篤姫と維新の志士たち

鹿児島を舞台にし、また徳川将軍の妻となった篤姫と明治維新の志士たちを尋ねて歩くブログです。いろんな異人達を探りますよ

薩摩の独自性から出現した志士たち

2014-02-09 05:36:12 | Weblog
篤姫を見て、薩摩の事や歴史や鹿児島に興味を持つ人は多いと思います。しかし、鹿児島の志士たちは篤姫以前から、全国でもめづらしい環境にあったと考えられています。
島津氏は古く、源氏より薩摩の地を与えられ、宮崎の都城にも進出しますが、鹿児島では出水(鹿児島の北西・熊本の水俣の近く)から侵入をはじめるわけです。しかし、当時はすでに、各地に守護職を命じられた氏たちがおり、はっきり言って、その各氏たちを倒しながら鹿児島を占領することとなります。たとえば、小松さんの育った肝付というのは、篤姫では、鹿児島市の南に下ったところですが、その前は加治木におり、元々は大隈半島の内之浦(ロケット基地のあるところ)より鹿屋よりの地域が肝付だったのです。現在も、その地名が残っています。鹿児島県内には無数の氏族が分散されて守護職にあたっていたのですが、源氏の言いつけにより、薩摩を与えられ、戦国時代から島津氏が支配していったのです。現在、東郷平八郎の立つ銅像が祇園の州というところの近くの山におりますが、多賀山といい、島津氏が始めてきづいた多賀山城跡が残っています。薩摩の多賀山城から大隈半島の肝付へも出兵した記念碑もあり、最終的には肝付氏を老中職におくなどして、島津氏を強くしていったようです。島津氏の偉かったのは、各、氏族を滅ぼすのではなく、力のあるものを家来に召し抱えていったということです。
さて、薩摩の中で島津氏が栄えていくこととなりますが、他の国の大名のように、鶴丸城を高い城にしなくてすんだのは、一つには霧島連山からなる山で県外の敵をいれることなく、志布志(宮崎の下)や出水に関所を設けるだけで、ほとんど、敵が入ってこなかったということです。そして、もう一つは、鹿児島弁という独特の言葉のおかげで外から入ったものが、すぐ、わかったからだといわれています。その為、熊本城や大阪城のようなお城はなく、平坦なお城が、篤姫でも、出ていたのです。また、調所広郷のにせ金づくりや奄美との行き来、遠くは琉球を通じて入ってきた文化や飾りなど、徳川の目にふれなかったからです。ただ、関が原までは北へ領土を広げることを考えていますが、関が原に破れ・敵の陣中を突破して、帰ってからの薩摩は、鹿児島の現在の稲荷町の川近くの港から(多賀山城の近く)から、琉球方面へと出かけていくこととなるのです。
このようにして、南への文化へと力を入れていき、また新たな独自の文化が加わることとなります。
この続きはまた書きます。
多賀山から見た錦港湾
ここに古い島津氏のことがわかります。

死に物狂いになることとは

2014-02-07 04:11:05 | Weblog
篤姫を見ていていつも関心することがありました。
小松帯刀が島津の仕事に就き、西郷隆盛が殿様ととともに江戸での庭役を命ぜられた時、大久保利通だけは、何をやってよいか、常に悩んでいました。その時、自分の母に私は鬼になりますというのです。また、小松さんも篤姫が江戸に行ってしまうと、自分は薩摩で何もしないで、どうすればよいのか?とあせります。有馬さんも、わざと京都で謀反を起こし、京都の警備の仕事を朝廷より請けた薩摩の仲間に切り殺され、遺書に「これで殿様が認められるだろう、自分にはこのくらいしかお役にたてないのだから」と自分の命を投げ捨てて、薩摩に貢献するのです。このときの人たちは、篤姫だけでなく、薩摩のため、殿様のため、日本のために自分にできる精一杯のことをして生きています。
現在の私たちが同じように、死に物狂いでできることとは、一体・何なのか。考えさせられてしまいますが、現在のこの日本でも、頑張っている人たちはたくさんいると思います。明治時代のように、目には見えなくても、歴史には残らなくても、いかに死に物狂いになるか、ということを考え実行している人がたくさん存在していると考えます。
私も、ふとしたことで、去年と一昨年、韓国に行きました。現在、韓国語の勉強を少しずつやり始めました。
また、それより以前、アメリカ・カナダへ英語の本を一冊だけ持って約2週間・一人だけで旅をしました。英語はわかりませんでしたが、シカゴ経由でカナダに行きました。一言で言って、何とかなるものです。人間、いざとなったら何とかなるものだと、初めて感じた出来事でしたが、外国の人も言葉はわからなくても、とても優しく接してくださいました。日本にはない、何かを得ることができたのです。私も一生勉強だと考えています。今は、外国の歴史も勉強しなくてはとかんがえますが、鹿児島の事、薩摩のことなど、まだまだ、紹介していきたいと思います。是非、東京の薩摩屋敷跡などや県外の薩摩に関する旅を見ていきたいと考えています。

