篤姫と維新の志士たち

鹿児島を舞台にし、また徳川将軍の妻となった篤姫と明治維新の志士たちを尋ねて歩くブログです。いろんな異人達を探りますよ

伝・豊臣秀頼の墓を訪ねて

2008-11-30 19:00:59 | Weblog
鹿児島市の南方に谷山という、地区があります。ここに、びっくりする墓がありました。大阪城が落城した時、豊臣秀頼は島津氏を頼って、薩摩に落ちのびたと言われています。「秀頼の薩摩落ち」の伝説です。高さ3メートルのこの塔は、その秀頼の墓と伝えられていますが、下から何も出なかったそうです。初代、谷山氏の供養塔という説もあります。
しかし、表示を見たときはびっくりでしたし、そのあたりを通行する人も、私のとっている写真は何かを見て、また、びっくりしていました。あれー・・・。

来迎寺跡・墓石群を訪れて

2008-11-29 16:28:44 | Weblog
鹿児島市から国道3号線を北に進むと、市来というところがあります。
県指定文化財に指定されている、来迎寺跡墓塔群は、市来を古くから統治していた市来氏歴代の墓が建てられています。市来氏は惟宗姓(こむねせい)を持ち、後から地頭として赴任してきた、同じ姓を持つ島津氏と張り合い、時代によっては、敵となり、味方になって市来を統治し続けますが、ついに、1462年(寛政3年)市来久家・忠家親子の時、島津氏により滅ぼされました。
来迎寺跡・墓塔群は、藪の遺棄されていたものを積み重ねたものです。五輪塔や宝塔がほとんどで、中には坊主墓と呼ばれる無縫塔(むほうとう)も見受けられます。墓塔のほとんどが、小型で石材は、凝灰岩を使用しています。また、一つ離れた場所にある石塀で囲まれた層塔は、源頼朝の愛人で、島津初代忠久の母と言われている「丹後局」(たんごのつぼね)の墓であると、江戸時代に書かれた、三国名勝図柄に記載されています。
いやー、びっくりです。初代藩主の母「丹後局」がここに来てたとは、この、文化財はすごいな!と感じざるおえません。山を登っていく一角で、夕方、一人でしたので、少しこわかったんですが、こんな、すごいものがあったとは・・・・・

「花尾神社」を参拝しました

2008-11-28 17:47:01 | Weblog
鹿児島の島津氏の先祖は、どうなっていたのかな?とたいへん興味をもっていました。斉彬の第一代の藩主の事も、知ってみたくなったからです。
この神社、すごい建物でびっくりしました。
鹿児島市内から車で30分くらい、北に走り入来峠の手前になります、かなり、山に囲まれたところです。
花尾神社は、藩・島津忠久公が、薩摩・大隈・日向の三州の守護職に任ぜられて、下向したおり、健保6年(1218年)源頼朝公の尊像を花尾山の麓に安置したのが、創建の時といわれています。すごい歴史にはびっくりしました。
花尾大権現廟記(だいごんげんびょうき)によると、忠久公は、母の丹後局と養父廣言(ひろのり)を薩摩に迎え、廣言(ひろのり)を市来の地頭職に任じ、丹後局に満家院の厚地村と東俣村を与えたということでした。これで、先日、市来に言った時に、ゆかりの地などがあったのですね!わかりました。
丹後局は安政元年(1227年)に亡くなり、遺言によって、この地に葬られ、別当時の平等王院等を建立した増「永金(ようきん)」も、また、この地に祀られ、歴代藩公を初め、厚くこれを尊崇しました。現在の社殿のつくりには、とても、びっくりしました。正徳3年(1713年)の建造で極彩色の権現造り、拝殿等の格子天井には四百余枚の植物が描かれ、組物は出組と平三斗組というすごいつくりのようです。また、蟇股(かまえまた・かまえとはひきがえるのこと)とそこに描かれた牡丹の絵、また幣殿や向拝の彫刻や装飾は、とても壮麗で工芸美術の枠を集め高尚にして格調高く、別名「さつま日光」とも言われています。拝殿や幣殿には、藩や家臣をはじめ、琉球などから贈られた額など多数が掲げられ、文化的・歴史的に優れた価値の文化財だということが、よくわかりました。
しかし、鹿児島の人でも、どれだけの人がこのような、すばらしい文化財があることをしっているのか。私は初めてで、ちょっと、恥ずかしくなりました。
篤姫の時代考証をされている、原口泉先生の示された、ここの文化財や周りの山々への表札も目にすることができました。ここ全体が文化遺産なのだと、実感しました。一度、行ってみる価値、大です。