醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1162号   白井一道

2019-08-21 12:25:23 | 随筆・小説



    この秋は何で年寄る雲に鳥   芭蕉  元禄7年



句郎 「この秋は何で年寄る雲に鳥」 元禄7年。『笈日記』。「旅懐」と前詞がある。「この句はその朝より心に籠めて念じ申されしに、下の五文字、寸々の腸を裂かれはるなり」と『笈日記』にある。
華女 年は取るのではなく、年は寄ってくるのね。
句郎 「年寄」という名詞はあるが「年取り」という名詞は定着していないように思うけど。
華女 年が寄ってくる実感というものが芭蕉にはあったということね。
句郎 芭蕉最晩年の名句の一つのようだ。
華女 下五の「雲に鳥」という言葉を生むのに腸が裂ける思いをして芭蕉は詠んでいるのね。
句郎 雲間に鳥が消えていくということだよね。
華女 芭蕉は死を自覚したということね。
句郎 この句を芭蕉は元禄7年9月26日に詠んでいる。
華女 芭蕉が亡くなったのは元禄7年10月12日よね。9月26日には死神の招きを芭蕉は感じていたということね。
句郎 今年の秋はどうしてこんなに年が寄ってくるのか、体の弱りが身に沁みる実感があった。
華女 まわりに心配してくれる門人たちに囲まれていても芭蕉の心は絶対的な孤独に打ちひしがれているということね。
句郎 渡り鳥が雲間にきえて行くように私も一人誰にも手の届かないところに旅立っていくということだと思う。
華女 この句も芭蕉の辞世の句だと言っても間違いじゃないような句ね。
句郎 「この道や行く人なしに秋の暮」。この句も立派な芭蕉の辞世の句のように思うけれども「この秋は何で年寄る雲に鳥」、この句も確かに辞世の句だと言えると思う。
華女 人間、死が近づいてくると分かるということなのね。
句郎 ある日、突然襲ってくる死があるようにも思うが、徐々に年が寄ってくる日々があるということも事実だということなのかもしれない。
華女 芭蕉の人生は孤独なものではなかった。いつもそばには誰かがいた、そのような人生だったと思うけれども死ぬときは絶対的な孤独だということね。
句郎 行く人のいない道を私は一人で旅立っていくのが死への旅ということかな。
華女 芭蕉にとって年が寄ってくることを拒みたいという強い気持ちがあったというように私は思うわ。
句郎 そのような気持ちを圧し潰す圧倒的な体の弱り方と芭蕉は最後まで戦い続けたのではないかとは思う。
華女 私、父の死を看取っていたとき、見舞いに来てくれた人に父は病床で訴えていたわ。薬が効けば治るのだと言うのよ。医師の父の友人が父の言葉を受け取り、そうですとも、薬が効いて治りますともと何べんも言うのよ。この父と父の友人の言葉を聞いていて私思ったわ。医師の友人の方は絶望的だということを十二分に分かっていて、父の言葉を受け入れていた。死にたくない。死にたくない。この強い気持ちが人間にはあるのだということを父の言葉を聞いていて実感したわ。
句郎 芭蕉も死にたくないという強い気持ちがあったに違いないとは、思うけれども少しづつ死を受け入れていくことがあったのではないかと思っている。芭蕉と同時代を生きた人に円空仏で有名な円空がいる。円空は元禄8年(1695)美濃の弥勒寺で生きたまま自分で掘った穴に身を修め、水や食を断って、その生涯を閉じたと言われている。円空は自らの死を自覚し、即身仏への道を選び、旅立った。芭蕉は元禄2年3月27日、埼玉県春日部市の観音院に宿泊したと観音院は主張している。この日、円空は観音院に宿泊している。芭蕉と円空は観音院で会っている可能性がある。芭蕉にも円空に相通じる心性がある。俳諧に生き、俳諧に死ぬ人生を芭蕉はおくったからね。

