ンデンデキ外伝

僕の話をしよう。

包む

2007年04月08日 00時58分41秒 | 糞ぼやき関係
僕は高校三年生の頃、大学受験のために家庭教師に勉強を教えてもらっていました。

家庭教師と言ってもト○イみたいなところの人ではなくて、自分の父と個人的に知り合いだった男の人で、見た目は髭を生やした山男風で、有名人で言えば空手家の角田師範みたいな感じでした。

大学の同級生で家庭教師のバイトをしている人が何人かいましたが、はっきり言って「お前が人に教えちゃっていいの?」って思ってました。
でも、角田先生(仮)は本当に頭の良い人でした。
今は研究室で働いているらしく、当時も大学院に通っていました。
僕にデカルトの「方法序説」をプレゼントしてくれたりと、当時ディープだった僕のことをとても理解してくれて、学校では人生の恩師と呼べるような人はいなかったけど、この人ならそう呼べる気がします。


哲学をやっていると最後には必ず物理学にぶつかると言う話の通り、彼が当時やっていた研究のテーマは簡単に言うと「生命の発生は「包む」ということから始まった」というものでした。

彼の仮説では、生命が存在してなかった原始地球で生命が発生したのは、何かのきっかけで無秩序な状態だった高熱の海の中でどろどろが風呂敷が袋状になるように「包む」ことから始まったのです。

包むことによってその内側と外側は一枚の壁で隔絶されます。
それが「細胞」なのです。
細胞の中は風船の中の水のように万物の元となる様々な物質が詰まっているのです。





僕なんかでは彼の仮説に何か発展的な意見を述べることはできませんでしたが、当時も今もこの考え方は僕にとってとても新鮮かつ魅力的なものでした。

何もない砂漠では木とかなんでもいいから少しでも身を寄せれるものから離れないように歩くように、または虫が暗くて狭いところに集まるように。

そんな安心を求めるような何者かの意思が生命が発生する以前の原始の地球で働いたのではないでしょうか。

これまで貴方は世界のどの集団にも属してなかったことがありますか?
そんなことはありえません。
まぁこの場合、個人の意思が働く前に決まってしまっているところがあるのですが。


塵が寄り集まって自らを包み込んだように、僕たちには集団に帰属したいという意思が備わっているのではないでしょうか。
そうしないと不安で仕方なくなるという意思が常にあるのではないでしょうか。



だから、本当ならまったくの一人になってしまう人なんてこの世にはいないはずです。
どこかで自他共に自分が集団を形成する要素となるにふさわしいと認める集団が存在するはずなんです。



欧米流の個人主義を歪んだ形で取り入れている日本ですが、人である限り、常にどこかに帰属しているということを認め、自分も細胞のひとつとなることの意義をもう一度考えてもいいと思います。






先生の論に対してもっと的確かつ刺激的なことをコメントできる頭が欲しいです。