篤姫と維新の志士たち

鹿児島を舞台にし、また徳川将軍の妻となった篤姫と明治維新の志士たちを尋ねて歩くブログです。いろんな異人達を探りますよ

新政府の立役者「薩摩藩・西郷」の「徳川家・篤姫」への想いを見て

2008-11-24 17:29:17 | Weblog
昨日の篤姫は、何とも言えない話でした。西郷が参謀となった薩摩・長州の軍が徳川を追い詰めていきます。慶喜の徳川将軍の命を島津斉彬から伝えられ、それが叶わなかったことで、かつて命を絶つ覚悟だった西郷が、今では、その徳川を追い詰めていくという、何とも言いようのない現実が実際にあったことを思うと、感慨深いものがありました。一度・二度と奄美や沖永良部・喜界に流された西郷が、どのような覚悟を持っていたかが、わかった気がしました。
篤姫も、大奥の中でこのように頼りにされていた、というのは先週の中でもわかりましたが、ここに来て徳川の中心を動かしていくとは、やはり、斉彬の目に間違いがなかったと言えるでしょう。ここに、勝海舟という人物や西郷との間を取り持った幾島の働きがあったことも良くわかりました。のちに、もし幕府が海から攻めていたら勝利したかもしれないということも、歴史上良く聞く事ですが、勝海舟は、大きな争いを行い、日本が内戦になることを避けたかったのでしょう。ここの勝の考え方の大きかった所が、今後の明治に多大な影響を残していくのかもしれません。小松帯刀の外国との功績は今後も、大きな力となっていきますが、西郷・大久保がここからの時代の立役者になったことが、よくわかりました。
鹿児島の人たちも、篤姫を通じて、初めて小松の働きや、時代の流れを知った人も多かったと思います。今、島津氏について調べていますが、薩摩の成り立ちや、あらゆる史跡も見ることにより歴史に関心を示す子供達も増えていると思います。
島津斉彬の人を見る目のすごかったことが、今になってわかってきました。