今日は、大久保利通を訪ねてきました。やはり、西郷とともに加治屋町から出た偉人です。
藩閥意識を超えて、新生日本の近代化に尽くす大久保利通は明治草創期の指導政治家といわれています。1830年(天保元年)に生まれ、幼名は正袈裟(しょうけさ・通称、一蔵、号は甲東(こうとう)と称しました。幕末期、薩摩藩下級武士のリーダーとして藩論を尊皇にまとめる一方、最期の藩主・島津忠義(ただよし)の父、久光の信頼を得て、藩政の改革にも手腕を振るいました。
薩英戦争後は、イギリスとの講和をまとめ開国に目覚めるとともに、沖永良部から西郷隆盛を呼び戻し、歴史的な名コンビとして倒幕に奔走。薩長同盟の締結をみてついに1867年(慶応3年)明治維新が達成されました。
新政府樹立後は、政界の中心人物として、版籍奉還・廃藩置県の実現につとめ、大蔵卿時代は、地租改正の建議を行いました。また、欧米諸国を視察し、帰国後は内務省を設立し、事実上の首相ともいうべき内務卿を兼務しました。
ところが、このころから西郷隆盛との対立、西南戦争によって竹馬の友を失ったのです。その大久保もまた、1878年(明治11年)出勤途中を襲われ急死。ロンドンタイムスは「氏の死は、日本全国の不幸である」と報じました。
大久保利通の歩いた道は、日本のために大きな価値のあることばかりです。歴史的に重要人物であったのですが、名コンビと言われた西郷と、このような形でおわりが来る事を、薩摩も大久保自身も考えたことはなかったでしょう。今日の訪問で、同じ地に育ち、同じ地に誕生の地があり、訪問する人は後を絶たない状態でした。西郷も偉かったし、また、大久保も偉かったと思います。2人のかたい絆が、ふただび鹿児島の地に人を動かしていると思います。
藩閥意識を超えて、新生日本の近代化に尽くす大久保利通は明治草創期の指導政治家といわれています。1830年(天保元年)に生まれ、幼名は正袈裟(しょうけさ・通称、一蔵、号は甲東(こうとう)と称しました。幕末期、薩摩藩下級武士のリーダーとして藩論を尊皇にまとめる一方、最期の藩主・島津忠義(ただよし)の父、久光の信頼を得て、藩政の改革にも手腕を振るいました。
薩英戦争後は、イギリスとの講和をまとめ開国に目覚めるとともに、沖永良部から西郷隆盛を呼び戻し、歴史的な名コンビとして倒幕に奔走。薩長同盟の締結をみてついに1867年(慶応3年)明治維新が達成されました。
新政府樹立後は、政界の中心人物として、版籍奉還・廃藩置県の実現につとめ、大蔵卿時代は、地租改正の建議を行いました。また、欧米諸国を視察し、帰国後は内務省を設立し、事実上の首相ともいうべき内務卿を兼務しました。
ところが、このころから西郷隆盛との対立、西南戦争によって竹馬の友を失ったのです。その大久保もまた、1878年(明治11年)出勤途中を襲われ急死。ロンドンタイムスは「氏の死は、日本全国の不幸である」と報じました。
大久保利通の歩いた道は、日本のために大きな価値のあることばかりです。歴史的に重要人物であったのですが、名コンビと言われた西郷と、このような形でおわりが来る事を、薩摩も大久保自身も考えたことはなかったでしょう。今日の訪問で、同じ地に育ち、同じ地に誕生の地があり、訪問する人は後を絶たない状態でした。西郷も偉かったし、また、大久保も偉かったと思います。2人のかたい絆が、ふただび鹿児島の地に人を動かしていると思います。