醸楽庵だより   1161号   白井一道

2019-08-20 11:50:27 | 随筆・小説



    松風や軒をめぐって秋暮れぬ   芭蕉  元禄7年



句郎 「松風や軒をめぐって秋暮れぬ」 元禄7年。『笈日記』。「大坂清水茶店四郎左衛門にて」と前詞がある。
華女 松に吹く風の音を聞くと秋の深まりを感じたことがあったわ。
句郎 遠くからもごうごうという音が響いてきたような記憶がある。松林に囲まれたお寺にいると風の音によって秋の深まりを感じたな。
華女 海浜の松林に吹く風の音も秋の深まりを感じさせたわ。
句郎 和歌では松の梢に吹く風を松籟(しょうらい)と称して深まり行く秋を表現するものとして詠われてきた。
華女 どのような歌があるのかしら。
句郎 「さびしさはまだ馴なれざりし昔にて松の嵐にすむ心かな」という歌がある。
華女 松風は寂しいものとして歌人の共通認識になっていたということね。
句郎 芭蕉のこの句は和歌の遺産の上に乗っている句ということかな。
華女 確かに松風に古人が託した意味を芭蕉は継承しているということかしら。
句郎 松風に古人が抱いた思いのようなものを知らないとこの句を読んでも何も伝わってくるものがない。
華女 都市圏に住む人にとって松林に吹く風音の寂しさのようなものを経験することがなくなってきているからこの句を鑑賞することの難しさがあるように思うわ。
句郎 松風を詠んだ和歌と俳諧の発句との違いなどもわかりずらいと思う。
華女 「軒をめぐって」というところにこの句が俳諧の発句になっているあかしがあるのよね。
句郎 「軒をめぐる」という言葉に江戸時代の庶民感覚が表現されているということだと思う。
華女 私もそう思うわ。「松風や軒をめぐって秋くれぬ」。本当にこのとおりだわ。毎年、秋はこうして三百年前も今も秋は暮れていくのよ。
句郎 松林に吹くごうーごうーという音の響きを聞いた者でないとその寂しさを実感を持って感じることはないだろうな。
華女 自然環境が変わっていくと伝わらないことができてくるということね。
句郎 それに伴って新しい俳句が生れ、流布していくのじゃないのかな。
華女 この芭蕉の俳諧の発句は歴史的なものとしてこれからも残っていくということね。

醸楽庵だより   1160号   白井一道

2019-08-19 14:13:37 | 随筆・小説



    この道や行く人なしに秋の暮   芭蕉  元禄7年



句郎 「この道や行く人なしに秋の暮」 元禄7年。『其便』。前詞は「所思」とある。
華女 辞世の句のような感じのする句ね。
句郎 「白く何処までも続く秋の道、その先を見ても後ろを見ても旅人の姿はない。人生50年、俳諧一筋の芭蕉の歩んできた道には、もう誰も居ない。芭蕉文学の究極の場所には、孤独なただ寂寥たる空間だけが広がっている」。このような文章をネットで読んだ。
華女 この文章を読むとこれ以上付け加えることは何もないと私は思うわ。
句郎 事実上の芭蕉の辞世の句と言っても間違いではないと思うな。
華女 この句を芭蕉はいつどこで詠んでいるのかしら。
句郎 元禄7年9月26日、大坂の料亭『浮瀬(うかむせ)』で行われた半歌仙の発句のようだ。この句の発案は「この道を行く人なしに秋の暮」となっていた。
華女 「この道や」ではなく、「この道を」になっていたということね。この発案を推敲し、「この道や」にしたということね。
句郎 「この道や」とした方が遥かに世界が広がることに芭蕉は気づいたのではないかと思う。
華女 この句は芭蕉名句の一つに間違いないと思うわ。その一つにするための努力の跡があったということね。
句郎 『笈日記』では、「人声やこの道帰る秋の暮」となっている。『三冊子』には「人声やこの道かへる秋の暮」、「此道や行人なしに秋の暮」。「この二句、いづれかと人にいひ侍り。後、行人なしといふ方に究り、所思といふ題をつけて出たり」とある。
華女 俳諧の発句とは、芭蕉一人が詠んだものではなく、俳諧の歌仙を巻く参加者全員の合作なのかもしれないわ。
句郎 俳句という文芸自身が個人のものであると同時に句会の共同作業の共同創作という性格を持っているということが言えると思うな。
華女 俳句は個人のものであると同時に仲間との共同創作でもあるということね。
句郎 そこに現代につながる俳句の魅力があるようにも思うな。
華女 芭蕉は仲間の意見を聞き、最終的に「この道や」にしたということなのね。
句郎 「此道を行人なしや秋のくれ」という句形の句も伝えられているからね。俳諧の仲間たちも考えた結果が「この道や行く人なしに秋の暮」におさまったということだと思う。
華女 「や」をどこに置くかで意味内容が大きく違ってくるということよね。
句郎 「この道を行く人なしや」と詠んだ場合は「行く人なし」を強めることになるからな。
華女 「この道や」でなくちゃダメよね。芭蕉にとっては俳諧一筋に生きた道だったということを表現したいわけだから。
句郎 正岡子規が次のような言葉を述べている。「病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」とね。俳句は17文字、この17文字が多すぎるとこのようなことが言えるのではないかと思ってしまうな。
華女 17文字の世界に無限な広がりがあるということを実作を持って示したのが芭蕉だったということなのね。
句郎 芭蕉誕生以来300年以上の月日が過ぎたが俳句は日本独自の文芸として決して滅びることはないと思うな。
華女 俳句とは、日本独自のものだと句郎君は考えているのね。
句郎 文学としての俳句は日本独自のものだと考えている。
華女 外国語に翻訳するとそれは俳句ではなく、短詩になるということかしら。
句郎 俳句は詩の一つだとは思うが、短詩は俳句ではない。こういうことかな。
華女 外国語に翻訳した俳句は俳句ではないということね。