再び・篤姫の50話を見て

2014-02-05 03:46:23 | Weblog
このブログを長く見て頂きまして、たいへんありがとうございます。今、思えば鹿児島に住みながら、知っていたのは西郷隆盛・大久保利通くらいで、恥ずかしい限りでした。しかし、数年前に篤姫を見て、薩摩のこと明治維新のこと、多くを学ぶことができました。
今回、ネット上で無料配信されている「篤姫」をもう一度見てみることと致しました。当時とはちがい・また新しい50話を見たような感動を覚えました。
鹿児島の薩摩・島津氏の今泉で生まれ、18歳で本家・斉彬の養子となり、19歳で京都・近衛家の養子となり2年間、江戸島津家で過ごし、21歳で徳川に嫁入りするのです。鹿児島の田舎で育った、たった21歳の子が徳川に嫁ぐという、たいへんなことでした。にも、関わらず、大奥で力を発揮、江戸城明け渡しまでの13年を大奥1000人のトップとして、歴史に名を刻んだのです。江戸城を出たときはまだ34歳、18歳から34歳までのこの間に大変な人物へと成長しました。女の道は一本道・一方聞いて沙汰するな・迷ったときは感じるままに、など母の教えを守り、2度と鹿児島に帰ることはなく、徳川の人として生涯をささげた姿に再び感動した50話でした。篤姫は、この世に生まれたからには、皆・何かの目的のために、生まれてきたのだと常に言っていました、人はそれぞれ道は違っても、何か、その人にしかできない、何かのために生まれたんだと。まさに、このときに明治維新をなした薩摩の人たちは、20代から40代で亡くなる人ばかりで、小松・西郷・大久保などや坂本龍馬もその一人です。時代が大きく変わるときに生きたからだともいえますが、現在では、とても考えられないことが、まだ130年くらい前までに薩摩でも起こった事実なのです。今、私が考えることは、私たちも何かの目的のために、生きており・家族や友と今やらなければならないことが、間違いなくあるということです。
これからの人生で何ができるのか、何をするべきなのか、ただ平和な日本で過ごすだけではなく、常に考え続けようと考えています。
話が難しくなりましたが、遅くなりましたが、本年もよろしくお願い致します。

