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エクストリーム四十代のかもめ日記

野球を中心に、体力気力に任せて無茶をしがちな日常を綴る暑苦しい活動記。

我が人生の名場面2・少女期編

2020-02-07 15:51:07 | 日記
我が人生全般の転換点や名場面を振り返るエッセイ第二弾。
今回は中学校~高校時代、ときめきの少女期編。

中学1年生の夏休み、私は生まれ故郷の東京都板橋区に帰還しました。
また転校生となったわけですが、今回の転入先は小学校時代の友人が
多数通っている地元の中学校。不安はまったくありませんでした。
いや福岡の小学校に転校したときも不安はなかったか。
案の定、懐かしの友人たちが歓迎してくれました。
日々絵を描いて過ごしている私は、そうした友人たちのたくさんいる美術部に
入りました。美術部とは名ばかりの、アホな遊びばかりしている悪友たちの
巣窟でしたが、楽しい仲間に囲まれていろんな悪いことをして過ごしました。
給食室に返された残りのコーヒー牛乳を盗み飲みしたり、禁止されている
買い食いどころか、部活の時間にラーメン屋に食べに行ったり…
なお、この美術部、学年上位の成績をおさめる女子がずらりと並ぶ、
そうそうたるメンバー。先生方が「優等生」と認識している女子たちの
裏の顔というか「ダメ人間の顔」で過ごす憩いの場でした。

いわゆる優等生ほど変な人が多いのか、この中学の名物男も成績優秀者。
彼は学校にいろんなコスプレをして登校して来たり、校内でコスプレしたり、
正門で不審者の格好をしてフェイクなビラ(ただの白紙)を配って校長室に
呼ばれたり、コスプレ衣装を作っていたせいで遅刻して正門にすがりついたり、
とにかく変なことばかりして目立っていました。
私と、同学年の彼が在学中に阪神が日本一になったのですが、彼は阪神ファン
だったらしく、友人たちとタイガースのはっぴを着て各教室を練り歩き、
「六甲おろし」こと「阪神タイガースの歌」を大合唱していきました。
当時ガチガチの巨人ファンだった私は、半分面白がりつつも「チクショー」と
怒りに燃え、「将来の結婚相手の条件」に「ゴキブリが倒せる人」だけでなく
「阪神ファン以外」という項目を足しました。

この中学校で起こったのが、私に向けられた「〇〇さん黒幕疑惑事件」。
13、14歳の女の子たちは恋するお年頃。ナイショにすることを約束して、
好きな人を打ち明け合う女子トークなんかをやるわけです。
クラスの女子数人で好きな人を語り合った数日後、大事件が…
みんなの好きな人がいろんな人にバレていたのです。
中学生女子にとって「好きな人がバレる」というのは大変なショック。
皆、真っ青になって激怒。私も気が気でない思いをしました。
ある日、その仲間たちが私のところに来て「あの子が犯人らしい。みんなで
問い詰めるから一緒に行こう」と言いました。どうやら言いふらした証拠を
つかんだらしいのです。
私は、皆で取り囲んで責める雰囲気に気乗りしなくて、「いや、私は
一対一で話すわ」と言って参加しませんでした。
疑われた彼女は実際犯人だったようなのですが、その後、彼女はなんと
私のことを「〇〇さんだけが文句を言いに来なかった。絶対おかしい。
〇〇さんが皆に私をいじめさせた黒幕に違いない」と言っていたそうで…
その彼女と親しい女子が、トイレで私を罵りながら個室のドアを蹴っていたと、
たまたま聞いていた友人が教えてくれました。
以降バカバカしいので結局文句も言いに行かず、その彼女と関わるのは
やめましたが、彼女が「中学の時、囲まれて文句を言われたり仲間外れに
されたり、いじめを受けた」と思っているのかもしれないんだな…と思うと、
いじめのうちの何件かは、周囲の人のほうがよっぽど被害者かもしれないと
思いました。だってこれ、私は被害にしか遭ってないよ。なんだ黒幕って。

この当時の私の「好きな人」は、クラスに1位2位3位と好きな人がいて、
でもその誰ともほとんどしゃべったことがなくて、1位の人が私の
「好きな人認定」の人でした。そんでクラス替えのたびにメンツが
総とっかえになるという、「好きとは何ぞや?」状態の女子でした。

こういう「人生を振り返る」みたいな場で具体的に「好きな人」の話が出て
くると、わりと白けるというか「他人の恋愛話をぐだぐだ聞かされるのは
嫌だな」という感じだと思いますが、この中学校で出会った初恋については
私の人生超最大のキーポイントなのでご容赦ください。
中学2年の私は、中学校の委員会の一番偉いやつ(笑)に入りました。
そこで出会った彼は、私の人生の土台となり道標となりました。
男子としゃべるのが苦手なうえに、「顔を見て話したら男子が嫌がる」
とかいう面倒くさい自虐にかられていた超~~暗い勘違い女…それが
当時の私の姿でした。女子が相手なら友人も多くいつも楽しい私なのに、
男子が相手だと途端に何を意識してか殻に閉じこもり、何やら気持ち悪い
変な態度で目も上げずにしゃべる変な奴。
しかし初恋の彼は、女子を分け隔てなく扱って、私に対しても普通に、
いや普通以上に優しく、「顔を見てしゃべったほうがいいよ」と言ってくれる
など、私を徹底的に相手して矯正して正常化してくれました。
そして、彼が素で言った「ウン、僕の友達みんないい人ばっかり」という
言葉は私を驚愕させました。
さきの「黒幕事件」でもわかるように、女子の「友達」の中では、いろいろ
ドロドロしたことが起こります。嫌いな人がいたり、でもそれを隠して
親しいふりをしたりしていて、私は決して「友達みんながいい人」なんて
言えませんでした。
しかし彼はそれを言ってのけ、しかも嘘には聞こえない。
ああ、こういう人っているんだ、と思いました。
そして、この恋はまるっきりかなわなかったけれど、この彼に出会えたこと
自体が自分の人生においてとんでもない幸福だと思うことができました。
その時、私に「幸せを敏感に感知するアンテナ」が生えたのです。
以降、「ああ、そうか、私って幸せな人生だなあ」と思って生きる時間が
圧倒的に増えました。
というか、自分を幸せだと思うことは、それまでいっさいなかった。
私はブスで損をしている、もっと認められたいのに恵まれてないし、
皆はいいよな…というような卑屈な感じ方しかできなかった…
それがぐるっと変わりました。
そう、私はいつだって良き友人に囲まれてきた。しかもたくさんの。
家族にも恵まれている。担任の先生のことだっていつも大好きだった。
自分が普通にすごく幸せだってことに、15歳で気がつくことができた。
それまでは本当に、アンテナが立ってなかったんだと思う。
彼には成人式で再会できたけれど、こんな「人生をありがとう」なんて
会話ができる機会もなく…。私は私の人生を「恵まれすぎて最高すぎる」
と思っていますが、それに気づく能力を授けてくれたのはこの、中学で
出会った初恋の彼なのです。今でも、人生を挙げて全力で感謝しています。

