KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

マラソンを愛する皆様、こんにちは。
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あなたもマラソンランナーになれる・・・わけではない vol.10~「1Q94」①

2009年07月25日 | あなたもマラソンランナーになれる
“走り始めてしばらくは、それほど長い距離を走ることができなかった。二十分か、せいぜい三十分程度だったと思う。それくらいで、はあはあと息が上がってしまった。心臓がどきどきして、脚がふらついた。長いあいだ運動らしい運動をしていなかったのだから仕方がない。走ることを近所の人に見られるのも、なんとなく気恥ずかしかった。(中略)しかし継続して走っているうちに、走ることを身体が積極的に受け止めていくようになったし。それにつれて距離も少しずつ伸びていった。フォームらしいものができて、呼吸のリズムも安定し、脈拍も落ち着いてきた。スピードや距離はともかく、なるべく休みを作らないように、毎日走ることをだいいちに心がけた。
そのようにして走るという行為が、三度の食事や、睡眠や、家事や、仕事と同じように、生活サイクルの中に組み込まれていった。走ることはごく当たり前の習慣になり、気恥ずかしさのようなものも薄れていった。スポーツ専門店に行って、目的にあったしっかりとしたシューズと、走りやすいウェアを買ってきた。ストップ・ウォッチを手に入れ、ランニングの初心者のために書かれた本も買って読んだ。そのようにして人はランナーになっていく。”

最新作「1Q84」がベストセラーになっている作家、村上春樹はマラソン・ランナーでもあり、これまでにランニングについての著書も残している。その集大成ともいうべき「走ることについて語るときに僕の語ること」に記されていた、ランニングを始めたばかりのビギナーが、いっぱしの「ランナー」へと変化していく様を描いた部分だ。

実に見事な文章だと思う。ベテランランナーには、
「自分にもそんな頃があったな。」
という感慨を抱かせ、走り始めて間もないビギナーには、
「自分はまだまだだなあ。」
とため息をつかせることだろう。

村上春樹(ちなみに、この名前はペンネームであり、マラソン大会には本名でエントリーしているという。)はちょうど僕より一回り年上の丑年生まれであるが、ランニングを始めたのは、この本によると、1982年の秋、33歳の時だったという。'79年に「風の歌を聴け」で作家デビューした彼が、それまで続けていたジャズ喫茶の経営を止め、作家に専念することを決意して「羊をめぐる冒険」を書き上げた直後だったという。

おこがましい事この上ないが、この辺りに僕は共感してしまった。自分と似ているなと思った。僕が走り始めたのは1992年の初夏、31歳の時だった。ちょうど、結婚生活が破綻して4ヶ月くらいたった頃で、その年の秋に初めて5kmのレースに出場したのであるが、それは何度かの話し合いを経て、ようやく元配偶者からの捺印を貰った離婚届を市役所に提出した直後のことだった。

ノーベル文学賞有力候補作家が専業小説家となることを決意したことと、僕のごとき男の離婚を同列に並べてはいけないとは思うが、いずれも、30歳を過ぎて、人生の大きな転機を迎えたことを契機に、ランニングを始めたことになるのだ。

村上春樹の「初マラソン」は'83年の夏、公式なレースではなく、雑誌の企画でアテネのマラソンコースをアテネからマラトンへと逆走する、というものだったが、僕の初マラソンは'94年2月の愛媛マラソンだった。走り始めた頃、何年か後にはフルマラソンを走りたいと思った。'93年の愛媛マラソンは10kmの部に出場したが、46分でゴールした時にもう、
「来年はフルマラソンに出るぞ!」
と決意したのだった。当時の愛媛マラソンの制限時間は3時間40分。決して、簡単な大会とはいえない。競技歴のないジョガーの初マラソンには不向きだ。単純計算しても、1km5分以内のペースで42.195kmを走り通せないと完走は無理だ。しかし、その時は10kmを50分を切って走れたから大丈夫と思っていた。

'93年の一年間で3回ハーフマラソンに出場し、1時間36分まで記録を縮めてきた。

翌年2月の愛媛マラソン、その一週間前の東京国際マラソンで、早田俊幸が、日本最高記録での優勝を目指しながらもラスト3kmで失速、スティーブ・モネゲッティーとヴァンサン・ルソーに逆転されるレースをテレビで見ていた。マラソンは何が起こるか分からない。

それは僕自身にもあてはまった。僕の初マラソンは30km地点がゴールだった。中間点を過ぎて脚が痙攣を起こし、関門閉鎖時間に47秒間に合わなかったのだ。

2時間30分47秒。青梅30kmロードレースなら、そこそこの順位だったに違いない。制限時間5~6時間のレースに出ていたら良かったかもしれない。

しかし、僕はどうしても初めてのマラソンは地元の愛媛マラソンにと決めていた。愛媛を完走できれば、いわゆるエリートマラソンと呼ばれる国際マラソン以外の大半のマラソンは完走できると思ったし、愛媛マラソンに拘った。国内のマラソン大会は制限時間が厳しいから、初めてのマラソンはハワイへ、などということが出来るほど恵まれた生活はしていなかった。年末繁忙期に一週間も休暇が取れるなんて、どんな仕事をしている人たちだろう。だいたい、日本でできないことするために、をわざわざ高い金を払って外国まで出かけるなんて・・・。

初めてのマラソンが完走できなかったからこそ、僕はマラソンを続けることが出来たと思っている。もし、初めてのマラソンで完走していたら、もうそれで満足して、翌日から走るのを止めていたかもしれない。前年の5月に縁を切った煙草に再び手を伸ばしていたかもしれない。

どうして僕は完走できなかったのか。その理由は今となっては明白だ。1993年の1年間の走行距離の総合計は2081km。マラソンを3時間30分台よりも速くゴールするには、練習量があまりにも不足していた。

1994年という年は、僕の生涯では特別な年となった。僕がマラソン・ランナーになった年だからだ。

(この項つづく、文中敬称略)




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