変わり行く鹿児島と変わらない桜島

2012-10-29 01:18:10 | Weblog
 お久しぶりに篤姫のブログを書いております。今でもたくさんの方に見て頂きまして感謝・感謝です。たいへんありがとうございます。土曜日には、久しぶりに天文館を歩きました。人通りが少なかった天文館にたくさんの人が返ってきました。そう、思えるぐらいの人通りの多さにびっくりしました。新幹線の効果からか、県外の人たちが多く、鹿児島の名物・白熊のお店の前にはボストンバッグを持ったお客様がたくさん列を造っている姿を見ました。中央駅の周りが都会に近づきつつあることは、言うまでもありませんが、鹿児島の中心地・天文館が活性化していくことが、嬉しくてたまりませんでした。私もだいぶ歳をとったなと、感じましたが中学生の頃の楽しみといえば、天文館で映画を見て、白熊や安い50円ラーメンのお店にいくのが、何よりの楽しみでした。今の若い人たちには、想像がつかないかも知れませんが、日曜日のとても楽しいひと時でした。また、春休みの楽しみといえば、磯庭園の上に磯山遊園地というところ(篤姫の桜島の撮影のあった所)があり、上の遊園地から下の磯庭園までロープウエイがつながっており、上から下までの山道を降り、いったん磯庭園前の海水浴場で泳ぎ、カキ氷やジャンボ餅(テレビでも時々紹介されている甘い御餅の団子)など食べて返りはロープウエイで上までいくのが楽しみになっていました。そのときは子供でしたので、島津家とか篤姫とかまったくわからなかったのですが、とても懐かしい思い出です。
 話は天文館に帰りますが、たくさんの人が遊びや買い物に夢中になっている一方で、学生服姿の方や先生方だと思いますが、あしなが育英会の募金を呼びかけていらっしゃる方がおられ、通りがかりにわずかながら募金をしました。また、赤十字の献血をよびかけていらっしゃる方もいらしたのですが、仕事にいく途中だったため、立ち止まることはできませんでした。ただ、思ったのはみんなが自由に遊びに夢中になる中、一生懸命になって呼びかけておられるみなさんに、とても感銘を受け、鹿児島の若者もまだまだ素敵な人たちがたくさんいらっしゃる事をしることができました。健康だった頃の自分は何気なくとおりすぎていたような気がします。一度、病気をした私には、みなさんの姿が輝いて見えたことに間違いはありません。愛と人を思いやる心こそが、西郷さんの掲げた「敬天愛人」の天を敬い、人を愛するということではなかったのかと、想いめぐらしておりました。ありがとうございました。
 相変わらず変わらないものの一つは桜島です。夏から秋にかけてもたらす降灰はあまり気持ちの良いものではありませんが、雄大にそびえる桜島は鹿児島のシンボルです。何百年経っても変わらぬ姿、鹿児島の歴史を見続けてきた桜島を見るたびに心が安らかになります。鹿児島を訪れる人たちが多くなり、安らかな気持ちを持ってもらうと、とても嬉しいです。西郷さん・大久保さん・小松さんなど数々の志士も見てきた雄大な桜島はいつまでも変わらぬ鹿児島の誇りだと感じています。
 世の中が変わっても、変わらない心と桜島、昨日から今日・一日、すがすがしい日を過ごすことができました。

篤姫のNHK大河ドラマから3年ですね

2012-03-14 00:34:04 | Weblog
今、鹿児島は新幹線の開通と共に次第に変化しています。中央駅前には、新しいビルが立ち並び新しい発展が起こっています。町の形も年々、変化しており、昔の商店街を活性化しようとする動きが鹿児島の各市町村で見られるようになりました。流通・交通の変化は私たち鹿児島でも、現在進行形といったところですが、皆さんの努力が活性化に通じていくものだと信じています。明治を支えた鹿児島ですから。
 一方で、最近思うのですが、私たちの親や祖父母と一緒に暮らした子供の頃のことです。団子や山芋盗りに行ったり、くわがた採りに行ったときのことです。小さな喜びでしたが、今ではとてもとても嬉しいことでした。食べ物はあまりなくても、不自由だと感じなかった時でした。その親も年齢を重ねて、耳や目がだいぶ不自由になりました。それでも実家に帰ると喜んで、無理をしながらご馳走を出してくれます。家族というのはこんなものなのですね。
 篤姫のいった言葉で忘れられないのは、「地位やお金に恵まれるよりも、大切なものは、周りのみんなと仲良く・普通の日々を過ごすことだといっていましたね」今、本当に良くわかる気がします。
 私も病気で苦しいときがありましたが、また、元気になりました。人は様々な困難に苦しむことも多いですが、今・今日を生きているんだと実感できる生き方が大切に思われて仕方がありません。
 鹿児島でも明治維新に関わった人たちの、記念碑・生誕地などいろいろと見かけます。ここ150年くらいの中で日本は大きくかわったのですが、150年に支えられている今を大切に生きたいものです。子供たちに、自分たちと同じ思いを残してあげたいと思っています。

出水平野に島津氏の原点を見つけました

2012-02-17 16:12:32 | Weblog
文治2年(1186)島津忠久が薩摩・大隈・日向、三国の地頭職に任せられ家臣の本田貞親を任地に下向さして三国の情勢を探らせた。
そして、山門院(現在の野田を中心に高尾野・出水の針原、六月田の一部、荘・江内・阿久根の脇本)の豪族を平げて建久7年、貞親は山門院の木牟礼に城を築いて島津氏の三州支配の基礎を作った。すなわち、忠久自身が木牟礼城に定住したことはないが、木牟礼城は薩摩の国の守護所であり、ここに、本田氏ら守護島津氏の家臣が常駐し、守護勢力の拠点となり、これ五代貞久まで至るのであります。この城、東南二百米の付近は野田町の尾地という地名であるが、当時、城郭内になっていたと伝えられています。
しかし、驚きました。ここ出水平野の鶴の越冬地の近くに薩摩の拠点がつくられ、ここから、薩摩・大隈・日向といった方向に戦力を拡大していったこと。出水から始まったと話には聞いていましたが、篤姫の原点・薩摩の原点がここからだったと思うと感動するばかりでした。