さて、コイバナ的述懐はそのくらいにしておいて。
高校受験を迎えた私は、「あなたは内申点が高いから、都立のレベルを
下げる必要はない。だから、ダメもとでも上の学校を受けると良い」と
中学校の先生に言われたものの、ダメもとの学校は全部落ちました。
進学先は、受験で行った際に仲間たちを震撼させた超謎の汚い都立高校に
決まりました。だって、物理的に各所汚くて壊れてるだけでなく、机の中に
ラグビーのヘッドキャップをかぶった白髪交じりのカツラ(しかもなぜか
黄色いテニスボール入り)が入っているような高校だよ!
受験生が動揺するから、そんな不審物は除去しとけよ!

ここは先生も生徒も変な人ばかりの高校でした。
昭和天皇が危篤の時に「いつ死にますかね」とうきうきしていた先生や、
初日の授業が「私の妻は、白血病で死にました」という身の上話だった先生や、
大学も驚くレベルの実験を次々に課して教科書をまったく開かない先生や、
大半の生徒が使わない道具を「交代で使うときたないから」と全員に強制的に
購入させる先生や、制服がない(みんな私服)なのに毎日スーツで完璧に
キメて登校する生徒や…かなり危険な無法地帯でした。
トイレには学生闘争時代の貼り紙が残ってるし(大学じゃなくて高校なのに!)
床は黒ずんでススが撒かれたみたいに汚いし、窓ガラスヒビ入ってるし、
カーテン下の方破れてなんか茶色くなってるし…物理的にも超汚い!!
そこに生徒が、教室の後ろの黒板の上に飲み終えた空き缶をなぜか並べるし、
運動部の連中が砂を吐き出すスパイクをぽんぽん投げるし…
教室の掃除は「学期に1回だけ」だし、ゴミ箱のゴミ回収は有志がやらないと
誰も、いつまでもやらないし…
夏は弁当を捨てた袋からショウジョウバエが生まれる騒ぎ!
私は時々ゴミ回収をやり、教室を自主的に掃除していました。偉い!

こんな高校だから、いろんなことが「生徒の良識に任せる」感じでした。
お昼は校外に買いに出ようが食いに出ようが勝手。
ここでも悪友たちとバカをやることが最大の楽しみだった私は、後輩たちと
お昼に最寄り駅まで10分の距離を急ぎ、ギリギリの距離まで電車に乗って
出かけていき、ジェラートを食べてダッシュで戻ってくるという無駄な
ミッションをクリアして盛り上がったりしていました。
「人生で一度はやってみたかった」という理由でエスケープもやりました。
同じく、早弁もしてみましたが、緊張してのどがつかえて生きた心地が
しませんでした。早弁は1回でいいやと思いました。

そうそう、この高校では、半分冗談半分本気の「カースト制度」がありました。
当時の都立高校には「学区」があり、学区内の高校にしか進学できなかったの
ですが、我が第四学区は「文京区、豊島区、板橋区、北区」からなります。
その中で一番やんごとないのは文京区様、次に高貴なのは豊島区さんで、
これはもう決まりと言うか論をまたない事実。では三位、四位は?
板橋区と北区のカースト上位争いは、まるで「翔んで埼玉」の埼玉と千葉の
ような状態でした。
いや~確かに、板橋区在住の私の中学校までの通学路は、大半、片側が住宅で
もう片側は畑だよ。雨上がりには手のひらより大きいカエルが必ず道端で
1匹以上死んでいたよ。福岡の友達が遊びに来た時、「板橋農協」の看板を
見て「ええっ! 東京にも農協ってあるの!」と驚かれ、我が家の近所を見て
「すごい、東京に畑がこんなにある!」とさらに驚かれたよ。でも!
「板橋区は北区より圧倒的に人口が多いし、人口密度も高いんだよ! 人が
多く密集して住んでるほうが都会に決まってるだろ!」
「なんだと、北区には山手線が通ってるんだぞ、板橋区はかすってもない!」
まあ、こんなアホな戦いが時々勃発してましたな。
さらに先生まで戦いを煽る煽る。地学の先生が、星の観察の際に、
「文京区、豊島区の人たちは、夜でも明るくて星が見えないと思うので、
夜暗くて星がよく見える板橋区や北区に行くといいですね」
とか満面の笑みで言うわけ。そこで文京区豊島区の人たちがわざとウンウンと
大げさにうなずき、板橋区民北区民が罵り合いを始めるという構図でした。

