1月31日、新コースで開催された愛媛マラソンでの僕のゴールタイムである。2年ぶりのマラソン完走。2年前よりも56分37秒長い時間、走っていた。
30回目のマラソン出場のうち、25回目の完走、初めて4時間オーバーの完走となった。完走とならなかった5回のマラソンは4時間以内の関門制限に引っ掛かったものであるが、もし、そのままゴールまで走っていたら、5時間以内ではゴール出来ていたかもしれないが、それは死んだ子の年を数えるような想像かもしれない。意味のあることではないと思う。
スタート前には書かなかったことだが、昨年の末、12月20日の日曜日の練習で、左足の太腿裏の肉離れを再発させてしまった。以後、1月31日のレース本番まで25kmしか走れなかった。レース1週間前には30分で4kmしか走れずに練習を止めた。
松山市の中心部である愛媛県庁をスタートして、自分のホームタウンである北条を折り返すという最高の舞台に、最悪の体調で立たなければいけない悔しさにひたすら耐えた。地元の大会で無かったら迷わず欠場していただろう。完走どころか、近所の人や親戚らが応援しているポイントまではとにかく走ろう、と思ってスタートした。左足はテーピングとサポーターで固定し、ロングタイツでそれを隠した。
当日の天気は雨だった。3年前の第一回の東京マラソンのように。
足の具合を気にしながら、あのマントラを唱えていた。
「善い足、善い足、大丈夫か?」
前半は思ったよりも快調に走れた。5kmを28分台のペースで通過。少し飛ばし過ぎか?1km6分で行ければ上出来と思っていたが。10km地点の手前で沿道がざわついた。
「ノッチだ。」
「ノッチが来たぞ。」
オバマ大統領のそっくりさんとして脚光を浴びた、愛媛出身の芸人、ノッチが今回ゲストランナーとしてエントリーしていたのだが、僕の後方からスタートして、追いついてきたのだ。僕が彼の事を知ったのは13年前、東京シティマラソンに出場するために来日していた南アフリカ共和国の“はだしの天才少女”ゾーラ・バットと勝負するというテレビ番組の企画で1500mで4分台のレースをしていたのだ。応援のために両親が愛媛から上京していたというのを聞いて驚いた。翌日、当時の職場の、高校時代に陸上部にいた先輩社員から
「あいつ、聖陵で3000m障害でインターハイに出ていたんぞ。」
と教わった。聖陵というのは松山聖陵高校のことで、俳優の藤岡弘氏の母校でもある。
ノッチの走りで沿道は沸き立った。なるほど、こうした大会に有名人のゲストは必要不可欠だなということが分かった。ずっとノッチについて行きたかったが、今の自分では無理だ。20kmは1時間55分台、中間点は2時間2分台で通過した。せめて、去年の5月の48歳の誕生日に48km走った際の42kmの通過タイム、4時間20分でゴール出来れば。
しかし、そこまでだった。近所の人も、高校時代に野球部にいて、西本聖さんから外野フライを打ち上げたことが自慢の従兄弟や、土佐礼子の中学時代の担任教師だった姉の目の前は歩かずに通過出来たが、そこから先が長かった。
長い坂道。実は上りよりも下りの方がきつい。昨年まで水しか無かったエイド・ステーション、(その代わり、参加者全員がスペシャルドリンクを出せた。)今回はスポーツドリンクにバナナ、パン、梅干、そして松山名物坊ちゃん団子まで用意されていた。バナナが美味かった。こんなに美味しいバナナは初めて食べた。そもそも、フルマラソンの途中で物を食べたのが初めてだった。
4時間過ぎてしまえばもう、4時間30分も5時間も同じことだと思った。しかしせめて5時間は切りたい。マントラの文言が変った。
「善い足、善い足、よくやった。」
ゴールラインを越える時に「Rejoyce!」と口にすること、覚えていた。しかし、ゴールまで最後の1歩を踏み出した時、僕は黙っていた。
「こんな結果でRejoyce!とは言えない。」
完走は出来た。しかし、楽しくはなかった。これが今の自分の力だ。過去の貯金は全て使い果たしていて何も残っていなかった。元Jリーガーの参議院議員にも、1つ年上の松山市長にも敗れた。もはや忙しいからという言い訳は出来ない。彼らの方がもっと忙しいはずだからだ。
それにしても、制限時間の緩い大会がこんなにきついとは思わなかった。去年までなら、20km地点の関門でレースを止めさせられていただろう。今回から制限時間が6時間に延びたために、6時間過ぎるまでは誰も止めてくれない。自分から止めると言わない限り、6時間までは走り続けなくてはいけない。昨年の5月5日の誕生日以来、久しぶりに42kmを走り通した。立ち止まったり、歩いたりしながら。ランニング・シューズが、まるで履いたら死ぬまで踊り続けなければいけない赤い靴になったかのようだった。
太腿の前部と腹筋の筋肉痛に見舞われ、疲労から風邪を引いてしまった。それでも金曜日までは7日の丸亀ハーフ出場を本気で考えていた。早く次のレースを走って、今回の事を無かったことにしたかったのだ。4月にフルマラソン出場も考えた。
しかし、冷静になって、今の状態ではとても無理だと自分に納得させた。あせるなあせるな。身体を作り直すのが先だ。
2月も半ばを過ぎて、ようやく練習を再開したところだ。来年まで待てない。今年中にマラソンを4時間以内で完走して、早く今回の事を忘れようと思っている。
スタートラインに立てるまでにしてくださった、治療院の先生、雨の中、応援してくださった皆さん、大会スタッフの皆さんには深く深く感謝したい。
