「陸上競技は、水泳や柔道などとともに、オリンピックの花形種目である。しかし、逆に言えば、これまでは4年に1度の五輪イヤー以外は一般的に注目されることが無かった。
そんな傾向が変わったのは、民放各局が世界選手権を独占中継するようになってからではないかと思う。「世界陸上」がさきがけとなり、「世界水泳」、「世界柔道」が生まれた。
来年の春には「世界野球」が誕生するようだが、どうしたものかな。野球というのは、唯一、五輪の影響を全く受けずに普及し、人気を集めたスポーツだったのに。(大相撲もそうだ。)野球までもが、「世界と闘う日本代表チーム」の活躍で人気回復を図ろうとするなんて、時代は変わったものだと思う。
「三つ子の魂百までも」と言われるが、子供の頃に見た五輪の印象というのは、スポーツに対するイメージに大きな影響を与えるものではないかと思う。1961年生まれで、メキシコ、ミュンヘン、モントリオールで五輪を認識した僕からしてみると、アテネ以前の日本男子体操の低迷期や、バレーポールでメダル獲得どころか、五輪出場さえ果たせないという現状が情けないものに思えて仕方がなかった。
逆に、水泳と陸上で入賞ゼロのモントリオール五輪を知っているせいか、日本人が水泳で金メダルを取ったり(ミュンヘンの田口信教さん、青木まゆみさんを忘れたわけではないが。)、マラソン以外の種目で入賞することがとてつもない快挙に思えてしまうのだ。先にその「屈辱の地」で行われた世界水泳で、日本は過去最多のメダルを獲得したが、金メダルがゼロだったことに不満の声もあったようだ。バチアタリものめ。
アテネ五輪の金メダリストや世界記録保持者が次々と欠場を表明した今回の「世界陸上」、エルゲルージには、ぜひとも、パーポ・ヌルミの故国を走ってもらいたかったが、室伏広治の欠場はやむを得ないこととは言え、
「これで、日本のメダルがゼロになりはしないか?」
と心配にさせられた。
為末大に、本当に救われた。彼の決勝レースを寝過ごして見逃したことは、一生の不覚かもしれない。
さて、「スポーツ・ナビ」のサイトにて、「世界陸上」の総合プロデューサー氏のインタビューが掲載されていたのだが、
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/other/athletic/iaafwc2005/column/report/200508/at00005669.html
それによると、「世界陸上」のコンセプトは、
「世界のトップレベルの選手を中心に見せていく。『がんばれニッポン』は必要ない。」
のだそうである。
これには、僕も納得できる。インタビュアー氏も指摘していたが、『がんばれニッポン」を全面的に押し出しすぎると、
「本来なら実力の及ばない日本人選手を、意図的に強く見せるような過剰演出につながってしまうからだ。ニッポンコールの連呼は、ある意味で視聴者を欺くことになる。」
になるからだ。何とは言わないが、そんな光景にうんざりさせられている競技もある。
とは言え、これまで陸上競技に縁もゆかりも興味も無かった視聴者を引き寄せるというのも至難の技である。ツッコミネタの宝庫である、あのヘンテコリンなキャッチ・コピーや、身内の不幸を連呼する選手紹介も、そのための努力の成果なのかもしれないが、なんとかならないものかねえ。
気になることがある。大多数の日本人のスポーツ観がやたらとナショナリスティックに傾いていないだろうか?昨年のアテネ五輪、予想以上のメダル・ラッシュで大いに盛上がったが、その分、日本人が不参加の種目(陸上の男子100m
決勝など)の扱いが小さかったし、世界のトップ8に入れば、本来なら「快挙」と称賛されてしかるべき種目まで、
「メダルに届かず!」
としか評価されなかったり。
ビヨン・ボルグやジョン・マッケンローや、ディエゴ・マラドーナたちが、飲み会の席での話題の的だった、僕自身の学生時代が懐かしくなってくる。僕は決して、「マニアック」なスポーツ・ファン集団に属していたわけではない。深夜のテレビ中継で見た、海外のスター選手のプレイそのものに、素直に感動していたのだ。そして、松岡修造が、マッケンローを「本気にさせた」だけで、大騒ぎしていた。
海外のスポーツ情報が過剰になった今、僕たちの「スポーツ」を見る目は果たして肥えたのだろうか、先細ったのだろうか?