私がこの高校で何の部活に入ったかというと…
あの、幼稚園時代に「カワイ体操教室のはずが、なぜかピアノ教室に
申し込まれてしまった事件」から10年以上を経て、とうとう「体操部」
に入ったのです!
実際は、美人の先輩に「クッキング同好会でお菓子を作って、その分を
体操部で運動して消費するのよ(ハート)」と勧誘されて「そっかあ…」
と篭絡され、体操部に連れていかれたうえにクッキング同好会も兼部したの
ですが。後から漫画研究会にも入って、3足のわらじになっちゃいました。
そしてこの体操部で、私の人生の大きなターニングポイントが…
私、体の柔軟性は案外あって、初期のころにやる「倒立前転」や
「倒立ブリッジ」が意外とできちゃいました。さらに、女子の新入部員
7、8人のうち3番目に、最初の空中技「前方転回」もできたのです。
もしかしてスポーツできる子だったの? と思いましたが…
筋力不足、体重オーバー、なのに前方転回がちゃんと着地できてしまった
私の脚は、衝撃に耐えきれませんでした。着地を決めたはずなのに、
ぐりっと膝がねじれるような感覚があり、私はばったり倒れました。
「これ絶対脱臼したよな」が最初の感想。しばらく立てませんでした。
部活が終わるまで見学して、帰りはなんとか自宅の最寄り駅までたどり着き、
弟の乗ってきてくれた自転車で帰りました。
私は弟と二人乗りで帰りたかったのですが、カッコいい弟に見事、ラブラブな
二人乗りを拒否られ、自転車を渡されて一人で帰りました。我が家は駅から
ずっと下り坂なので(逆に、行きは全部登り!)自転車があれば、ほぼ
こがないで帰宅できるのです。
翌日、痛みは引いたし歩けるものの、腫れがひどくなったので病院に行くと
「前十字靭帯断裂」の診断。
高校1年生の夏休み~新学期は、手術と2か月の入院で台無しになりました。
そして、手術で腱を移植したり骨を移植したり金属を打ち込んだりして、
翌年の冬に金属を抜く手術をしたりしたので、以降、怖くてスキーが
できなくなりました。もともとスキー好きじゃなかったからいいけど、
大学生になって何度もサークルでスキー旅行に行ったのに、ふもとで
仲間たちを待つだけの時間を過ごす哀れな人でした。
また、そのためにスポーツにより消極的になりました。
ことごとくスポーツに縁がなかった、ということなのかなあ。

3つも部活に入っていた私ですが、文化祭の実行委員もやりました。
合羽橋に使い捨て食器類の仕入れに行ったり、模擬店の仕入れに関する
事務手続きや会計をやったり、すべての支払いが文化祭の後だったり、
各所に何十万円の支払いをしたりと、これまでまったく経験のない
小売店の仕事のようなことができて、とても面白い活動でした。
(うちの高校の「模擬店」は文化祭実行委員会のみが運営可だったので
規模が大きかったのです)

いろいろあった高校時代ですが、私の人生に一番影響があったのは、
中学の美術部からの友人で、体操部、クッキング同好会、漫画研究会、
文化祭実行委員会の全部で一緒だった親友が美人だったことでしょう。
美人と2人で仲よくしていると、ま~あ男子が周囲に寄ってくるのなんの。
もちろん彼らとしては私なんて眼中にないのですが、ないがしろには
できないということです。親友目当てでセットで「コンパ」に呼ばれたり
するのです。皆さんご苦労様だこと。
そして、そういう中で(女性としてでなく人としてですが)私をすごく
高く評価してくれる男子が出てきてくれたりもしました。
「〇〇ちゃんホントにいい人だね! ファンになっちゃったよ」
クラスの中心的存在だった男子の1人がすごく惚れ込んでくれて、
いつも気にかけてくれて、何かあればフォローしてくれて、
「仲間内で入学してから綺麗になった人の話をした時、〇〇ちゃんも入って
たよ」等のうれしい話を教えてくれて、私を引き上げてくれたと思います。
当時私はチャゲ&飛鳥が好きだったのですが、この彼に「飛鳥だけで
充分なのに」ということを言ったら、「そんなことはないよ、彼らは
チャゲの上手さに支えられてるところも大きいよ」という話をして
くれました。確かに、そう言われて視点を変えて聴いたら、曲としての
完成度の高さを下支えしているのはチャゲなんだ、と理解できて、
自分の視野の狭さを反省しました。
こういう華やか系の男子が私にとても良くしてくれたという経験は、
私の自己卑下に満ちた性根をまた新たに矯正してくれたと思います。

プチモテも経験して、今で言ったらほぼストーカーな気に入り方をして
くれた人と、友達のふりをして卒業後に「実は…」という電話をくれた人が
いたりもして、私は「ブスで暗くて気持ち悪い勘違い女」から「普通の女子」
に脱皮できたと思います。中学校で男子への接し方を矯正してもらい、
「幸福感知アンテナ」を授かったことで、いろんな世界が開けました。
好きになったり好かれたり、実は双方向で噛み合っていたベクトルも
あったのですが、結果として高校時代に交際と言える関係に至った男性は
いませんでした。デートとは定義しないものの実質デートと言える外出は
けっこうあったのですが。
もう、中学までの私とは全然違います。これも「幸福感知アンテナ」で
素直に幸福や喜びを感じて表出できるようになった賜物と思っています。

私はあまり年上の人に可愛がられるタイプではなく、同世代とグループで
仲よくして、後輩に慕われる傾向があります。
結果として「終の棲家」となった漫画研究会では、弟分として私を慕って
くれる1つ下の男子、今も公私とも絶大な信頼を置いている1つ下の女子、
のちに親友となる2歳下の男子など、大いなる出会いが多数ありました。

