なんか気が向いたので自分の巨人についての全てを吐いておく。
生まれた時点で、私はすでに読売ジャイアンツのファンだったと
思う。両親が巨人ファンで、ナイターをテレビで見るのを
欠かさない家だったので、胎教も受けていたはず。
幼少期も、家では巨人戦と高校野球が必ずかかっていた。
自分が巨人ファンになった瞬間を、私は知らない。
福岡に引っ越したら、町内会対抗の野球がハンパなかった。
茶山と田島の何丁目ごとにチームが組まれて対戦する。
弟は茶山2丁目チームのピッチャー。
きっと将来は巨人のエースピッチャーになるんだと思っていた。
巨人以外の球団に行くという“発想”そのものがなかった。
そういう時代だったんだなと思う。
2人でたくさんキャッチボールをした。
私のグローブはお下がりで、弟のグローブはもちろん自分用。
弟の帽子は、試合では町内のだけど、普段はもちろん巨人の
野球帽。私も巨人の野球帽がほしかったのだけど・・・
ここで私がロッテオリオンズの野球帽を買うことになったのが
以降「巨人とロッテのファン」を名乗ることにつながる。
小学館の「小学〇年生」という雑誌には「リトル巨人くん」
という漫画が連載されていた。小学生の滝巨人(きよと)
という少年が読売ジャイアンツに入って活躍する漫画。
中畑、篠塚、原、山倉、堀内など当時の人気選手が実名で
そっくりな似顔絵で出ていて、本当に面白かった。
実は幼児期、小中学校時代の私は脳みそも人間的にも
非常に未熟かつ視野が狭くて、江川や桑田のダークな入団の
経緯にどうこう思ったりする感覚はなかった。
私にとっての巨人黄金期は藤田元司監督の下で、
生え抜きのスターたちが活躍し、超投手王国を築いていた
あの時代。もちろん中尾捕手という外様の存在が強さに
影響したのは確かだが、とにかく巨人育ちの素晴らしい
選手たちが活躍して勝っていく、それが私にとっての
読売ジャイアンツだった。
そして斎藤雅樹という、投手としても人としても最高の
選手との出会いは私を巨人ファンから「巨人狂」にした。
高校では巨人ファン仲間を見つけてははしゃぎ、
成人式は「まだ19歳だから晴れ着は着ない」と言って、
オレンジ色に黒の飾りリボンのついたジャイアンツカラーの
6万8千円もしたファッションスーツを着て出た。
日本一になればスポーツ新聞全紙を抱えて大学に行った。
自己紹介には「巨人とロッテのファン」と書いていたが、
巨人9:ロッテ1、いや多分ほぼ巨人10の度合いで
巨人ファンだった。
監督が長嶋茂雄に代わって巨人の良き文化はぶち壊された。
私が子供のころから見ていた読売ジャイアンツは、
自分のチームで育ってきた生え抜き、ずっとおなじみで
いてくれた素晴らしい選手たちの活躍するチームだった。
だが、長嶋は他所の看板を次々に金で買ってきた。
他所のチームの看板選手が並ぶスコアボードに、
巨人、読売ジャイアンツの矜持はもはやなかった。
ホームランを待つだけの退屈な戦略も、すでに目の肥えて
しまった私の野球観にはまったく合わない。
さらに、巨人ファンの多くはそんなものを求めていなかった。
この時期に、私の周辺にいた同世代の巨人ファンは全滅した。
「こんなの巨人じゃないし、プロ野球はもういい」という
感じで野球ファンまでやめてしまった。
私は、斎藤雅樹がいたから、巨人に辟易しつつもファンを
やめることはできなかった。
だが、あんなに好きだった野球中継を見ることは著しく減った。
私にとっての「プロ野球、失われた10年」に入った。
ある日、電話が鳴った。父からだった。
「斎藤引退するって、今会見がテレビで流れてるよ」
滂沱の涙を流しながら引退会見を見た。
長嶋が斎藤、槙原、村田を引退に誘ったという。
だから3人もの選手が同時に引退になった。
桑田も言われたが断ったという。聡明だと思う。
長嶋茂雄はどういう人間なんだ。年寄りにとっては神様だか
なんだかか知らないが、四十代以下の元巨人ファンには
