島津義弘がこの地を城地に選び、帖佐、平松から移り住んだのは、慶長12年(1607年)のことである。この城は高い石垣や天守閣を持たず、居形造りの建物群で構成されていました。空堀や城壁をめぐらし城域を区画し、家臣の屋敷を周辺に配置し、整然とした縄張りで現在の街形態の原形がこの時造られました。城中には「東の丸」「中の丸」「西の丸」の御殿があり、「東の丸」は現在の高校の敷地で義弘の居館といわれています。義弘が没すると家久(18代藩主)がここに住むことになり、別館を新たに今の小学校側に築造し、これを「西の丸」(中納言様御殿)と呼びました。
御対面所は、加治木島津9代、島津久長が安政年間に居宅として建てた茅葺き書院造りの建物でした。明治になってから第7郷校、仮県庁、郡役所、町役場として使用され、昭和20年戦災で焼失しました。
しかし、島津義弘という人はすごいですね!先日、重富氏の平松城を造ったとお伝えしましたが、加治木の為に貢献しています。すごい、バイタリティです。
そして、関ヶ原で破れ、相手・徳川の中心を真っ向から帰ったという話は伝説となっています。わずか、1500名の島津軍は、境の港から、鹿児島に帰りついたのは、わずか80名程度だったのです。何万といる徳川の中心を横切り、義弘を逃がすために、薩摩の軍は、50名がたてとなり、鉄砲で防ぎます。その間に、義弘が逃げます。そして、また50名~100名が命をかけて、防波堤となり時間を稼ぎます。この繰り返しで、追ってくる敵から逃げ切りました、家臣は義弘の為に命を落とすことに全力をあげ、鹿児島まで義弘を帰したのです。人望のある、偉大な人だったようです。島津はこの後から、勢力が強まり、徳川にとってもっとも恐い存在となっていったのです。その薩摩が結局、明治への扉を開いて行ったのですから、何とも言えない話です。
御対面所は、加治木島津9代、島津久長が安政年間に居宅として建てた茅葺き書院造りの建物でした。明治になってから第7郷校、仮県庁、郡役所、町役場として使用され、昭和20年戦災で焼失しました。
しかし、島津義弘という人はすごいですね!先日、重富氏の平松城を造ったとお伝えしましたが、加治木の為に貢献しています。すごい、バイタリティです。
そして、関ヶ原で破れ、相手・徳川の中心を真っ向から帰ったという話は伝説となっています。わずか、1500名の島津軍は、境の港から、鹿児島に帰りついたのは、わずか80名程度だったのです。何万といる徳川の中心を横切り、義弘を逃がすために、薩摩の軍は、50名がたてとなり、鉄砲で防ぎます。その間に、義弘が逃げます。そして、また50名~100名が命をかけて、防波堤となり時間を稼ぎます。この繰り返しで、追ってくる敵から逃げ切りました、家臣は義弘の為に命を落とすことに全力をあげ、鹿児島まで義弘を帰したのです。人望のある、偉大な人だったようです。島津はこの後から、勢力が強まり、徳川にとってもっとも恐い存在となっていったのです。その薩摩が結局、明治への扉を開いて行ったのですから、何とも言えない話です。