なお、我が母校、愛すべきおかしな都立高校は「4年制」と言われていて、
1浪するのは当然という文化でした。先生も受験で使えない変な教え方
ばっかりするし。
そのせいにするわけではないのですが、中学で成績上位だった私が、
そういうレベルの子が集まるこの高校では「ただの人」以下の劣等生でした。
「勉強がわからない」「答えが出ない」ということを初めて経験しました。
クラスで平均点が35点の数学のテスト(100点満点で平均点がそれと
いうのもテストとしてどうなのか!)で、17点しか取れなかった時には、
あまりのショックで東武東上線の終点、寄居まで乗っていくという
現実逃避をしたりもしました。
「そうか、私って、特別な優等生でもなんでもなくて、ただの人だったんだ」
この高校で、私がリアルに実感して理解したことです。
でも、ただの人でしかないけれど、私って楽しくて幸せで、いいよね…
高校時代には、もうすっかり自己愛とパワーにあふれる私になっていました。
そして「4年制」の定説どおり、私は見事浪人しました。
でも「高校の後輩たちともう1年、一緒に遊んでいられる」という感じで
全然悲壮感はありませんでした。
こうして私の人生が大きく変わった中学、高校時代はおしまい。
恋愛は結局、片想いに毛が生えた程度のことしかなく、十代の女子としては
物足りない青春時代かもしれませんが、本当に充実した時期でした。

我が人生の名場面1・幼少期編

2020-02-03 16:59:55 | 日記
先日、プロ野球に関して「人生を変えた名・珍場面」を振り返りましたが
今回は我が人生全般の転換点や名場面を振り返ってみたいと思います。
まずは小学校時代までの幼少期編。

まず人生が始まる前に私に起こっていた大きな出来事は、両親が
NHK職員だったことでしょう。NHKを愛する人間に育ちました。

次に起こったのは弟の誕生。弟が大好きなお姉ちゃんでした。
のちに弟がめちゃめちゃカッコいい少年・青年に育ったことで、
常に私は「弟自慢の弟好き姉ちゃん」だったと思います。
私の見た目は「かつてはブス、今はなんとか中の下」ってところなので、
「私の弟、超カッコいいんだよ」と言ってどれだけ冷笑されたことか。
いや、私の弟とは思えないカッコよさ。若いころは長瀬智也系で、
少し落ち着く年齢になったら江口洋介にやや寄り、中年に近づいたら
ちょっと高橋克典に寄ってきたかな、という感じですが
45歳を超えた今でもホントにカッコいいです。
今は人気カレー店店主で、インドやタイを放浪するなど自由人な過去を
持つ、決まったレールを生きるのが嫌いでイケメンの弟。
ブスでクソ真面目な優等生を経てずっと会社勤めの地味な姉。
どうやったらこんなに真反対の人種になるのかという稀少な例でしょう。

幼稚園時代、私の人生を大きく変えたのは「ピアノ教室事件」。
私は幼稚園で案内を見たか何かして、「カワイ体操教室」に通いたいと
思いました。それで母にその旨を伝えると、母は「じゃあ申し込んでくる」
と言っていました。しかし…
母はなぜかカワイ体操教室ではなく、ピアノ教室に申し込んで来たのです。
「ママちゃん、ピアノやるの子供のころから夢だったのよね~」
いや体操教室行きたい言うたんよ。ママちゃんの夢どうでもいいんよ。
しかし、巨人ファンなのに「他球団の帽子を買え」と言われても
疑問を持たないような、とても素直(あるいはバカ?)だった
子供時代の私は、体操教室をあきらめて、自分がやりたかったかの
ように、普通にピアノ教室に通いはじめました。
結局中学三年生の受験の時期にやめてしまいましたが、10年間習った
ピアノや音楽の知識はその後の人生でもいろいろ役に立ちました。
この時、ほんとに体操教室に通っていたら全然違った人生だったかも。
2月下旬生まれの私は、当然同じ学年の子より体が出来上がっていなくて、
幼稚園のかけっこその他の運動はことごとく勝てませんでした。
そのせいで、いつも母に「〇〇ちゃんはママに似て運動ダメだから」と
言われ、アルバムの運動会の写真には「ビリでした」と添え書きを
つけられ、ずっと「運動のできない、運動神経の鈍い、運動に
向かない子」という暗示をかけられて育ちました。
あの時、カワイ体操教室に行けていたら、真反対の人生もあったよね。
元気なスポーツ少女の私経由なら、どんな人生だったのかしら。

当時の我が家は家の一角でコインランドリーを営んでいました。
そこには漫画が置いてあり、まだ年端もいかぬ私は少年漫画雑誌が
いまいちわかりづらく、小さな冊子を手に取りました。
なかよしの付録だったかな。志摩ようこ「シャトル 真夏の空へ!」
絵は顔の中心線がずれて変でしたが、内容はとても面白い
バドミントンの漫画でした。
それで、私の夢は「バドミントンの選手」になりました。
しかし運動がダメだダメだと言われたので、その夢はやがて、
「バドミントンの漫画だから、バドミントンがダメなら漫画家になろう」
というよくわからない展開で「漫画家」に変わったのでした。

そういえば、シロアリがいっせいに羽化して、このコインランドリーが
びっしりハネアリに覆われたことがあったなあ。あれはホラーだった。

小学校では無難な優等生だった私。1、2、3年生と同じ担任で、
これがとても素晴らしい人格者で楽しい先生でした。
生徒に「短足ウミガメデブ海ガッパ」という変なあだ名をつけられても
(今思うとなんで海が二回入ってるんだろう)ニコニコしていて、
でも生徒が悪いことをすると容赦なく「お尻を叩くから後ろを向いて」
と言ってきちんと罰を与える、中年というか壮年の男性でした。
先生手づくりの「漢字新幹線」という、満点を取ると駅が進んでいく
システムの漢字ミニテスト、私はクラストップの3人のうちの1人でしたが、
あと1駅のところで、父の転勤により福岡に引っ越すことになりました。
最後のゴール駅は当時の東海道新幹線の終点、福岡の「小倉」。
「漢字新幹線」でなく、私本人が福岡に行っちゃった、というオチです。
この「短足ウミガメデブ海ガッパ」先生、すごいことに、この後
4年が経って私が東京に戻ってきたとき、駅前で、道の向こうから、
「おーい、〇〇か!」と声をかけてきたのです。
私がいなくなったのは小学3年生の夏。再会したのは中学1年生。
確かに、弟が同じ小学校に戻るという情報を得て、私が戻ってきていると
知っていたのかもしれませんが、それでも4年経った元担任の子を、
道の反対側から見分けて、絶対に私だと確信を持って声をかけられるとは。
教師は聖職であり、先生とはなんという素晴らしい人がなるのかと、
感動した瞬間でした。