醸楽庵だより   1159号   白井一道

2019-08-18 14:44:06 | 随筆・小説



    おもしろき秋の朝寝や亭主ぶり   芭蕉  元禄7年



句郎 「おもしろき秋の朝寝や亭主ぶり」 元禄7年。『まつのなみ』。「あるじは、夜あそぶことを好みて、朝寝せらるる人なり。宵寝はいやしく、朝起きはせはし」と前詞がある。
華女 「宵寝はいやしく」とは、どういうことかしら。昔、農民は早寝、早起きが篤農家だと云われていたのじゃないの。
句郎 元禄時代になると豊かな町人が出てきた。それらの人々はの中には宵のうちから寝てしまうのは灯の油をけちるようで卑しいというような世論が生れて来ていたようだ。また早起きは勤勉過ぎて気ぜわしい。このような文化が生れて来ていたのが元禄時代だった。
華女 芭蕉はどうだったのかしら。
句郎 早起きを芭蕉は大事なことと考えていなかったという見方をしている芭蕉学者がいる。
華女 日常生活の立ち居振る舞いはその人の職業や社会的立場によって異なっているということね。
句郎 芭蕉は俳諧師、朝早く起きる理由がなかった。俳諧師としての立ち居振る舞いをしていた。それが身についていた。
華女 元禄時代にあっても農民や町人は早起きが良い、夜は早く寝るのが良いと考えていたのじゃないかしら。
句郎 だから「秋の朝寝をおもしろき」と詠んでいる。町人でも主人でなければ朝寝などできなかったのが一般的だった。
華女 朝寝をして誰からも文句を言われることがなかったのが亭主だったのね。
句郎 朝寝をして威張っているのが亭主だった。
華女 嫌な時代だったのね。亭主一人だけがお魚を食べ、その他の使用人や家族は漬物とご飯、みそ汁だけという時代は昭和40年代ぐらいまで農村にはあったように思うわ。
句郎 亭主一人だけが朝寝できる。そのような時代が日本では長く続いていたということかな。
華女 朝寝が亭主の特権のように許されていた。それが元禄時代の豊かな町人の家族だったということね。
句郎 俳諧も豊かな農民や町人のご主人さまだけの遊びだったのではないかと思う。
華女 当時、女性で俳諧を楽しむ人はいなかったわけではないのでしょうが、極く少ないでしよう。
句郎 芭蕉が片思いをした女性ではないかと言われているのが、園女という女性の俳人かな。
華女 伊勢山田の医師・斯波一有の奥さんね。俳諧を夫と一緒にやっていた人なんでしょ。
句郎 元禄7年9月27日、園女邸に招かれ、芭蕉は歌仙を巻いている。この時の俳諧の発句が「白菊の目に立て見る塵もなし」であった。この句には芭蕉の園女に対する気持ちが表現されていると主張する人がいる。
華女 芭蕉は園女に仄かな愛情を抱いていたのではないかということね。
句郎 園女は美貌の女性だったと言われている。
華女 美貌の女性でお医者さんの奥さんというのは元禄時代にあっても特別な存在だったということなのかしらね。
句郎 「春の野に心ある人の素貌(すがお)哉」という句が園女の句として伝わっている。
華女 「心ある人」とは、どのような意味があるの。
句郎 素顔は恋するサインだったようだよ。
華女 あなたに恋している女がここにいますよと伝えている句なのかしら。
句郎 園目の恋する相手が芭蕉であったか、どうかは分からない。
華女 江戸時代にあっても恋する女性はいたということね。恋とは自己主張よね。そんな女性に芭蕉は魅力を感じたのかもしれないわね。
句郎 病を押して芭蕉は死ぬまで俳諧を楽しんでいた。死の間際に至っても女性への強い関心を芭蕉は持っていた。
華女 そういう男性だったからこそ、俳諧で名を遺すような仕事ができたのかもしれないわね。
句郎 芭蕉は死ぬまで生きる楽しみを味わっていた。

