2017年7月16日
❨社説❩核禁止条約 廃絶への歴史的一歩に
・・・核兵器の保有や使用、実験などを幅広く禁じる初めての条約が国連の交渉会議で採択された。9月から各国の署名が始まり、50カ国の批准で発効する。
採決では国連に加盟する国の3分の2近い122カ国が賛成した。米ロ英仏中などの核保有国や北朝鮮は交渉をボイコットし、日本や韓国、北大西洋条約機構(NATO)加盟国など、米国の核の傘に入る国々もオランダを除いて参加しなかった。
交渉では「核の使用をちらつかせる脅し」が禁止対象に加わった。核保有国はもちろん、核の傘の下の国が条約に入るのは困難になった。日本の大使は「署名しない」と断言した。だが、条約は国際的な規範である。発効すれば、核兵器の抑止力に頼った安全保障政策は国際法上、正当化できなくなる。その意義は大きい。
すでに中南米や南太平洋、東南アジア、アフリカ、中央アジアでは核兵器を禁じる非核兵器地帯が実現している。条約で「核兵器は違法」との規範を確立することは、核に固執する国々に政策転換を迫る、さらなる圧力となるだろう。(後略、下線はKABUによるもの)
朝日新聞の2017年7月9日の社説をここまで読んで唖然としました。主張や価値観の違いなどではなくて、その国際法理解の杜撰さに目が点になったということ。ハッタリ抜きに「朝日新聞は国際法を知らなかったのね」という驚き。どういうことか。はい、それはこの箇所に炸裂している。
条約は国際的な規範である。発効すれば、核兵器の抑止力に頼った安全保障政策は国際法上、正当化できなくなる。
そして、この箇所(↑)のトンデモなさから推測するに、後ろのこのセンテンスもかなり疑問に感じられました。これも、今後の――朝日新聞が期待する――国際政治の動向をイメージしているのではなくて、なんらかの国際法に関する認識を述べておられるの、鴨という疑念が生じたということです。
条約で「核兵器は違法」との規範を確立することは、核に固執する国々に政策転換を迫る、さらなる圧力となるだろう。
問題はシンプル。
すなわち、①「条約が国際的な規範である」という命題が正しいとしても、②「核兵器の抑止力に頼った安全保障政策は国際法上、正当化できなくなる」とは全く言えないということ。蓋し、所謂「条約法に関するウィーン条約:Vienna Convention on the Law of Treaties」(1969年署名➡1980年発効)を持ち出すまでもなく――同条約の前文にも明記されているように――、国際法の一般法たる慣習国際法からみても、件の核兵器禁止条約なるものが「国際的な法規範」であることは間違いないでしょう。
国際法の唯一の主体たる主権国家が、正規のその全権代表を条約起草の会議に派遣して、かつ、そこで合意されたテクストをこれまた各国の全権代表が――国連総会の運営ルールを遵守しつつ――採択したのですから。もちろん、今後、同条約発効の条件としてそのテクスト自体に定められている50以上の数の国が、各々、国内の条約批准手続きを済ませるかどうかは未定といえば未定にせよ、今の段階でもそれが国際的規範であることは誰も否定しないとおもいます。
つまり、発効前の現段階でも同条約は、さまざまな立場の国々に対して――核兵器開発をやめる方向であるか、逆に、核兵器の開発をより魅力的なオプションと思わせてそれに向かわせるかはともかくとして――自国の行動選択の規準の一つになったということです。実際、例えば、北朝鮮は、昨年、2016年10月の同条約に関する「条約交渉開始決議」に賛成した上で、本年3月に「同条約交渉への不参加」を表明したけれど、これなどは、条約が採択されそのような規範が成立することで、同条約非加盟国の核保有国が加盟国に対して相対的に有利な立場になるというシュミレーションに基づいた一連一対の行動選択と見えないこともないでしょうから。
而して、ポイントは――これまた、条約法に関するウィーン条約を持ち出すまでもなく――、同条約も条約である限り、それが発効したとしてもその規範としての効力が及ぶのは――要は、ハンス・ケルゼンが明確に示した如く、その条約の規範内容に反する行動に対して、当該の違反に対応する内容として、その条約および慣習国際法が定める制裁が課されるのは――その条約の「加盟国≒批准国」にすぎないこと。実際、同条約の署名に賛成しなかった70以上の国々――その不賛成国は人口では現在の人類の確か6割弱、GDPでは軽く8割を越えるはずですけれども――に対して同条約はなんらの効力も持たないのです。
畢竟、①「条約が国際的な規範である」という命題は正しいけれども、②同条約に加盟しない核保有国や核兵器の抑止力をポジティブに捉える国々が「核兵器の抑止力に頼った安全保障政策を採用し継続することは、国際法上、全く正当なこと」なのです。
更に言えば、今回、同条約に賛成した国が批准しないことはもちろん、賛成しその後同条約を批准した国が、国際政治の動向を睨んだ上で将来に向けて同条約から離脱することも――すなわち、同条約の効力から離れることも――、国際法上は正当なこと。
これらのことは、例えば、所謂「死刑廃止条約:Second Optional Protocol to the International Covenant on Civil and Political Rights,Aiming At the Abolition of the Death Penalty」(1989年署名採択➡1991年発効)の現状、すなわち、非加盟国における死刑執行の現状、あるいは、加盟国に離脱の動きもままみられることを想起されればあるいはわかりやすい、鴨です。
これらを鑑みれば、「朝日新聞は国際法を知らないらしい」と記述したとしても、それは満更、印象操作的の言説ではないのではありますまいか。と、そうわたしは考えます。
以上が本稿の主張です。最後に蛇足をひとつ。蓋し、今回の核兵器禁止条約も確かに立派な国際的な規範ではありましょう。けれども、核不拡散条約(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons:NPT)も、加之、所謂「核の傘」を論理的には前提とする、例えば、NATO条約(North Atlantic Treaty)および日米安保条約もまたそれと同様に立派な国際的な規範なのです。
ならば、朝日新聞の記す如く「核兵器禁止条約は国際的な規範である。発効すれば、核兵器の抑止力に頼った安全保障政策は国際法上、正当化できなくなる」という2命題のペアが言えるのならば、「NATO条約も日米安保条約も核不拡散条約も国際的な規範である。それらは発効しているがゆえに、核兵器禁止条約が想定しているだろう、核兵器禁止の法的効力に頼った安全保障政策は国際法上、そもそも正当化されない」という命題のペアも朝日新聞の主張と論理的には同じ強度のものではないかという論点の存在。
この点、朝日新聞が国際法を今後もう少し学習されるようなら真面目に一度問いただしたいものです。その際、(甲)「核兵器禁止条約」に賛成するものが平和を願う諸国の市民であり、それに反対するのは平和を本当には願っていない/戦争の惨禍と悲惨に無関心な諸国の国民であるなどの論理的には無根拠な思い込み、(乙)ホッブスの評価の近時における高まりについての言及の省略、すなわち、あの陰惨で空虚な騒乱に過ぎなかったフランスの悲喜劇(1789-1799-1814)を眺めながら、「人間存在は正義なるものがなくとも生きていけるけれど、秩序なきところで生きることはできないものだ」と呟いたゲーテの認識に対する評価の保留。この2点は将来のその討議に際しては是非とも勘弁していただきたいものだ、とも。
と、これで閑話休題もおしまいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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