さて、福岡に引っ越したばかりのころに話は戻ります。
引っ越したのは夏休み中。人生で初めて乗った飛行機を降りて、
自宅となるNHKの社宅にたどり着くと、まだ家具のトラックが
来ていませんでした。
我々は仕方なく、坂を下りてすぐのところにあったラーメン屋さんに
行きました。だがしかしそこは! 知らずに嗅げば悪臭にしか思えない、
博多とんこつラーメンのお店だったのです!
当時は東京に「九州のラーメン」の店がたくさんあったわけではなく、
「九州のとんこつラーメン」なんてものはまったく知りません。
あまりの異様な臭さに衝撃を受ける私と弟、そもそもラーメンが
あまり好きではない母、しかし他に飲食店はなく、お腹もすいて
いたのでやむなく入りました…が!
グルメラーメンなんて概念のない1980年か81年かの頃、
町の普通のラーメン屋で、博多とんこつラーメンの美味しさときたら!
我が家はしばらく、折を見てはそのラーメン屋さんに通うことに
なりました。いや~福岡のとんこつラーメンまじすげえ。
新たな地域文化、福岡の食文化に衝撃を受けた引っ越しの日でした。

学校が始まり、「東京から引っ越してきた転校生の〇〇さんです」
という紹介を受け、初日は転校生らしく挨拶以外ほとんど言葉を
発することなく過ごしました。
そして帰宅しようと下駄箱から靴を出し、コンクリートの上に
落としたところで突然、男の子の声がしました。
「おまえ、のぼしとったい!」
そして靴がボンッと蹴られて遠くまで転がっていき、背後から2人の
男の子が走って逃げていきました。よくある「都会の子いじめ」だったの
でしょう。でも私は、彼らに何らかの悪意があることを認識したものの、
「『のぼしとったい』って、どういう意味だろう????」
ということで頭がいっぱいでした。
その後福岡で、自分もバリバリの福岡弁を使って話すようになり、
「のぼしとったい」が「のぼせてるんだよ=生意気だ、偉そうだ」
という博多弁(福岡弁でなく博多弁!)とわかりました。
当時の彼らに言いたいわ~。
「東京モンだというだけで言いがかりをつけたいなら、
標準語で言ってもらわないとわからないんだよね~」
まあ、悪ガキの粋がったチョッカイということで、私もべつだん
気にしなかったけどね。(何を言われたかもわかんなかったし)
さいわい、福岡の人たちは私をすぐに仲間に入れてくれました。

驚いたのは、私の名字が読めない先生がたくさんいたこと。
実は私の名字は、私の地元の隣町に本家がある土着の一族で、
隣町では「石を投げれば〇〇の名字に当たる」という状態。
小学校は「1クラスに2人ずつ〇〇さんがいる」のが普通でした。
だから、私の名字を間違って読む人がいることに驚愕しました。
歴史上でこの名字の人のことも習うんだけどなあ。
私の下の名前は、同世代なら、東京・福岡を問わずクラスに
3人ずついるような多さです。
だから、東京にいた時は、自分のフルネームを日本に何万人も
いるような超~ありふれたものだと思っていました。
福岡に行ったらなんかわりと珍しい名字でオドロキでした。

東京ではなわとびがさかんです。二重跳びなんてできて当然、
なわとびの検定があって、はやぶさだ何との複合技だなんだと、
超ハイレベルななわとび技ができることを求められます。
私は「二重跳び→はやぶさ」の連続くらいしかできませんでした。
これは、東京ではただの落ちこぼれ、運動のできない子です。
しかし福岡では…
「〇〇さん、すごい! 前に出て模範演技をお願いします」
えっ私が“体育”の授業でデモンストレーションを!?
「二重跳びができればすごいのに、はやぶさまでできるの!?」
それが福岡でのなわとびの実情でした。地域差ってすごい。

さて、一方で福岡では剣道が超さかん。
私が「剣道を習いたい」と言ったせいで、弟まで剣道を習わされる
ハメになりました。弟よすまん。
今回は母もちゃんと剣道教室に申し込んでくれました。
私の通う小学校は、できてまだ3年だかの新しいところで、
剣道教室がなかったため、隣の小学校の少年剣道教室に入りました。
ここはかなり遠く、隣の隣の町にあります。小学生にはかなり重い
防具を積んで自転車で通います。
そこで2年ほど剣道をやりましたが、1級審査には二回も落ちました…。
先生が落ちた理由を聞いてくれたのですが、「姿勢も、気合も、
すごくいい。ただ、動きがちょっと遅いのが…」とのこと。
つまり、ドンくさい動きがダメ、とのこと。
のちに東京に戻ってきて、中学校で剣道を始めてそれほど上手くなって
いるように見えない友人が1級に通るのを見て、「これなら当時の私の
ほうが」と思ったりしたものですが…
福岡は剣道王国。福岡の1級は格別なのだ、と思うことにしています。
一番の思い出は、雪の中、裸足に靴を履いて寒稽古に向かい、
結果的に氷水に足を浸しつつ道場にたどり着くことになって、人生初の
しもやけになったことかな。寒稽古の後に配られてみんなで食べた
ぜんざいが美味しかったのを覚えています。

