篤姫と維新の志士たち

鹿児島を舞台にし、また徳川将軍の妻となった篤姫と明治維新の志士たちを尋ねて歩くブログです。いろんな異人達を探りますよ

関ヶ原で徳川軍の正面を進んで帰った島津義弘はすごかった!篤姫のすごい祖先です。

2008-11-20 20:25:06 | Weblog
島津義弘がこの地を城地に選び、帖佐、平松から移り住んだのは、慶長12年(1607年)のことである。この城は高い石垣や天守閣を持たず、居形造りの建物群で構成されていました。空堀や城壁をめぐらし城域を区画し、家臣の屋敷を周辺に配置し、整然とした縄張りで現在の街形態の原形がこの時造られました。城中には「東の丸」「中の丸」「西の丸」の御殿があり、「東の丸」は現在の高校の敷地で義弘の居館といわれています。義弘が没すると家久(18代藩主)がここに住むことになり、別館を新たに今の小学校側に築造し、これを「西の丸」(中納言様御殿)と呼びました。
御対面所は、加治木島津9代、島津久長が安政年間に居宅として建てた茅葺き書院造りの建物でした。明治になってから第7郷校、仮県庁、郡役所、町役場として使用され、昭和20年戦災で焼失しました。
しかし、島津義弘という人はすごいですね!先日、重富氏の平松城を造ったとお伝えしましたが、加治木の為に貢献しています。すごい、バイタリティです。
そして、関ヶ原で破れ、相手・徳川の中心を真っ向から帰ったという話は伝説となっています。わずか、1500名の島津軍は、境の港から、鹿児島に帰りついたのは、わずか80名程度だったのです。何万といる徳川の中心を横切り、義弘を逃がすために、薩摩の軍は、50名がたてとなり、鉄砲で防ぎます。その間に、義弘が逃げます。そして、また50名~100名が命をかけて、防波堤となり時間を稼ぎます。この繰り返しで、追ってくる敵から逃げ切りました、家臣は義弘の為に命を落とすことに全力をあげ、鹿児島まで義弘を帰したのです。人望のある、偉大な人だったようです。島津はこの後から、勢力が強まり、徳川にとってもっとも恐い存在となっていったのです。その薩摩が結局、明治への扉を開いて行ったのですから、何とも言えない話です。

島津義弘・島津重富氏・久光も住んだ平松城

2008-11-20 20:12:30 | Weblog
戦国時代の天文23年(1554年)岩剣(いわつるぎ)合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城(右手の急俊な山)の落城によって終止符を打ちました。この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかしながら、山頂から麓までの道は大変、険しく日常生活には不便でしたので、麓のこの地へ館を築きます。これが、平松城です。
義弘は慶長5年(1600年)の「関ヶ原の合戦」直後にも、しばらく在城し、慶長10年から翌年にかけて帖佐から、この城に帰り、加治木へ移るまでの居館としました。その後、当城には、島津義弘の夫人や娘の御屋地様が晩年を過ごしています。
江戸時代、中頃の元文2年(1737年)藩主・島津継豊は、弟の忠紀に鎌倉時代以来の名家である、越前島津氏を再興させました。翌年には、帖佐郷から脇元村・平松村・船津村・春花村・触田村(吉田郷)を割いて「重富郷」と名づけます。これ以後、平松城は越前(重富)島津家の領主の館となり、一世には麓と呼ばれる家臣団の屋敷跡が計画的に整備されています。
天明の頃、城内には、藩内初期の学校である振業館(しんぎょうかん)が建てられました。幕末維新に活躍する島津久光(斉彬の弟)も、若い頃、越前家20代当主としてこの平松城に住んでいました。
明治維新後、この地には、重富村の役所や学校が置かれました。今は小学校となった、正面の石垣は、野面積み(のづらづみ)と呼ばれる古い積み方です。体育館のある北東の土地は、城にとっての鬼門でしたが、昔は石垣が南へ折れて一段低く積まれていました。また、石段前面の広い道は「館の馬場」と呼ばれ、幅11メートル、長さ約275メートルもあります。
重富の地を訪問しましたが、鉄砲が使われたりして、島津家がこの地に入ってきたことがよくわかりました。いい勉強をしました。