30回目のマラソン出場のうち、25回目の完走、初めて4時間オーバーの完走となった。完走とならなかった5回のマラソンは4時間以内の関門制限に引っ掛かったものであるが、もし、そのままゴールまで走っていたら、5時間以内ではゴール出来ていたかもしれないが、それは死んだ子の年を数えるような想像かもしれない。意味のあることではないと思う。
スタート前には書かなかったことだが、昨年の末、12月20日の日曜日の練習で、左足の太腿裏の肉離れを再発させてしまった。以後、1月31日のレース本番まで25kmしか走れなかった。レース1週間前には30分で4kmしか走れずに練習を止めた。
松山市の中心部である愛媛県庁をスタートして、自分のホームタウンである北条を折り返すという最高の舞台に、最悪の体調で立たなければいけない悔しさにひたすら耐えた。地元の大会で無かったら迷わず欠場していただろう。完走どころか、近所の人や親戚らが応援しているポイントまではとにかく走ろう、と思ってスタートした。左足はテーピングとサポーターで固定し、ロングタイツでそれを隠した。
当日の天気は雨だった。3年前の第一回の東京マラソンのように。
足の具合を気にしながら、あのマントラを唱えていた。
「善い足、善い足、大丈夫か?」
前半は思ったよりも快調に走れた。5kmを28分台のペースで通過。少し飛ばし過ぎか?1km6分で行ければ上出来と思っていたが。10km地点の手前で沿道がざわついた。
「ノッチだ。」
「ノッチが来たぞ。」
オバマ大統領のそっくりさんとして脚光を浴びた、愛媛出身の芸人、ノッチが今回ゲストランナーとしてエントリーしていたのだが、僕の後方からスタートして、追いついてきたのだ。僕が彼の事を知ったのは13年前、東京シティマラソンに出場するために来日していた南アフリカ共和国の“はだしの天才少女”ゾーラ・バットと勝負するというテレビ番組の企画で1500mで4分台のレースをしていたのだ。応援のために両親が愛媛から上京していたというのを聞いて驚いた。翌日、当時の職場の、高校時代に陸上部にいた先輩社員から
「あいつ、聖陵で3000m障害でインターハイに出ていたんぞ。」
と教わった。聖陵というのは松山聖陵高校のことで、俳優の藤岡弘氏の母校でもある。
ノッチの走りで沿道は沸き立った。なるほど、こうした大会に有名人のゲストは必要不可欠だなということが分かった。ずっとノッチについて行きたかったが、今の自分では無理だ。20kmは1時間55分台、中間点は2時間2分台で通過した。せめて、去年の5月の48歳の誕生日に48km走った際の42kmの通過タイム、4時間20分でゴール出来れば。
しかし、そこまでだった。近所の人も、高校時代に野球部にいて、西本聖さんから外野フライを打ち上げたことが自慢の従兄弟や、土佐礼子の中学時代の担任教師だった姉の目の前は歩かずに通過出来たが、そこから先が長かった。
長い坂道。実は上りよりも下りの方がきつい。昨年まで水しか無かったエイド・ステーション、(その代わり、参加者全員がスペシャルドリンクを出せた。)今回はスポーツドリンクにバナナ、パン、梅干、そして松山名物坊ちゃん団子まで用意されていた。バナナが美味かった。こんなに美味しいバナナは初めて食べた。そもそも、フルマラソンの途中で物を食べたのが初めてだった。
4時間過ぎてしまえばもう、4時間30分も5時間も同じことだと思った。しかしせめて5時間は切りたい。マントラの文言が変った。
「善い足、善い足、よくやった。」
ゴールラインを越える時に「Rejoyce!」と口にすること、覚えていた。しかし、ゴールまで最後の1歩を踏み出した時、僕は黙っていた。
「こんな結果でRejoyce!とは言えない。」
完走は出来た。しかし、楽しくはなかった。これが今の自分の力だ。過去の貯金は全て使い果たしていて何も残っていなかった。元Jリーガーの参議院議員にも、1つ年上の松山市長にも敗れた。もはや忙しいからという言い訳は出来ない。彼らの方がもっと忙しいはずだからだ。
それにしても、制限時間の緩い大会がこんなにきついとは思わなかった。去年までなら、20km地点の関門でレースを止めさせられていただろう。今回から制限時間が6時間に延びたために、6時間過ぎるまでは誰も止めてくれない。自分から止めると言わない限り、6時間までは走り続けなくてはいけない。昨年の5月5日の誕生日以来、久しぶりに42kmを走り通した。立ち止まったり、歩いたりしながら。ランニング・シューズが、まるで履いたら死ぬまで踊り続けなければいけない赤い靴になったかのようだった。
太腿の前部と腹筋の筋肉痛に見舞われ、疲労から風邪を引いてしまった。それでも金曜日までは7日の丸亀ハーフ出場を本気で考えていた。早く次のレースを走って、今回の事を無かったことにしたかったのだ。4月にフルマラソン出場も考えた。
しかし、冷静になって、今の状態ではとても無理だと自分に納得させた。あせるなあせるな。身体を作り直すのが先だ。
2月も半ばを過ぎて、ようやく練習を再開したところだ。来年まで待てない。今年中にマラソンを4時間以内で完走して、早く今回の事を忘れようと思っている。
スタートラインに立てるまでにしてくださった、治療院の先生、雨の中、応援してくださった皆さん、大会スタッフの皆さんには深く深く感謝したい。
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