そして町内会のスポーツがハンパなかったのも地域の特徴。
「茶山二丁目」「田島三丁目」など、校区の中で「〇丁目」ごとに
チームを作り、男子は野球、女子はドッジボールで優勝を争います。
各チーム、オリジナルのユニフォームがあって着用必須。
一体何のでかい大会だよ、という超~激マジな練習が課されます。
大会直前は毎日のように練習。ユニフォームを着てゼッケンを付けて、
ボールから逃げ惑うばかりの私。一方で弟は4年生で町内のエース格。
あのまま弟が5年、6年と茶山二丁目のエースだったなら…
弟が大会に出られたのは小学4年生まででした。5年生の夏には
東京に戻って、地元のチームでサッカーを始めてしまったので…

さて…小学校での私はというと、「漫画ノート」に漫画を描いて
クラスメイトに読んでもらったりしていました。
しかし…中学年の時も高学年の時も、私より圧倒的に上手い女の子が
クラスに必ずいました。
今思うと、その時点で才能のなさを自覚するべきだったのか。
中学年の時のクラスの漫画のものすごく上手い子は2人いて、彼女たちは
名字の1文字ずつを取って「カキ」と称して仲よくしていました。
それがうらやましかった私は、「マンガグループ」を結成しました。
さいわい漫画を描くのが好きな子が仲間に入ってくれて、私は持ち前の
センスのなさから「ザ・マンガグループ」と名づけました。
略して「ザ・マ」。
高学年になってクラス替えがあり、メンバーを募りなおした新しい
マンガグループの名前を、私は一生懸命考えました。
私は真剣に考えれば考えるほどセンスのなさが冴えわたります。
「前は略して『ザ・マ』だったんだから、『マ』で終わる言葉に略せる
名前にしよう。××マ…サンマとか、うーん」
そうね、「サン(太陽)マンガグループ」にして、略称を「サンマ」に
しているほうが、ダサくてもまだよっぽどマシだったね…
私がつけた名前は「通り・マンガグループ」。意味わからん。
略して「通りマ」になるから、って通り魔のこと!?
うん、実際当時の漫画ノートに「通り魔」って漢字で書いてある。
なんか多分、センスがなすぎて脳内おかしな子だったんだと思う。
「通り魔ノート」を何冊も作って描いている小学生って…
そして、私の無駄なカリスマ性というか人集めの才能が発揮され、
クラスの女子全員がこの「通り魔」に入って漫画ノートを作って、
全員が1ページは漫画を描いてくれたというのが私の自慢ですが…
担任の先生が通信簿に書いてくれた言葉が忘れられない。
「とおりまのグループも〇〇さんを中心に動いているようだし、
みんなの中心に立ってとても元気に楽しく活躍しています」
…「とおりまのグループ」を称える文言を書くはめになった先生よ、
本当にごめん。漢字で書くのが憚られた気持ちがわかる。

当時のこの小学校のクラスには、ヤンキーぽい女子というか、
クラスの女子全員ににらみを利かせ、一定の期間をおいて相手を変えて
いじめっぽいことを繰り返す2人組がいました。
実際は特定の子をいじめるわけではないので、なんとなく面倒な存在、
という程度でみんなも仲よくしていたんだけど。
(そういうヤンキー系の子にまで漫画を描かせた私って…)
ある日、彼女たち2人が「〇〇、ちょっとおいで」と私を呼びました。
「ああ、次のターゲットは私なのかな」と思って素直に呼ばれて
ゆきました。すると…
「〇〇、あんたもう、ブラ着けたほうがいいよ、ブラ」
彼女たちは、いじめどころか、私にありがたい忠告をしてくれたのです。
自分の体が大人になることを意識もしたくなかったその頃。まだ全然
そんな必要ないと思ってました。実際、計っても一番小さいサイズの
ブラジャーしか必要じゃなかったのですが、私は渋々ながら、母に
ブラジャーを買ってもらいました。
多分彼女たちに言われなければ自分の体の成長に目をつぶり、わりと
遅くまで放っておいたと思います。そうしたら絶対垂れてたな。
容姿に気をつかうようになってからその有難みが本当によくわかり、
ずっとずっと、彼女たちには心から感謝しています。

そして思い出す、1983年の日本シリーズ…
昔西武は「西鉄ライオンズ」として福岡を本拠地としていたので、
その時のファンを親に持つなどして西武ファンの小学生もたくさん
いたのです。まだホークスも福岡じゃなくて、南海で関西にいたし。
巨人ファン対西武ファンの男子でクラスは真っ二つ。
私は普段男子と全然しゃべらないのに、この時だけは巨人ファンとして
巨人ファン男子の群れに加勢していました。しかし…
巨人が先に王手をかけたものの、その後連敗して日本一は西武へ…
西武ファンから「巨人ファンかっこわりー、へっへー」などの
屈辱的な罵声を浴びせられ、耐えるしかなかった日々は、私を
筋金入りの西武ライオンズ嫌いに育て上げました。
ロッテファンの私は西武に親しみを持っているけれど、巨人ファンの
私は西武が超めっちゃ大嫌い、みたいな感じかな。

あとは、「福岡にいるうちに九州を旅行しておこう。旅費が安く済む」
ということで家族であちこちに旅行したのも良き思い出です。
この旅行の際にバナナチップスを食べすぎて車に酔って吐き、今でも
私はバナナチップスが苦手です。

そして私は福岡で中学生になるわけですが、その中学校には1学期の
間しかいませんでした。そこでもよき友、よき先生に恵まれました。
中学校に植えられた桜の木になっていた、黒くて小さいさくらんぼを
みんなで競って取って食ったのを思い出します。何やっとんじゃ。
そういえば福岡の家の、近所3軒で共有している駐車場の隅では、
木いちごがなるたびに弟と競って食べてたな。
家を出て道を隔ててすぐのところに池があり(汚くてほぼ沼)、
そこで秘密基地を作ったり、ヘドロにひざまで埋まってザリガニを
獲ったりもしました。その池の周囲は四つ葉のクローバーがかなり
多く発生していて、たくさん押し葉にしたものです。
油山にカブトムシを獲りに行ったり。母が庭でインコをつかまえて、
それから長くインコを飼うことになったり。釣りに行って釣り人の
捨てたフグを拾い集めて来て飼ったり。
ほんとに福岡では豊かな経験をいろいろさせてもらいました。
こうして福岡時代は終わり、私の人生は次の章へと進むのでした!

