今日は祇園之州近くにある多賀山公園(石橋公園の後ろの山)を、まず紹介できればと思います。ここにはびっくりする城跡がありました。
この山は、海岸は絶壁で、他方、現在はJR沿線側も急な斜面になっているため、山全体が天然の山城となっています。この城は、藤原純友から4代目にあたる長谷場永純が、天喜元年(1053年)に築いたものです。また、長谷場氏は、その頃の船着場のあたりに春日神社を建立したといわれています。また、三州(日向・大隈・薩摩)としては、初めての城とされています。
南北朝時代(1336年~1392年)には、この城をめぐって激しい戦いが行われました。この頃、鹿児島を本居地にしていた長谷場・矢上・中村・上山・谷山の各氏は、南朝軍に加わり、出水の山門院から鹿児島入りした島津氏は北朝軍に属していました。両者は激戦を続けましたが、1343年、5代島津貞久は、東福寺城を勝ち取り鹿児島をおさめる根拠地としました。さらに、勢力をのばした島津氏は、8代島津元久の時代に清水城に移りました。このようにして形成された守護町(現在の上町地区)が、鹿児島発達の元になりました。
いやー、びっくりしました。いつも磯の尚古集成館とかのことは、知っていましたがこんな所に島津の歴史が刻まれ、しかも、この多賀山が城で、良くいう要塞のようになってたんだということに、びっくりです。写真で見てください。
この山は、海岸は絶壁で、他方、現在はJR沿線側も急な斜面になっているため、山全体が天然の山城となっています。この城は、藤原純友から4代目にあたる長谷場永純が、天喜元年(1053年)に築いたものです。また、長谷場氏は、その頃の船着場のあたりに春日神社を建立したといわれています。また、三州(日向・大隈・薩摩)としては、初めての城とされています。
南北朝時代(1336年~1392年)には、この城をめぐって激しい戦いが行われました。この頃、鹿児島を本居地にしていた長谷場・矢上・中村・上山・谷山の各氏は、南朝軍に加わり、出水の山門院から鹿児島入りした島津氏は北朝軍に属していました。両者は激戦を続けましたが、1343年、5代島津貞久は、東福寺城を勝ち取り鹿児島をおさめる根拠地としました。さらに、勢力をのばした島津氏は、8代島津元久の時代に清水城に移りました。このようにして形成された守護町(現在の上町地区)が、鹿児島発達の元になりました。
いやー、びっくりしました。いつも磯の尚古集成館とかのことは、知っていましたがこんな所に島津の歴史が刻まれ、しかも、この多賀山が城で、良くいう要塞のようになってたんだということに、びっくりです。写真で見てください。
さぁ、お待たせしました。前回で出てきました、岩永三五郎という人物を紹介します。すごい、人です。
肥後の石工・岩永三五郎幸安は、1793年(寛政5年)熊本県八代郡東陽村に生まれ、「性質淡薄寡欲として、まことに良工なりしは、人の能く所として、水利を視得失を考え、大数を測るに敏なる。はじめて見る地といえども神のごとし」と評され、その人物、土木技術のすぐれたることも、薩摩に聞こえ、天保11年(1840年)、時の家老・調所広郷に一族共々招かれ、藩内一円の営繕、土木事業の責任者として、その腕を振るった。
阿久根の古田修繕、出水・国分・加治木の新田開発、市来の水道、伊集院から出水への国道、山川・指宿から鹿児島への道路、鹿児島本港護岸工事(三五郎波止場)井堰・稲荷川・甲突川の河川改修、西田橋はじめとする眼鏡橋の製造は鹿児島・川内・串木野・指宿の各地におよび三五郎および、その一族にいたっては、九州各地に190余りの眼鏡橋を架橋し、なかでも三五郎の甥・丈八は、明治政府に招かれ皇居の二重橋等を架橋しました。
薩摩滞在中10年もの間、地元の石工ともども、その献身的な働きにより、幾多の土木事業を成し遂げました。岩永三五郎は嘉永2年(1849年)薩摩を去り、嘉永4年(1851年)10月5日、八代郡鏡町芝口にて59歳の亡くなりました。
どうですか、九州の眼鏡橋190はすごいですよね。こんな人がいたことを知ってびっくりしました。
肥後の石工・岩永三五郎幸安は、1793年(寛政5年)熊本県八代郡東陽村に生まれ、「性質淡薄寡欲として、まことに良工なりしは、人の能く所として、水利を視得失を考え、大数を測るに敏なる。はじめて見る地といえども神のごとし」と評され、その人物、土木技術のすぐれたることも、薩摩に聞こえ、天保11年(1840年)、時の家老・調所広郷に一族共々招かれ、藩内一円の営繕、土木事業の責任者として、その腕を振るった。
阿久根の古田修繕、出水・国分・加治木の新田開発、市来の水道、伊集院から出水への国道、山川・指宿から鹿児島への道路、鹿児島本港護岸工事(三五郎波止場)井堰・稲荷川・甲突川の河川改修、西田橋はじめとする眼鏡橋の製造は鹿児島・川内・串木野・指宿の各地におよび三五郎および、その一族にいたっては、九州各地に190余りの眼鏡橋を架橋し、なかでも三五郎の甥・丈八は、明治政府に招かれ皇居の二重橋等を架橋しました。
薩摩滞在中10年もの間、地元の石工ともども、その献身的な働きにより、幾多の土木事業を成し遂げました。岩永三五郎は嘉永2年(1849年)薩摩を去り、嘉永4年(1851年)10月5日、八代郡鏡町芝口にて59歳の亡くなりました。
どうですか、九州の眼鏡橋190はすごいですよね。こんな人がいたことを知ってびっくりしました。