ンデンデキ外伝

僕の話をしよう。

その手には竹槍

2007年05月05日 15時12分58秒 | 糞ぼやき関係
困窮極まった日本がその最後の闘志を竹槍に託そうとしていたその頃、アメリカはB29爆撃機に次世代戦争の幕開けとなる最新型最終兵器を搭載するという苦渋の判断を下していました。

かくして投下されたたった二つのそれによって、全ての竹槍は漏れなく焼き尽くされたのでした。


現代では竹槍マインドは愚行というより狂気として世界の多くの人に認識されているのではないでしょうか。

しかし、当時の日本国民に一体どのような他にとる術があったのでしょうか。

合理的な西洋科学が根付いて100年くらいは経っていたのでしょうか。
しかし人間爆弾を慣行したり竹槍に精神を搭載することは出来ても、原爆を爆撃機に搭載するなんて技術は決してありませんでした。

原爆が残す人型のシミのように日本人の心にはあるシミが残りました。
「技術の前に精神は無力」という。


戦後の日本は異常ともいえる早さで世界一の技術国としての確固たる地位を獲得しました。

どの技術も西洋のノウハウを親の敵のように取り入れつつも、機関銃で大量殺戮を行うようなものではなく、研ぎ澄まされた鋭利な一本で確実な一人一殺を達成するような意思を感じさせるものでした。

日本人は物量では決して勝てないことを学んだのです。
物事を大きさや強さだけでなく、形や色、匂いや味に至るまであらゆる尺度で測り、それまでにない数々の必勝法を編み出したのです。
日本人は大きさではなく硬さで勝負なんてよく言ったものです。




研ぎ澄まされた鋭利な一本

そう、それはまるで竹槍。

原爆の残した人型のシミをよくご覧になってください。
その手にはしっかりと竹槍が握られているではないですか。
それが崇高な遺志なのか、はたまた呪いなのかは分かりませんが。


圧倒的な技術を前にしたとき、最後までまともに張り合おうなんて決して思ってはいけない。

どうにかこうにか相手の胸元までかいくぐり、研ぎ澄ました竹槍の必殺の一撃を喰らわすことに全てを総動員させなくては勝ち目なんてないのです。