もはやエクストリームではない日々

2019-09-16 08:06:29 | 日記
でかい手術を受けて血液量が800ccも減って、
3週間ほどの入院から帰ってきました。

ホントは「術後3週間の入院」が術後2週間で
出てきたので、基本的には私は普通の人よりも
健康で元気だということなのでしょう。

だが…なんだこりゃ。
体力の減少は感じていたし、早く仕事に復帰しないと
いけないから、じゃんじゃん動き回って体力を回復
しなければ、と思ったら…
退院翌日、動いてみたら全然ダメだった。

徒歩15分ほとんど上り坂の道はまだしんどいだろうと
3分歩いたバス停からバスで巨大スーパーに行き、
母とともにスーパーの中を歩く間に体力が尽き果て…
スーパーの冷房が効きすぎていたこともあって
エネルギーがすべてなくなり、母が会計を済ませて
いるころにはもうろうとして気力だけで立っていた。
帰りのバスは座れてよかった。

こんなんじゃダメだと、夕方徒歩5分のコンビニに
行ってみた。
体力ゲージの減りが半端ない。
ゲージの最大値が減っているのは仕方がないとして、
一歩歩くごとに地面にエネルギーが抜けていくような
すごいエネルギーの減りを見せる。

これまで体力ゲージが100あって、会社行って
球場行って16時間フル活動で残りが10になる、
みたいな感じだったのに…
今はゲージが50しかないのに、10歩歩くと
ゲージが1ずつ減るくらいの感じだ。

退院の翌々日は体中が重くてほとんどじっとしていた。
血液800cc減ったのはさすがにまずい。
しかもこれは若いうちに製造しておいた血液のストック。
今からいくら鉄分を摂っても800cc分を回復する
量は作ってくれなそうだ。
体内の赤血球の量が足りてこその体力ではないか。

元のように無茶ができる身にはもう戻らないのか。
これでは貧血気味で体力がなくてへろへろのモヤシっ子だ。
しかも消化器全般が治療により激弱っている。
私の武器「食って治す」が通用しない…
47歳はここからどこまで回復できるのか!?
これまで自分がいかに漲って恵まれていたのかを痛感する。
また漲った日々に戻れるよう、なんとか必死で頑張りたい。

競艇場(戸田)に降臨した斎藤雅樹を詣でる

2019-08-03 21:28:11 | 日記
8月2日、ネットの記事を読んでいて、我が神・元巨人の大エース
斎藤雅樹がモルツのプロ野球OB戦に出ていたことを知る。
私の存在の土台である斎藤雅樹の情報はとにかく手に入らない。
「もっと情報発信してくれればいいのに」と思って検索してみたら、
戸田ボート(正式には「ボートレース戸田」というらしい)にて
8月3日にトークショーとあった。
…8月3日!? 明日じゃん、しかも戸田ボート比較的近いじゃん。

もう行くしかないでしょう。3日土曜、正午すぎに家を出て、
12:50に高島平を発車する無料バスに乗る。
13:10、人生初の戸田ボートに降り立つ。実は競艇場自体は
初ではなくて、昔仕事で多摩川競艇の売店売り子をやったことがある。
しかし客として場内に入るのは初めてで、ゲートの通り方がわからない。
ガードマンさんに聞いたら、なんとゲートに直接100円玉を入れるの
だそうだ。へえー。

そして場内中を歩き回ったが…いや~まだまだ昭和だね。
テレビのCMは女性にもアピールしているようだが、実際のレース場は
昭和すぎる。また、初心者にはマークシートや舟券の自販機が難しすぎる。
初心者ガイドのボランティアの人とか用意できないんだろうか。
しかも「戸田競艇の第何レース」という基本情報までマークする必要が
あってほんと煩雑。たいがいの人が「この競艇場の次のレース」を
買うんだから、それだけの自販機がほしい。

当然ややこしい舟券は買わずひたすら時間をつぶし、イベント会場へ。
会場はいっぱしのホールになっていた。
ステージを下から見上げるアリーナ的な席でなく、ステージの真正面の
スタンド的な席を30分前に陣取って斎藤待ち。

いよいよ9レースの舟券発売と同時にイベント開始。
斎藤の登場と紹介とともに、司会者の女性が「あら、正面に…?」と、
私をネタにして斎藤に振る。うぎょぉぉ!
斎藤殿堂入り記念Tシャツ&リストバンドに真オレンジのスカート、
荷物は受注販売の「85 SAITOH」トート、しかも
「斎藤雅樹」と大書きされたタオルを掲げる馬鹿がいればね…
斎藤もうれしかったらしく、変なノリで司会者に返す。
「いやあもうあそこはね、ファミリー席ということで」
おいおいおい周囲の人が「斎藤の身内の人?」と思うじゃん!
慌てて「違う違う」と手を横に振って照れてみせる。
事前に周囲を見回して、一目瞭然な斎藤ファンが私だけなのを
確認していたので、絶対にこれは私のこと。私がいたことで
斎藤が「やっぱりまだ人気があるんだなー」と思われますように。

そして斎藤雅樹のトークを聴きながらお姿を眺める至福の時間。
本当にいい人で、明るくて素晴らしいお人柄だよ…

しかも最後に斎藤のサイン色紙と引き換えられるボールを客に
投げてくれるという話で、この展開だと、斎藤は私に投げない
わけにいかないよな…と思ったら、やっぱりそうだった。
最初のボールを、下投げでていねいに私のところに投げてくれた。
十メートルくらい距離はあったけど、そこはさすが元プロ投手。
ありがたくて滂沱の涙、だが私は運動神経がスカスカなので、
左肩付近に来たボールを見事弾いてしまった。周囲の人々は
完全に空気を読んでくれて、何段も下の広い空間に転がった
ボールを誰も追わない。それを慌てて私が取りに行って、
拾って一件落着。