醸楽庵だより   1158号   白井一道

2019-08-17 11:17:50 | 随筆・小説



    秋の夜を打ち崩したる咄かな   芭蕉  元禄7年



句郎 「秋の夜を打ち崩したる咄(はなし)かな」 元禄7年。『窪田意専・服部土芳宛書簡』。
華女 秋の夜長、男たちが集まり、最初の内は高尚な話をしていたが、夜が更けるにしたがって落ちた話になっていったということよね。
句郎 「菊月二十一日、潮江車庸(しほえしやよう)亭」と前詞がある。
華女 菊月とは、何月のことを意味しているのかしら。
句郎 菊月とは、九月のことのようだ。
華女 歌仙を巻いたのね。
句郎 七吟半歌仙の発句が「秋の夜を」の句だった。
華女 何人がこの句会に参加したのかしら。
句郎 芭蕉・車庸・支考・維然・洒堂・游刀の六名が集まった。和気藹々と話が弾んだ。
華女 久しぶりに会う人もいたということね。それでにぎやかな俳諧の始まりになったということね。この和気藹々とした雰囲気を芭蕉は亭主、車庸への挨拶にしたということなのね。
句郎 落ちた話ではなく、和気藹々とした仲間だということを「打ち崩したる咄(はなし)」と表現したのではないかと思うね。
華女 体調の悪かった芭蕉はこのような句を詠むほど元気だったのね。
句郎 この俳諧の会の後、二十日ほどで芭蕉は永眠することになる。
華女 案外人間は最後まで元気なのかもしれないな。
句郎 ベルリンフィルの常任指揮者だったカラヤンは最後の時までにこやかに日本人ファンと談笑していて亡くなったという話を聞いたことがある。
華女 私もそのような死でありたいと思うわ。
句郎 私の仲間だったNさんはソファーに座ったまま亡くなっているのを娘さんは発見したという話を聞いた。前日は市民コーラスに参加し、同じ参加者の女性と腕を組み、声を張り上げていたとコーラスの仲間たちは話していたからね。
華女 くよくよすることなく、毎日を楽しく過ごすことが大切なのかもしれないわね。
句郎 芭蕉は最後まで俳諧を楽しんでいた。俳諧を楽しみ合う仲間がいた。
華女 一人っきりにになってしまってはダメね。
句郎 芭蕉は仲間を大事にする人だった。だから仲間も芭蕉を大事にしてくれた。死の直前まで俳諧を楽しんだ。
華女 芭蕉は孤高の詩人ではなかったと言うことなのね。
句郎 世俗の中に生きた詩人だった。世俗の喜びの中に生きた詩人だった。
華女 芭蕉は人が好きだったのね。
句郎 心の中にはいつも冷たい風が吹いている人でも芭蕉はあったのではないかと思う。芭蕉には関係を持った女性がいた。
華女 寿貞尼ね。
句郎 寿貞尼がみまかった時に詠んだ句が知られている。
華女 「数ならぬ身とな思ひそ玉祭」。芭蕉の気持ちが表れている句だと思うわ。芭蕉は女性に優しかったように思うわ。
句郎 そうだよね。自分の事を「数ならぬ身とな思ひそ」と芭蕉は寿貞に言葉をかけている。自分で自分を貶めるように思うことはないよと、言っている。私はあなたを大切な人だと今も思っていると述べている。
華女 女性に優しい男は誰にも優しいのじゃないかしら。いつだったか、人事関係の部署にいた人が言っていたわ。管理職に登用するかどうかを決める時、同僚の女性の意見をそれとなく聞き、女性の意見がマイナスでなければ、管理職に登用すると言っていたわ。
句郎 芭蕉が現代社会に生きていれば、間違いなく出世する人だったように思うな。江戸時代の身分制度の中で農民や町人の文化を差別者であった武士たちに認めさせているのだからね。
華女 芭蕉は礼儀を大事にする人だったのじゃないかしらね。
句郎 礼儀が大事なんだろうね。礼儀は挨拶に始まるからね。俳句は挨拶にはじまる文芸だからな。

