鴨頭の掲示板

日本史学関係の個人的な備忘録として使用します。

【業績】 鴨頭俊宏《研究ノート》「長崎上使帰府情報と長州藩の長崎聞役・八幡改方―安永~文化年間を中心に―」

2015年03月08日 19時31分19秒 | いち研究者としての日記

交通史学会に昨夏投稿していた標記の《研究ノート》を掲載する『交通史研究』85号(2015年2月付)が発行されました。

昨年5月に出版した単著『近世の公用交通路をめぐる情報―瀬戸内海を中心に―』(清文堂出版)の第4章では、長崎上使(江戸~赴任地長崎間を往復する長崎奉行ほか幕府役人の一行)の帰府にあたり、出発地長崎から先触より前に予定経路上へ通行情報を流していたのは長州藩(萩藩)の長崎聞役(長崎奉行所・外交・貿易などの公的情報を入手すべく長崎へ派遣された藩士、西国14藩が派遣)だと推定しました。ただ、ここでは状況証拠となる史料を複数提示するまでで、実証には至っておりません。

ところが、それは単に私の長州藩職制に関する史料の知識が不十分なゆえにすぎず、これに関する史料を正しく用いさえすれば容易に解決できることを、奇しくも単著の校了後に知りました。解決の手がかりを与えてくれたのが、石川敦彦氏が編む『萩藩職役人名辞典』(2010年、2013年再版)です。本稿は、単著第4章の記述内容を、補正して〝推定〟から〝実証〟のレベルへ引きあげようと作成したものです。

また、本稿での実証をとおし、長州藩長崎聞役と藩領の地域社会とを結びつけた中継拠点的な存在として、長州藩の現山口県下関市域(赤間関)在勤役人〝八幡(ばはん)改方〟を見なおす必要があることも、新たにわかりました。長州藩による現下関市域の支配といえば、高校日本史の授業で学習した(商社)越荷方(こしにかた)の印象が強いかと思いますけど、現下関市域には当時、長崎関係の公的情報を地域社会の代表として受信する窓口という重要な役割もあったのです。

 

学界において《研究ノート》は、論文・論説に準ずる小論文的な位置づけにすぎません。しかし、私自身にとれば、

(1) 約10年間も実証できずに苦しんでいた課題点がようやく(手がかりを得てしまえばあっさりと…)解決したこと

(2) 日本史ファンのあいだで長崎聞役は、1990年代の後半、おそらく岩下哲典・真栄平房昭編『近世日本の海外情報』(岩田書院、1997年)収録論文(岩下氏・梶輝行氏など作成)や山本博文『長崎聞役日記―幕末の情報戦争―(ちくま新書187)』(筑摩書房、1999年)をとおして広く知られるようになったと思います。しかし、これらの論著はもっぱら熊本・薩摩など九州有力藩の長崎聞役の行動ばかりに注目し、九州外で唯一正式に存在しつづけた長州藩のそれについては案外議論が発展しないままとなっています(むしろ、私自身は、なぜ長州藩のそれがあまりクローズアップされてこなかったのか、かねがね疑問に思っておりました)。こうした研究動向に対し、長州藩のそれに注目することの重要性を新たに指摘できたこと

……の2点で、喜びの大きい成果だと思っております。

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