篤姫に感動して、まもなく2年経ちました

2011-02-18 16:24:53 | Weblog
お久しぶりに、ブログに向かうことになりました。長い間、書いていませんでしたが
アクセスしてくださる方が今だに多く、ありがたく感じながら、また、維新の時を振り返るブログづくりを再開したいと思います。
私ごとで恐縮ですが、病気にかかり、職を辞し、今、精一杯生きております。ただ、篤姫の生きた時間に比べれば、どんなにか、まだまだ恵まれている生活かと感じています。歴史に名を連ねた薩摩の偉人たちは、困難な日々を常に自身の根性とやる気でのりきったものと考えています。このブログが少しでも多くの方に喜んで頂けたらと思いつつ、少しずつではありますが、新しい情報や歴史をお知らせしたいと考えております。また、よろしくお願い致します。

篤姫を見て

2009-06-23 23:38:51 | Weblog
正直な所、鹿児島に居て、篤姫や小松帯刀の活躍をどれほど、知っていたでしょうか。去年1年間、篤姫を通して、薩摩や徳川の明治維新への流れをどんなにわかったことでしょう。実際に薩摩から嫁入りし、島津斉彬・西郷隆盛・小松帯刀・勝海舟・坂本龍馬・大久保利通・お近さん・お琴さんなど実在し、この時代を生きた本当のことが良くわかりました。薩摩・鹿児島に暮らす、私達も、みんなに、もっと生きて欲しかったと思いました。時代を変えた人々の死はあまりに悲しすぎると感じました。特に、大久保と西郷の間が、変わってしまったことが、やはり、悲しいでした。大久保の銅像が、西郷の銅像の建立から40年経ってからでした。しかし、大久保さんの立場もわかるし、西郷さんの死もわかりました。二人は、新しい時代の為に、頑張ったのだと思います。小松さんが生きていればと、西郷さんが言っていましたが、実際、書物でも同じ事が書かれています。しかし、ここに生きた人たちは今でも語り継がれる生涯を過ごし人生に悔いは無かったはずです。いや、そうだったに違いありません。明治維新後、日本の近代化に尽力し、次に変わる人たちもたくさん出ています。今を生きる私達は何に向かっているのか?考えてしまいますが、篤姫の言った言葉「一日一日を家族や周りの人たちと幸せに暮らすこと。地位や財産ではなく、一番に大切な事は、心と心の通じ合う人を作り暮らすことだと」この言葉は決して、忘れる事はないと思います。

精忠組を鍛えた座禅石の中に有馬新七の名も

2009-05-12 21:33:18 | Weblog
今日は、以前、お伝えした、志士たちの精神を鍛えたと言われている、座禅石の仲間をもう一度確認してみました。
西郷隆盛や大久保利通の青春時代をじっと、見守っていた人物がいました。鹿児島市草牟田誓光寺の住職・円了無参和尚(えんりょうむさんおしょう)といい、城下南林寺や島津菩提寺の住職をつとめる名僧です。
揺れ動く藩政の中で、座禅によって自分をみつめ直すことは、大きな時代の流れを見極める助けとなると教えた人物です。

無参和尚の教えを受けた若き志士たちは、有志組を結成し、後に、精忠組と呼ばれ薩摩藩の中核として、明治維新を成し遂げます。
そして、この時のメンバーは、西郷隆盛・大久保利通・有馬新七・海江田信義・伊地知貞馨・吉井友実・伊地知正治・税所篤・大山綱良・岩下方平などの志士です。

確かにこの中に、寺田屋事件の有馬新七の名もあります。お互い戦った仲間に、相対した友もいます。何ともいえない気持ちでいっぱいです。

薩摩の維新の裏にこのような悲しさがあったとは、いいようがありません。

今日、撮影した桜島は、篤姫の切なさを表現しているように感じて仕方がありません。
時代の流れがさせたこととはいえ、悲しくて仕方がありませんでした。