醸楽庵だより   1157号   白井一道

2019-08-16 10:42:16 | 随筆・小説



    升買うて分別替る月見哉   芭蕉  元禄7年


句郎 「升買うて分別替る月見哉」 元禄7年。『正秀真蹟書簡』。
華女 今日は控えましょう。昨日も頂きましたからね。今日は止めておきまょう。そのような気持ちがあったのよね。でも実際お酒を買うと気持ちが変わると言うことなんでしょう。
句郎 左党はだらしない。お酒の誘惑に勝てない。そのような酒好きの弱さを詠んだ句だと思っていたがどうもそうではないようなんだ。元禄7年9月にこのような句を芭蕉は詠んでいるのだからね。
華女 この句には前詞が付いているのかしら。
句郎 「十三日は住吉の市に詣でて」と前詞がある。
華女 元禄7年9月13日ね。大坂、住吉大社に詣でたのね。
句郎 住吉大社では枡の市が行われていた。この祭りは宝の市と言われていた。大社の御田で刈り取りのお祭りを行い、引き続き本宮にて刈り取った初穂と五穀を神前にお供えをする神事だ。「宝之市」とは、文字通り、神のお恵みによって得られた「お宝」、お米のことだ。つまり稲作りに励んだ結果できたお米をはじめとするさまざまな生産物を神にお供えし、その残りを庶民で分け合うというお祭りを、具現化したもが「宝之市」だ。後に「升の市」と言われるようになったのは庶民がお米の分け前にあずかるのに升で分け与えられた。その升が売られるようになった。その結果、「宝の市」は「升の市」と呼ばれるようになったようだ。
華女 「升買うて」とは、てっきりお酒を升で買ったのだと思ったわ。
句郎 僕もそう思った。それはそれでいいように思う。俳句は読者のものだからね。俳句が作者の手から離れたら俳句は読者のものになる。どのように読もうがそれは読者の自由だ。お酒を見るまでは今日もまたお酒を飲むのは止めようと思っていた気持ちがお酒を見たら変わると言うことはよくあることだからね。
華女 仕事をしている同僚に向かってそろそろ時間かかな、なんて言って誘っている人をよく見たわ。もう少し仕事したいと思っていてもお酒の誘いだと分別が変わることはあるみたいよね。
句郎 最近は女同士でもそのようなことがあるようだよ。
華女 時代は変わったのよ。女同士で居酒屋に飲みに行く時代になっているのよ。
句郎 元禄7年9月13日、大坂住吉大社の升の市に芭蕉は行こうと思ったが行けなかった。この夜、長谷川畦止亭で十三夜の月見を予定していたが、ここで容体悪化して断念したようだ。
華女 「升買うて分別替る月見哉」とは、まったくの芭蕉の想像上のことなのね。
句郎 そうなんじゃないかな。芭蕉の身体は病んでいた。14日は小康を得て畦止亭での俳諧の会に参加した。その発句がこの句のようだ。
華女 俳諧の仲間に元気なところを見せようとしたということなのね。
句郎 月見を楽しむ句を芭蕉は詠んだ。
華女 お月見の会でもあった俳諧の席には、お酒はつきものだったのでしょう。「升買うて分別替る」とは、お酒のことなのよ。
句郎 今日はお酒も楽しめるほど私は元気ですよと俳諧の仲間たちに元気なところを見せたということかな。
華女 前日に予定していた俳諧の会をキャンセルしたことへの詫びの気持ちを述べているようにも思うわ。
句郎 そうなのかもしれない。その気持ち以上の気持ちが芭蕉にはあった。米を測る升を見るとそこに農民の汗を見るような気持ちに芭蕉はなった。農民の苦労を思った。お米は大切に大切にいただかなければならないと新たな分別を持ったということかな。
華女 芭蕉の身分は農民よね。お米をつくる農民の苦労を芭蕉は身をもって知っているのよね。
句郎 軽々しくお米を扱ってはいけないとね。

