KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

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アーカイブス「マラソン春秋」vol.15~あれから10年

2008年02月13日 | 「マラソン春秋」アーカイブス
北京五輪女子マラソン代表に内定している土佐礼子。彼女が松山大学在学中に愛媛マラソンを走ってから今年でちょうど10年になる。

ホームページを立ち上げて間もない頃、そのレースについての詳細な記事を書いたので、ここに再掲載しようと思う。

(文章は掲載当時の原文をそのままコピーしています。誤字等については、ご了承下さい。)

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土佐礼子のデビューマラソン
at 2001 01/08 22:39

去年の名古屋女子で、高橋Qちゃんに次いで2位、東京女子ではスタートからトップに飛び出し、後半はチェプチュンバに逆転を許しながらも2位でゴール、どちらも2時間24分台という快挙(日本人で、2レース連続サブ25をしているのは、他にはQちゃんのみ!)を成し遂げた土佐礼子。今年のエドモントン世界選手権代表に内定し、気の早いマスコミは、
「アテネのメダル候補」
と鬼が大爆笑するような称号を与えている。

なぜ、「エドモントンのエース」と誰もいわないんだろう?世界選手権を何だと思っているのだ?

このテーマについては、また改めてふれるとして、今日は土佐ちゃんについて。なれなれしく“ちゃん”と呼んだが、だいたい2文字の名前の女性ランナーは“ちゃん”付けで呼びやすい。“安部ちゃん”とか“千葉ちゃん”とかね。この土佐ちゃん、名前は土佐だが、出身は高知ではない。隣の愛媛県の、ホノルルマラソンの参加ランナーより人口の少ない町である北条市。僕の現住所である。

「それがどうした?」
とつぶやく人もいるだろうが、そんな声は無視してさらに続けると、彼女の出身校松山大学は、かつては松山商科大学といい、僕が5年間もお世話になった学校である。彼女自身と僕は直接の面識はないが、学生時代の彼女を知る人や、彼女の両親(共に高校時代は陸上部員だった)を知る人たちとはつながりがある。

彼女の経歴を語る際に、よく言われるのが
「実質上の初マラソンである名古屋」
という言葉。この言葉に僕はひっかかるものを感じていた。彼女は学生時代に1度マラソンを走っているからだ。まるで、この経験がなかったら、名古屋が初マラソン日本最高だったのに、惜しい、と言わんばかりの物言いが、この大会、愛媛マラソンをメインとしてランナー生活を過ごしている僕には、
「ローカルマラソンをなめるな!日本陸連公認の、五輪代表選手も出場したことのある由緒正しき大会だぞ!」
と思えて、マラソンファンが集うHPの掲示板に書きこんだこともあった。

今にして思えば、赤面の至りだが。

名古屋の直後、故郷に帰省した彼女は、地元のラジオ番組に出演し、
「学生時代に愛媛マラソンを走っていたからこそ、名古屋であの素晴らしいタイムが生まれたんですよね?」
というアナウンサー(ちなみに、愛媛マラソンのラジオ実況を担当)の質問に
「そうですね、学生時代の経験があっての、今のわたしですから。」
と答えていた。地元の関係者に気を遣った分を割り引いても、額面どうり受け止めたい。

さて、このレースがいかなるレースだったのか、名古屋と東京のレースを見て彼女のファンになった方の中には興味津々の方もいらっしゃると思う。愛媛マラソンは毎回、主催の放送局によって、3台の放送車にヘリコプターとオートバイまで駆使して、国際マラソン並みの実況中継が行われる。そのビデオを再生してみよう。

1998年2月22日、正午。第36回愛媛マラソンが曇り空の下、愛媛県総合運動公園陸上競技場をスタート。828人の参加者のうち、女性のエントリーは33人。それまでも、女性の出場は認められていたが、記録は公認されても、女性の部の表彰は無かった。この年より、新たに女性の部も表彰するようになった。

気温は8℃、東南東の風3・5m。風の強さがやや気になるコンディション。

テレビカメラが最初に土佐ちゃんの姿を捕らえたのは、スタートしてなんと50分以上たってから。松山大学の1年先輩である諏訪容子さんと並んで走っている。そもそも、今回の出場の動機の一つは、大学卒業記念に出場した諏訪先輩に付き合う形だったという。三井海上入りして6kgやせたというだけに、現在より顔はふっくらしているし、髪も少し長めで、後ろで束ねている。既に、高校女子駅伝や、都道府県女子駅伝で県内の熱心なファンには名を知られており、スタート前のインタビューも流される。
「とりあえず、完走したいし、3時間を切れればいいと思います。」
「これからたくさんマラソンのレースに出てみたいので、その初マラソンのレースとして、完走をめざしてがんばりたいと思います。」

インタビューで語った、彼女の抱負である。

このときの愛媛マラソンには、他にも話題性の高いランナーが出場していた。1人はアトランタ五輪のボートシングルスカルの代表選手で、シドニー五輪の軽量ダブルスカルで、五輪のボート競技史上初の日本人入賞をはたした、愛媛在住の五輪選手、武田大作君。実は彼はこの大会で3時間2分20秒台でゴールしたことがあるのだ。
「今回は無理はしない。」
とのことだったが、後で聞いたら、リタイアしたらしい。