斎藤が直に私にボール投げてくれたあ~
斎藤の投球を(受けそこなったけど)受けたあ~
そして、斎藤からじゃなく係員からだけど、ボールと引き換えに
サイン色紙をもらったあ~…泣泣泣…

9レースの舟券発売中のトークショーはそれで終わりだけど、
次は10レースの舟券発売中の予想会トークがあるの!
だからそのまま、席でがっつり斎藤の次の登板…もとい登場を
待つ。その間、レースの映像を眺めていて、少しだけなら
ボートレースがわかったような感じがした。

そして10レース舟券発売中のトーク開始。私はさっきもらった
色紙を抱いて、また斎藤雅樹様をキラキラ眺めた。
なんと、このトークでは、斎藤が(わからないなりに)
ボートの予想もしてくれる展開!
自身の背番号の41に、今日当たっている6番を追加して
4-1-6の予想をする斎藤に、司会者の女性が声を上げる。
「さあ、斎藤さんの予想に乗る方は? 手を挙げてください!」
私、もともと、今日は「41」の舟券を買おうと思って
来ていたので、当然手を挙げた。斎藤の背番号は、
41、11、85、77、85と変遷したので、「6」までしか
ない舟券で斎藤の背番号を表現するなら「4-1」しかないから。
手を挙げる私を見て、斎藤が指さして「オッ!」と言ってくれた。
けっこう、かまってくれる人なんだよね。二軍コーチ時代、
二軍監督時代にも、こんな一介のファンをかまってくれたっけ…

斎藤は「4と1と6の“ボックス”」で買う指示をステージ下に
出したんだけど、私は「4-1-6の3連単」にする。
そんでステージ近くの舟券売り場に行ったけど、マークシート
ちんぷんかんぷん。前に競馬に連れていってもらって馬券を
頑張って買ったのに、記憶皆無。(多分システム的には近かった)
周囲の人に助けられ、しまいには書いてもらったあげく、
自動券売機も右往左往して周囲の人に声をかけてもらって教わり、
なんとか舟券を買うことができた。おっさんたち、47歳女子に
優しいな。偉いな、若い嬢ちゃん相手でもないのにな。

舟券購入タイムが終わり、ステージ上の司会者と斎藤と報知の記者と
我々客席とで、第10レースを一緒に見る。
結局第10レースは「1-4-2-6…」の順で、斎藤は惜しかったし、
私は大いに外れてしまった。でも、とっても楽しかった。

ステージ上と客席の距離があるとはいえ、巨人の大エース様と一緒に
競艇を楽しむ、という極上の体験をできたこの日…
斎藤雅樹が投球したボールを受け(そこね)たこの日…
贅沢すぎて、どう表現したら良いのかもまったくわからぬまま、
色紙を抱いて幸せいっぱいに帰宅した。

で、この話にはオチがあって、戸田ボートへの無料バスの
乗り場を聞いた時、知っているはずのない母が正確に
場所を答えたのを変だなと思ったら…
帰って実家に凱旋したら、母にこう言われたよ。
「前にママちゃんが、真澄ちゃん(桑田真澄)が来るって
いうから行ったのと同じイベントでしょ?」
ああ! 以前そんなことあった! あれ戸田ボートだったんだ。
母とほとんど同じことをやって悦に入っていた。母娘ってこわい。

斎藤雅樹、このほんとに飾らず謙虚で優しく温かい大エースよ。
私の人生にずっと、彼への憧れが在り続けることを誇りに思う。

怪獣映画っていいよね

2019-06-30 22:58:36 | 日記
怪獣映画が好きなんですよ!
野球と昆虫とポケモンと消防車が好きで「小学生男子」との
世間からの評価を甘んじて受ける私ですが、怪獣映画も大好き!

ただ、実は日本における「怪獣映画」って社会派のド硬派で、
見終わった後にいろいろなことを考えさせる文学的な名作なのです。

だからハリウッドゴジラとかなんかね~と、
だってどうせ家族愛みたいな矮小な人間ドラマに持ってっちゃうん
でしょ~と、怪獣映画は日本だけでいいやと思ってましたが。

先日、映画「としまえん」を見に行った時に映画の宣伝が上映
されるじゃないですか。
それで「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ GODZILLA KING
OF THE MONSTERS」の宣伝もやったわけですよ。
そしたらキングギドラでかい! モスラでかい! ド迫力!
でかいキングギドラかっこいい! でかいモスラすごい翅!
というわけで、「でかくてかっこいい~」という理由で、
イオンシネマに見に行ってきました28日金曜日!

会社を定時から20分遅れくらいで出て、一路、東武練馬へ。
3階のイートインエリアでリンガーハットの長崎皿うどんを食べ、
サーティワンの期限ギリギリクーポンを使ってアイスを食べ、
ダッシュで映画館へ!

もう上映開始からだいぶ経ってしまったので、小さめのスクリーンの
劇場になっていた。ちょっとショック。超巨大に観たかった。
と、思ったが結果として小さめの画面でも充分でかかかった。

前のハリウッドゴジラ見てないから比較はできないけど、
今回のキングオブモンスターズは、日本の怪獣映画への敬意が
非常に感じられる作品だった。でも「家族愛」に持っていかないと
どうしても映画が作れないんだな、あの人たち。
でもとにかくでかい怪獣が大迫力で超かっこよく戦いまくるので
大興奮の大満足だった。怪獣をかっこよく見せる魅せ方もよかった。
モスラは、あれはモスラとは言えないけど、まあいいや。
それよりラドンが超かっこよかった。
そしてもちろんキングギドラはいつでもかっこいい!!!
ゴジラも、あれはゴジラじゃないよなあ、と思いつつでかくて
かっこいいからなんでもいいや、ということで総合的には
でかくてかっこよくてド迫力で怪獣萌え燃えだったので超OK!
圧巻で大満足な金曜の夜でした。