醸楽庵だより   1156号   白井一道

2019-08-15 10:53:25 | 随筆・小説



    猪の床にも入るやきりぎりす   芭蕉  元禄7年



句郎 「猪の床にも入るやきりぎりす」 元禄7年。『正秀真蹟書簡』。
華女 この句は擬人化しているのかしら。
句郎 「臥す猪(い)の床」は和歌によく詠まれていることのようだよ。
華女 どのような歌があるのかしら。
句郎 「枯藻かき ふす猪の床の 寝をやすみ さこそ寝ざらめ かからずもがな」。和泉式部の歌が『後拾遺和歌集』にあるようだ。
華女 何を詠んでいるのかしら。
句郎 枯れ草を被って猪は床に臥して熟睡する。たとえ,これほど良く寝られないとしても、この様に眠れずに思い悩む事が無かったらなあと、言うように意味みたいだ。
華女 「臥す猪の床」とは、思い悩み、熟睡できない苦しみを持つ人が熟睡している人を羨む気持ちを表現する言葉なのね。
句郎 「猪の床にも入る」とは、熟睡している人の床に入り込むということなのかな。
華女 「きりぎりす」とは、実際のキリギリスではなく、誰なのかしら。
句郎 奈良を出た芭蕉は難波に出て、酒堂邸の世話になった。芭蕉は酒堂と並んで寝た。酒堂は大の鼾かきだった。体の弱り果てた芭蕉は自分をキリギリスに例えて詠んだ。
華女 きりぎりすとは、芭蕉自身のことだったのね。
句郎 そのように解釈されているようだ。コウロギを当時はきりぎりすと呼んでいた。
華女 いやはや昨夜は酒堂さんの鼾に一晩中閉口しましたと、ニコニコ笑いながら芭蕉は酒堂さんに話をしたのかもしれないわね。
句郎 それはそれは、大変申し訳ありませんでした。言って下されば私は別の部屋で休みました。このような会話が芭蕉と酒堂との間にあったのかもしれない。
華女 そのような会話を想像させる句のように思うわ。
句郎 この句を読むとまだ芭蕉は元気だったように感じるな。
華女 この句は元禄7年9月何日に詠んでいるのかしら。
句郎 分からない。分かっていることは元禄7年の9月に詠んだ句ではないかということだけ。
華女 元禄7年の9月十日に之道邸で発病し、床についたが一気に病状が進んだということではなかったということなのかしらね。
句郎 鼾に苦しめられて熟睡できなかったというのは理由で本当の理由はお腹が痛かったのかもしれないな。
華女 体の調子が良くないことを芭蕉は言わなかったのかもしれないわ。
句郎 十分寝られなかったのはお腹が痛かったから。
華女 酒堂とは、何をしていた人だったのかしら。
句郎 もともとは近江膳所の医師で、菅沼曲水と並んで近江蕉門の重鎮だった。努力の人で、元禄5年秋には、師を訪ねて江戸に上って俳道修業の悩みを訴えたりしている。これに対して、芭蕉は一句詠んだ。洒堂は後に大坂に出てプロの俳諧師となる。ここで,之道との間で勢力争いの確執を起こし、芭蕉は元禄7年その仲裁に大坂に赴き不帰の人となる。
華女 俳諧師になりたいという意欲をもっていた人だったのね。趣味の俳諧に満足できなかった人だったということね。                     
句郎 之道と酒堂との張り合いを芭蕉は調整することはできなかった。
華女 体力的にもできなかったのかもしれないわ。
句郎 このような張り合いが大坂であったということは、蕉門俳諧が大坂の人々に大きな影響力をもっていたということをこのことは意味している。
華女 酒堂にとっても芭蕉が死の直前、酒堂と一つ家に休んだという歴史的事実を残したということね。
句郎 芭蕉の俳句が現代に伝えられているということは、芭蕉の弟子たちが師匠の句を伝えているからだと思う。
華女 弟子あっての芭蕉ね。弟子たちが蕉風を広めた。

