篤姫と維新の志士たち

鹿児島を舞台にし、また徳川将軍の妻となった篤姫と明治維新の志士たちを尋ねて歩くブログです。いろんな異人達を探りますよ

戊辰の役・篤姫ではまもなくですね、顕彰碑を訪ねて

2008-11-14 21:07:06 | Weblog
今日は、照國神社(鹿児島市街地・城山下)に行ってきましたが、島津斉彬の側に戊辰の役戦士顕彰碑がありました。同時に斉彬死後、活躍した久光、薩摩藩主・忠義の写真も見てください。
戊辰の役とは、慶応4年(1868年)1月、京都鳥羽伏見で薩摩・長州両藩が徳川幕府討伐の戦端を開き、翌年5月函館・五稜郭の幕府軍を降伏させた戦いです。
これによって、明治新政府誕生の基が定まり、わが国は近代的な統一国家となり、植民地化を防ぎ独立が守られました。
当時の日本は、黒船来校以来、西欧列強の脅威にさらされ、国内では封建制度が行き詰って内外ともに混乱していました。
15代将軍・徳川慶喜が大政を奉還し、新しい政治体制が求められる中で、公武合体派が封建体制は打破できないと、薩長両藩は断固として討幕をすすめました。
篤姫では、丁度、今、ここの所ですよね。
その結果、大局が動き、諸藩連合の新政府軍の中で、薩摩藩は常に先頭に立って奮闘し、この歴史的な大転換劇に最も重要な役割を演じました。
しかし、薩摩から八千余名の人々が参戦し、六百名を超える戦没者と多くの戦傷者がでました。今日、訪れた顕彰碑の横に、その時の一人一人の名前が刻まれていました。新しい時代の為に犠牲になった人が、薩摩や全国各地にたくさん出た事は、とても悲しく思えてなりませんでした。今を生きる私達の幸福は、この時から、続いていることを、私自身、見つめなおしてみる事ができました。

島津斉彬を訪ねて(照國神社)

2008-11-14 21:00:22 | Weblog
今日は、島津斉彬とその後の藩主を写真など使ってお伝えします。
島津斉彬は、文化6年(1809年)27代藩主の斉興(なりおき)の嫡男として
誕生、母は島津藩主・池田政道(はるみち)の娘、賢章院(けんしょういん)です。海外の文化に強い関心を示された、曽祖父・重豪(しげひで)公にかわいがられ、育てられたため、斉彬も海外の情勢・文化に精神するようになります。そして、アヘン戦争(1840年~1842年)でアジアの大国・清国がイギリスに敗れたひとから、西欧諸国の植民地化政策をおそれ、斉彬は、日本がひとつにまとまり、強く豊かな国づくりを目指すべきだと考えました。
「集成館」という工場群を築き、ここを中心に、造船・製鉄・紡績・電信・ガラスなどのさまざまな事業に取り組みました。また、人材育成のため、教育にも力をそそぎ、西郷・大久保などの有名な人材を育て上げました。斉彬は、安政5年(1858年)に世を去りますが、日本を強く生まれ変わらせる夢は、弟の久光公や長男の忠義公、そして、西郷や大久保ら多くの家臣の手で実現しました。
やっぱり、鹿児島・薩摩は斉彬なくしては語れませんね。この考えが、明治維新につながって行ったことは、間違いないと、今日は照國神社に来てよくわかりました。