「巨人をダメにした張本人」でしかない。
どんな大金を払っても斎藤雅樹の引退試合は命をかけて
絶対に行くつもりでいた。
だが、あまりに急に、しかも長嶋の勇退と一緒に引退
セレモニーがある日のチケットが手に入るはずもなかった。
長嶋は私から斎藤を見送る機会も奪った。
そして、斎藤雅樹を200勝させず、いくら150勝が
かかった試合だからといっても延長12回まで179球も
投げさせるような無謀な起用で斎藤の晩年をつぶしたことも
許せない。
野球界で、私から誇れる球団と最愛の選手を奪った長嶋は
最も嫌いな人物だ。生涯許す気はない。
2001年、斎藤雅樹の引退で私のプロ野球愛は死んだ。
それは2004年にボビー・バレンタインが再来日して、
私の二番目に好きだった球団・ロッテを魅力的に作り変えて
くれたことでロッテファンとして蘇ったが、もはや私は
「失われた10年」を経て巨人ファンではなくなっていた。
現在の巨人ファンは、FAで他球団の看板選手を買い漁る
ことに抵抗がないようだ。
その一部が飼い殺されて選手生命を無駄に消費していたり、
若手選手の成長機会が阻害されたりしていても、
チームが金を使うことを「頑張っている」と思っている。
「他球団の主力を引き抜けば他所が弱くなって優勝できる」
というやり方にも見えるFA獲りが、セ・リーグ全体の
レベルを下げていることに気づかないのだろうか。
巨人の栄光のエースナンバー「18」を外様がつけることに
なんとも思わない人も増え、背番号への憧れや誇りという
感覚も薄れてしまったようだ。
「球界の盟主」であった「栄光の読売ジャイアンツ」は
長嶋茂雄が滅ぼしたと私は思っている。
自分で手を下しておいて何が「永遠に不滅」なのか。
私の中の栄光の読売ジャイアンツは、藤田元司と斎藤雅樹
とともにある。
あの時代、正力松太郎が「紳士たれ」と説いた理想の
読売ジャイアンツがいた。その時代に巨人ファンで
いられたことが私の人生の喜びである。
生まれた時点で、私はすでに読売ジャイアンツのファンだったと
思う。両親が巨人ファンで、ナイターをテレビで見るのを
欠かさない家だったので、胎教も受けていたはず。
幼少期も、家では巨人戦と高校野球が必ずかかっていた。
自分が巨人ファンになった瞬間を、私は知らない。
福岡に引っ越したら、町内会対抗の野球がハンパなかった。
茶山と田島の何丁目ごとにチームが組まれて対戦する。
弟は茶山2丁目チームのピッチャー。
きっと将来は巨人のエースピッチャーになるんだと思っていた。
巨人以外の球団に行くという“発想”そのものがなかった。
そういう時代だったんだなと思う。
2人でたくさんキャッチボールをした。
私のグローブはお下がりで、弟のグローブはもちろん自分用。
弟の帽子は、試合では町内のだけど、普段はもちろん巨人の
野球帽。私も巨人の野球帽がほしかったのだけど・・・
ここで私がロッテオリオンズの野球帽を買うことになったのが
以降「巨人とロッテのファン」を名乗ることにつながる。
小学館の「小学〇年生」という雑誌には「リトル巨人くん」
という漫画が連載されていた。小学生の滝巨人(きよと)
という少年が読売ジャイアンツに入って活躍する漫画。
中畑、篠塚、原、山倉、堀内など当時の人気選手が実名で
そっくりな似顔絵で出ていて、本当に面白かった。
実は幼児期、小中学校時代の私は脳みそも人間的にも
非常に未熟かつ視野が狭くて、江川や桑田のダークな入団の
経緯にどうこう思ったりする感覚はなかった。
私にとっての巨人黄金期は藤田元司監督の下で、
生え抜きのスターたちが活躍し、超投手王国を築いていた
あの時代。もちろん中尾捕手という外様の存在が強さに
影響したのは確かだが、とにかく巨人育ちの素晴らしい
選手たちが活躍して勝っていく、それが私にとっての
読売ジャイアンツだった。
そして斎藤雅樹という、投手としても人としても最高の