醸楽庵だより   1155号   白井一道

2019-08-14 10:35:53 | 随筆・小説



    菊に出でて奈良と難波は宵月夜   芭蕉  元禄7年



句郎 「菊に出でて奈良と難波は宵月夜」 元禄7年。『窪田意専・服部土芳宛書簡』にある句。
華女 芭蕉が奈良を出発し、大坂に向かったのが元禄七年九月九日、菊薫る重陽の節句の日だったということなのね。
句郎 その夜、芭蕉は大坂 に着いて酒堂宅へ草鞋を脱いだ。
華女 奈良と大坂は近いのよね。生駒山を越すと大坂ね。
句郎 元禄七年九月九日に大坂に着いた芭蕉は、最初酒堂亭に草鞋を脱ぐが後に之道亭に移る。酒堂と之道はこの頃対立していた。芭蕉は膳所の正秀らの懇願にあって両者の和解を策していた。
華女 蕉門は大きな組織になっていたのね。之道は何をしていた人なのかしら。
句郎 之道は伏見屋久右衛門という大坂道修町の薬種問屋の主人だった。大坂蕉門の重鎮の一人で芭蕉の最後を看取った弟子の一人のようだ。
華女 芭蕉が亡くなるの元禄七年十月十二日よね。元禄七年九月といったら芭蕉の最晩年ね。
句郎 元禄七年の九月十日に之道邸で発病、病の床についている。
華女 そのような状況下でこの句は詠まれているということね。
句郎 芭蕉の死因は胃の病のようだから、お腹が痛かったのじゃないのかな。
華女 菊の香に送り出されて奈良から大坂に来てみると奈良と同じような月夜だったということね。
句郎 芭蕉は痛みに強い人だったのかな。
華女 そんな人、いないわ。痛みに強い人なんていやしないわ。ただ我慢強い人がいるのよ。
句郎 まだ九月九日の段階ではまで胃の痛みは出ていなかった。
華女 「奈良と難波は宵月夜」。中七と下五の言葉には明るさがあるわね。
句郎 「宵月夜」という季語そのものに明るさがあるように思うな。
華女 「宵」という言葉そのものに浮き立つような気持ちが籠っているように感じるわね。
句郎 月に関する言葉が日本語には多いように感じるな。
華女 季語「月」についての傍題の数は突きぬけて多いように思うわ。
句郎 日本人はお月さまを昔から愛でてきた長い歴史があるのじゃないのかしら。
華女 蕪村にも「宵月夜」を詠んだ句があったように思うわ。
句郎 「水仙に狐もあそぶや宵月夜」かな。
華女 一幅の絵ね。芭蕉の句にはない明るさがあるわ。
句郎 芭蕉の「宵月夜」より蕪村の「宵月夜」の方が断然明るいように思うな。
華女 之道さん、酒堂さん、共に宵月夜を楽しみましょうよと、言っているようにも感じるわね。                     
句郎 月見を共にすれば仲良くなれるというものでもないが、一緒に月見を楽しみましょうということかな。
華女 きっとそうなのよ。月を愛でる伝統というものは万葉の時代からあるのだから。
句郎 そうだよね。「天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出し月かも」。中学生の時、国語の時間に覚えた最初の月を愛でる和歌だったかな。
華女 阿倍仲麻呂の歌ね。
安倍仲麻呂は十九歳で遣唐使と共に唐へ留学した人ね。その後、現地の官吏登用試験・科挙に合格。玄宗皇帝に仕え、寵愛されたと私も教わったような記憶があるわ。
句郎 中国の月を見て故郷日本の奈良の月を思い出して詠んだ歌だよね。
華女 中学生の頃、教わった歌がもう一つあるわ。「「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という歌よ。この歌は歴史の時間に教わった記憶があるわ。
句郎 平安時代の摂関政治の時間だったように私も覚えているな。藤原道長が絶対権力を持った時代を象徴する歌として教わったな。
華女 昔の日本人は月をこよなく愛でていたのよね。

