に原爆で壊滅し、20万人もの犠牲者がでました。
 国内の太平洋海岸線には蛸壺を掘り、敵の上陸に備えました。婦女子ですら消火活動はもとより、竹槍での訓練を受けていました。中等学校や女学校の生徒も軍需工場へ動員されていました。もちろん飛行機の搭乗員は特攻が当たり前のような情勢でした。ロケット人間爆弾(桜花)や人間魚雷(回天)など、特攻機以外にも必死の兵器がどんどん開発されていた時代でした。われわれ特攻隊員は全員が死は当然の覚悟の心境でした。
 ところで特攻機の出撃といいますと、陸軍の基地があった知覧が有名ですが、これは戦後知覧に特攻平和会館が出来、そこを見学する人が非常に多いからです。九州から出撃した航空特攻戦死者の人数は次のとおりです。(他の基地から九州の各地をへての特攻出撃での戦死者数)は次の通りです。
 1 海軍 鹿屋基地 908人(戦時中1度航空隊の司令の安田中佐を航空機で国分航空隊からお迎えに行ったことがあり、出迎えた飛行隊長らの目前で満点の着陸をした今でも忘れられない記憶があります。戦後も一度そこの海上自衛隊航空基地資料館を見学しました)。
 2 陸軍 知覧基地 436人
 3、海軍 第一国分・第二国分基地 427人(昭和19年7月~20年1月、分隊士兼教官の後特攻編成、昭和20年7月下旬よりここで特攻出撃待機)戦後は第一国分基地は陸上自衛隊国分駐屯地になっており、二度訪問しました。戦後は第一国分基地は陸上自衛隊国分駐屯地になっており、二度訪問しました。営門の前に顕彰碑に拝礼、営内には資料館があり、私が先任分隊士をしていた甲飛13期、機練39期分隊の隊内駆け足競技大会での優勝の記念写真が展示され、その中央近くに私が写っていました。第二国分基地は現在鹿児島空港になっており一度顕彰碑を拝礼した記憶があります。
営門の前に顕彰碑に拝礼、(戦時中特攻死され私と間違われた粕川宏氏の名があり・私の兄は粕井宏でありそのころの私の名は完でしたから)た営内には資料館があり、私が先任分隊士をしていた甲飛13期:飛練39期分隊の隊内駆け足競技大会での優勝の記念写真が展示されており、前列の中央近くに私が写っていました。第二国分基地は現在鹿児島空港になっており敷地内の顕彰碑に拝礼した記憶があります。
 4、海軍 宮崎基地 387人
 5、海軍 串良基地
 6、陸軍 万世基地 261人
 7、海軍 出水基地 200人
 8、海軍 指宿基地  82人(博多、詫間での水上機教程での親しかった同期生が含まれる)
 9、海軍 都城基地  
 別の資料で特攻隊での戦死者は海軍が2531人、陸軍が1417人と聞いたことがあります。これは海洋での作戦は海軍の分野であり、海軍の搭乗員は洋上作戦が多く、航法を任務とする偵察員が搭乗員の半数を占めていたことも原因しています。陸軍は陸地上空での飛行が主で、洋上作戦には海軍の偵察員が陸軍機に搭乗し、航法を担当した例もかなりあったと聞いています。
 以上、参考になればと思い付則いたします。また大阪シニアクラブでお逢いしましょう。 お元気で                               敬具  

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