選手との出会いは私を巨人ファンから「巨人狂」にした。
高校では巨人ファン仲間を見つけてははしゃぎ、
成人式は「まだ19歳だから晴れ着は着ない」と言って、
オレンジ色に黒の飾りリボンのついたジャイアンツカラーの
6万8千円もしたファッションスーツを着て出た。
日本一になればスポーツ新聞全紙を抱えて大学に行った。
自己紹介には「巨人とロッテのファン」と書いていたが、
巨人9:ロッテ1、いや多分ほぼ巨人10の度合いで
巨人ファンだった。
監督が長嶋茂雄に代わって巨人の良き文化はぶち壊された。
私が子供のころから見ていた読売ジャイアンツは、
自分のチームで育ってきた生え抜き、ずっとおなじみで
いてくれた素晴らしい選手たちの活躍するチームだった。
だが、長嶋は他所の看板を次々に金で買ってきた。
他所のチームの看板選手が並ぶスコアボードに、
巨人、読売ジャイアンツの矜持はもはやなかった。
ホームランを待つだけの退屈な戦略も、すでに目の肥えて
しまった私の野球観にはまったく合わない。
さらに、巨人ファンの多くはそんなものを求めていなかった。
この時期に、私の周辺にいた同世代の巨人ファンは全滅した。
「こんなの巨人じゃないし、プロ野球はもういい」という
感じで野球ファンまでやめてしまった。
私は、斎藤雅樹がいたから、巨人に辟易しつつもファンを
やめることはできなかった。
だが、あんなに好きだった野球中継を見ることは著しく減った。
私にとっての「プロ野球、失われた10年」に入った。
ある日、電話が鳴った。父からだった。
「斎藤引退するって、今会見がテレビで流れてるよ」
滂沱の涙を流しながら引退会見を見た。
長嶋が斎藤、槙原、村田を引退に誘ったという。
だから3人もの選手が同時に引退になった。
桑田も言われたが断ったという。聡明だと思う。
長嶋茂雄はどういう人間なんだ。年寄りにとっては神様だか
なんだかか知らないが、四十代以下の元巨人ファンには
「巨人をダメにした張本人」でしかない。
どんな大金を払っても斎藤雅樹の引退試合は命をかけて
絶対に行くつもりでいた。
だが、あまりに急に、しかも長嶋の勇退と一緒に引退
セレモニーがある日のチケットが手に入るはずもなかった。
長嶋は私から斎藤を見送る機会も奪った。
そして、斎藤雅樹を200勝させず、いくら150勝が
かかった試合だからといっても延長12回まで179球も
投げさせるような無謀な起用で斎藤の晩年をつぶしたことも
許せない。
野球界で、私から誇れる球団と最愛の選手を奪った長嶋は
最も嫌いな人物だ。生涯許す気はない。
2001年、斎藤雅樹の引退で私のプロ野球愛は死んだ。
それは2004年にボビー・バレンタインが再来日して、
私の二番目に好きだった球団・ロッテを魅力的に作り変えて
くれたことでロッテファンとして蘇ったが、もはや私は
「失われた10年」を経て巨人ファンではなくなっていた。
現在の巨人ファンは、FAで他球団の看板選手を買い漁る
ことに抵抗がないようだ。
その一部が飼い殺されて選手生命を無駄に消費していたり、
若手選手の成長機会が阻害されたりしていても、
チームが金を使うことを「頑張っている」と思っている。
「他球団の主力を引き抜けば他所が弱くなって優勝できる」
というやり方にも見えるFA獲りが、セ・リーグ全体の
レベルを下げていることに気づかないのだろうか。
巨人の栄光のエースナンバー「18」を外様がつけることに
なんとも思わない人も増え、背番号への憧れや誇りという
感覚も薄れてしまったようだ。
「球界の盟主」であった「栄光の読売ジャイアンツ」は
長嶋茂雄が滅ぼしたと私は思っている。
自分で手を下しておいて何が「永遠に不滅」なのか。
私の中の栄光の読売ジャイアンツは、藤田元司と斎藤雅樹
とともにある。
あの時代、正力松太郎が「紳士たれ」と説いた理想の
読売ジャイアンツがいた。その時代に巨人ファンで
いられたことが私の人生の喜びである。