カニさんの家

I wanna become a person who can feel small happiness a lot!

善行評価法

2007年11月09日 11時33分42秒 | Weblog

最近はなんだかずるがしこい人、どっちかってと悪い人が気分的にも得をすることが多いように思う。(例えば何でも言ったもん勝ち!とかキレちゃったもん勝ち!みたいな)
以前から僕は「いいひと」が評価されにくい世の中だなーと思い続け、なんとかして「良い人」の「善行」がその人の評価にプラスされないかと考えていました。
まず「いいこと」ってどんなことだろう?? 
「募金」「ボランティア」「お年寄りに電車で席を譲る」など色々思いつきます。
とりあえずこれら挙げた3つは一通りやったことがあるけど、もちろん見返りを求めてやったことは一度もありません。これらは「無償」であるからこそ「良いこと」として褒められることであるように思います。しかし、これらを「偽善だ」という人がいます。
なぜだろう??
善行は見返りが裏にあるはずだ、見返りを求めない行為は「偽善」であるというのでしょうか? 少なくとも自己犠牲をはらっているのを見たときに「あのひとは良い人だ」と俺は感じます。 奇麗事ばかり並べて何も行動をおこさない人こそ偽善者であって、実際に行動する人はその時点で善行を行っている良い人であるはず。行動の裏に下心があるかどうかで偽善かどうかが決まってしまうのでしょうか? 

「偽善とはどのようなことを言うのか」ちょっといろんな人に意見を聞きたいです。
例えば、ベジタリアンでない動物愛護団体の人はどうでしょう? 好物が焼肉という動物愛護の人はちょっと胡散臭く感じてしまいますよね? でもこの人たちの行動によって救われる動物がいることも事実です。ボランティアのように見えて実はお金が動いている・・・とかの話は考えないでください。。

他にも、映画「不都合な真実」で地球環境破壊の危機を呼びかけノーベル平和賞を受賞したアル・ゴア氏の実家の電気代は、同じ地域の一般家庭の数倍の月20万円だそうな。。これを「自分の家では地球環境に悪いことをそれだけしていて、えらそうなことだけ言っている彼は偽善者だ!」と市民が怒っているニュースを以前見ましたが、彼ほどの規模で環境問題を投げかけ影響を与えた人はいません。彼が一般家庭と同じ生活レベルで活動をしていたらノーベル平和賞を取れていたでしょうか?? それは彼が活動を行うのに必要な経費であって、それを補うのに十分な活動を彼はしていると思います。彼の行為は偽善でしょうか?
俺に言わせたら、モザイクをかけられ匿名という立場でインタビューを受け、ゴア氏を非難していた一般市民のほうがどーかと思います。 「で、あなたは地球環境のために何をしているんですか?」と聞いてあげたいです。
話は飛躍しますが、誘拐犯の情報だって懸賞金が掛けられるとたんに一般人からの情報が増え、おそらく全情報に含まれる有力情報数は減る。お金目当てで電話をする人が急に増えるからです。 しかし、被害者の親族はできるだけ多くの情報を集めて犯人を捕まえたいと真剣なのでしょう。しかし、僕が思うに見返りを求めずとどいた情報の方が幾分か信憑性もあると思うし、有力な情報である確立が高いように思います。情報量がいたずらに増えると、情報を集める警察官の士気も下がり、効率が悪くなるように思います。
懸賞金目当ての情報提供は偽善でしょうか?

しばらく考えて「善行は公に評価されすぎてもいけないのかもしれない!」と思いはじめました。もし見返りを求めない行為を「真の善行」とするならば、その行為に対する評価は形あるものであってはいけないし、形が無くても生きているうちに自分の評価に関わるような事であってもいけない。
最初は「いいことをされると嬉しいし、その行為が評価されるシステムがあれば良い事をする人が増えるのではないか」と考えていました。しかし、評価の内容がおいしいと感じるとそれを目当てにした行動をする人も増えることでしょう。 
それでは偽善が混じってしまいかねない。 

良い事をする良い人は無償の行為を行える人のこと!
その人への評価がお金などで与えられては「偽善」になってしまうので、その人を偽善者という言葉から守る意味でもされるべきではない。

その人の善行に対する評価は・・・ 
その人が亡くなった時、お葬式に来てくれる人数が一番わかりやすく示してくれるかもしれませんね

俺が死んだら何人泣いてくれるだろう?? (笑)