もう1人は、日本人初のボストンマラソン優勝者、山田敬蔵さん。第1回愛媛マラソンに3位入賞している人でもある。今回は前の週に泉州国際市民マラソンを走ったばかり。山田さんの紹介のために、45年前のボストン優勝の際のニュース映画が流されたが、マラソンマニアにはたまらない一瞬であった。

男子の先頭集団はスローペースの展開で、15kmの通過タイムが50'39。10ヵ月後のバンコクでQちゃんがマークした女子の日本最高記録よりも遅い。ベストタイムが2時間20分を切るランナーがいなかったせいもあるが、遅すぎる。そんな中、中間点を過ぎてから日新製鋼呉の渡辺誠治が集団を飛び出し、1km3分を切るペースまで上げる。それを四国電力の若本和昭が追いかける。共に、愛媛県内の高校出身。レースが大きく動き出した。

女子の先頭、土佐ちゃんと諏訪先輩が中間点を過ぎたのが、1時間27分。ちなみに、このとき僕は足を故障していて、制限時間3時間40分ぎりぎりの完走をめざすペースで走っていた。もし、ベストの体調なら、彼女たちのペースについていけたのにと、いまだに後悔している。

34kmで若本が渡辺をとらえて逆転。渡辺は25kmから30kmの5kmを15'04まで上げたが、急激なペースアップで自滅した形になった。若本はそのままゴールまで独走。2位の渡辺に2分以上の差をつける2:19'32でゴール。中間点通過タイムは1:12'52だったから、後半で6分もペースを上げたことになる。

土佐ちゃんの姿をカメラが捕らえたのは、スタートから2時間27分過ぎ。36km地点に達していた彼女。隣にいた諏訪先輩は既に4km後方に下がり、土佐ちゃんの優勝は確定的になってきた状況。解説していた、都道府県女子駅伝の愛媛県チームの監督である倉田茂氏が
「今後、卒業後も競技を続けたいということですので、1年でも長く走り続けて欲しいと思います。」
とコメント。それに応えてアナウンサーも
「ぜひ、来年も出場して連覇を狙ってもらいたいですね。」
と語る。彼女のゴールタイムは2:54'47。2位諏訪先輩に9分35秒の差をつける。なお、実況生中継は2時45分に終了するので、彼女のフィニッシュシーンは電波に乗らなかった。この日は長野五輪の閉会式が行われた日であった。

翌年、ディフェンディング・チャンピオンの彼女は愛媛マラソンには不出場。初めて、女子の実業団ランナーを招待し、四国電力の浜口美穂が、カネボウの栗林明美とのマッチレースの末に2:42'41で優勝する。彼女のフィニッシュシーンはテレビ中継のエンディングにぎりぎり間に合った。その2ヶ月後、三井海上入りした彼女に、鈴木監督が課した目標は
「来年の愛媛マラソンには、2時間30分台で走ろうな。」
というものだったという。

実は僕の姉は彼女の中学時代の担任教師である。彼女が三井海上に入ったことを陸上専門誌で知った僕は、そのことを姉に言うと、
「あの子は根性ある子やけん、やっていけらい。」
と語っていた。
「電話で、先生、そのうちテレビに出るけん、見よってよって言うてたよ。」
とも語っていた。

東京女子マラソンで、まるで往年の中山選手のように、トップを独走する彼女をテレビで見ていた僕は泣いていた。どうして、ただ、自分が住んでる町に生まれ育った、自分の大学の後輩というだけで、直接会ったこともない女の子の走る姿に涙を流さなければいけないんだと思いながら、泣いていた。

諏訪先輩は卒業後は郷里の徳島で教員になったという。ランニングは今でも続けていて、去年の大阪国際女子マラソンにも完走している。

※※※※※※※※※※

倉田さんの希望通り、10年後の今も彼女は走りつづけている。それも、当時の愛媛の陸上関係者(僕も一応含めて)の誰も想像しなかったような高いステージで。この時、男子の部で9位でゴールしたのは、のちに彼女の夫となる村井啓一さん。当時はNTT四国の社員だった。2人の仲のことは、実は愛媛の陸上関係者の間ではよく知られていた。

昨年の世界選手権は彼女にとって、10回目のマラソンだった。その全てに5位以内で完走。優勝3回。堂々たる実績である。ランナーの端くれでもある僕が最も羨ましいと思えるのは、彼女がアテネとボストン、世界最古のマラソンコースを走っていることだ。

昨秋、一部のメディアが、
「土佐も“ママでも金”を目指す?」
などと報じたが、村井さんにたずねてみると、苦笑していた。今は北京が全てであり、そこから先のことは全く眼中にないようだ。当然のことだろう。今、このようなことを望むのは失礼かもしれないが、北京以後、来年か再来年になるか分からないが、また、愛媛マラソンのスタートラインに戻って来て欲しい。



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