人気低落が止まらないプロ野球(の巨人戦)以上にひどい状態なのは大相撲だが、それもこれも、「世界大相撲」が無いから、というわけではないだろうな。五輪の正式種目ではないゆえに、国体の実施種目から外される競技を学生時代にやっていた者にしてみれば、時々、
「『世界と闘う』ことだけが、スポーツの目的じゃないやろ?」
と声を大にして叫びたくなる。
何が言いたいのか、自分でもわからなくなってきた(苦笑)。
まあ、世界の一流アスリートの技を楽しむのも、自国の選手の活躍を応援するのも、もっと「上手に」したいものである。
そんな傾向が変わったのは、民放各局が世界選手権を独占中継するようになってからではないかと思う。「世界陸上」がさきがけとなり、「世界水泳」、「世界柔道」が生まれた。
来年の春には「世界野球」が誕生するようだが、どうしたものかな。野球というのは、唯一、五輪の影響を全く受けずに普及し、人気を集めたスポーツだったのに。(大相撲もそうだ。)野球までもが、「世界と闘う日本代表チーム」の活躍で人気回復を図ろうとするなんて、時代は変わったものだと思う。
「三つ子の魂百までも」と言われるが、子供の頃に見た五輪の印象というのは、スポーツに対するイメージに大きな影響を与えるものではないかと思う。1961年生まれで、メキシコ、ミュンヘン、モントリオールで五輪を認識した僕からしてみると、アテネ以前の日本男子体操の低迷期や、バレーポールでメダル獲得どころか、五輪出場さえ果たせないという現状が情けないものに思えて仕方がなかった。
逆に、水泳と陸上で入賞ゼロのモントリオール五輪を知っているせいか、日本人が水泳で金メダルを取ったり(ミュンヘンの田口信教さん、青木まゆみさんを忘れたわけではないが。)、マラソン以外の種目で入賞することがとてつもない快挙に思えてしまうのだ。先にその「屈辱の地」で行われた世界水泳で、日本は過去最多のメダルを獲得したが、金メダルがゼロだったことに不満の声もあったようだ。バチアタリものめ。
アテネ五輪の金メダリストや世界記録保持者が次々と欠場を表明した今回の「世界陸上」、エルゲルージには、ぜひとも、パーポ・ヌルミの故国を走ってもらいたかったが、室伏広治の欠場はやむを得ないこととは言え、
「これで、日本のメダルがゼロになりはしないか?」
と心配にさせられた。
為末大に、本当に救われた。彼の決勝レースを寝過ごして見逃したことは、一生の不覚かもしれない。
さて、「スポーツ・ナビ」のサイトにて、「世界陸上」の総合プロデューサー氏のインタビューが掲載されていたのだが、
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/other/athletic/iaafwc2005/column/report/200508/at00005669.html
それによると、「世界陸上」のコンセプトは、
「世界のトップレベルの選手を中心に見せていく。『がんばれニッポン』は必要ない。」
のだそうである。
これには、僕も納得できる。インタビュアー氏も指摘していたが、『がんばれニッポン」を全面的に押し出しすぎると、
「本来なら実力の及ばない日本人選手を、意図的に強く見せるような過剰演出につながってしまうからだ。ニッポンコールの連呼は、ある意味で視聴者を欺くことになる。」
になるからだ。何とは言わないが、そんな光景にうんざりさせられている競技もある。
とは言え、これまで陸上競技に縁もゆかりも興味も無かった視聴者を引き寄せるというのも至難の技である。ツッコミネタの宝庫である、あのヘンテコリンなキャッチ・コピーや、身内の不幸を連呼する選手紹介も、そのための努力の成果なのかもしれないが、なんとかならないものかねえ。
気になることがある。大多数の日本人のスポーツ観がやたらとナショナリスティックに傾いていないだろうか?昨年のアテネ五輪、予想以上のメダル・ラッシュで大いに盛上がったが、その分、日本人が不参加の種目(陸上の男子100m
決勝など)の扱いが小さかったし、世界のトップ8に入れば、本来なら「快挙」と称賛されてしかるべき種目まで、
「メダルに届かず!」
としか評価されなかったり。
ビヨン・ボルグやジョン・マッケンローや、ディエゴ・マラドーナたちが、飲み会の席での話題の的だった、僕自身の学生時代が懐かしくなってくる。僕は決して、「マニアック」なスポーツ・ファン集団に属していたわけではない。深夜のテレビ中継で見た、海外のスター選手のプレイそのものに、素直に感動していたのだ。そして、松岡修造が、マッケンローを「本気にさせた」だけで、大騒ぎしていた。
海外のスポーツ情報が過剰になった今、僕たちの「スポーツ」を見る目は果たして肥えたのだろうか、先細ったのだろうか?
人気低落が止まらないプロ野球(の巨人戦)以上にひどい状態なのは大相撲だが、それもこれも、「世界大相撲」が無いから、というわけではないだろうな。五輪の正式種目ではないゆえに、国体の実施種目から外される競技を学生時代にやっていた者にしてみれば、時々、
「『世界と闘う』ことだけが、スポーツの目的じゃないやろ?」
と声を大にして叫びたくなる。
何が言いたいのか、自分でもわからなくなってきた(苦笑)。
まあ、世界の一流アスリートの技を楽しむのも、自国の選手の活躍を応援するのも、もっと「上手に」したいものである。
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