醸楽庵だより   1154号   白井一道

2019-08-13 12:16:21 | 随筆・小説



   菊の香や奈良には古き仏たち   芭蕉  元禄7年



句郎 「菊の香や奈良には古き仏たち」元禄7年。『杉風宛書簡』。
華女 奈良というと思い出す歌があるわ。「青丹よし 奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」。天平時代の奈良を詠んでいるのよね。
句郎 中学生の頃、歴史の授業で教わったような記憶があるな。
華女 天平時代、東大寺の大仏殿、南大門、猿沢の池が奈良のイメージとして日本人には定着しているのじゃないのかしら。
句郎 奈良は歴史観光の街として知られているからね。
華女 奈良の県花は菊ではなく、奈良八重桜のようよ。私は菊が奈良の県花にはふさわしいような気がしているけれど。
句郎 奈良に行くと有名な寺の仏像に出会える。華女さんが好きな仏さんは何なのかな。
華女 何といっても法隆寺宝物堂の百済観音よ。百済観音の前に行くと何時間でも眺めていられるような気持ちになるわ。
句郎 日本人離れした仏像かな。
華女 句郎君の好きな仏像は何かあるのかしら。
句郎 秋篠寺の伎芸天像が印象に残っている仏さんかな。
華女 小さなお寺の仏様ね。
句郎 小さなお寺、法華寺の十一面観音菩薩立像も有名な仏さんかな。
華女 私、知らないわ。
句郎 奈良に行くと仏像オタクがいる。一人、テクテク歩いて寺巡りする人がいるよ。
華女 菊の香と相性が良い仏さまね。古い鄙びたお堂に鎮座する仏像がイメージされるわ。
句郎 蝋燭の灯りと線香の匂い、誇りの積もった明かり窓を想像するよ。
華女 京都が庭のイメージだとすると奈良の街が醸すのは仏様の姿ね。街には骨董屋さんがたくさんあるような気がするわ。
句郎 奈良漬のお土産屋もたくさんあるように思うけどね。
華女 私は京都より奈良の方に親しみを感じるわ。奈良は小さな街だからかもしれないけれど。
句郎 芭蕉も奈良にあるお寺の仏たちに親しみのようなものをもっていたのじゃないのかな。
華女 唐招提寺で詠んだ句があったわね。
句郎 「若葉して御めの雫ぬぐはヾや」かな。『笈の小文』に載せてある句だね。
華女 盲目になった鑑真和上を詠んだ句なのよね。
句郎 唐招提寺の開山忌に訪れた芭蕉は鑑真和上像を拝し、詠んだと言われている。
華女 芭蕉は奈良の街中の寺は廻り歩いたのかもしれないけれど、斑鳩の方には行かなかったのかしら。                           
句郎 法隆寺の仏様を詠んでいる句はあるのかな。多分ないのではないかと思う。芭蕉は伊賀上野から奈良に出て大坂に行った。法隆寺の方には行かなかったのではないかな。
華女 芭蕉は仏教にそれほど興味関心はなかったのかもしれないわね。
句郎 「奈良には古き仏たち」と詠んでいることは、古き仏たちに芭蕉は新しさを見出していないと言うことだと思う。
華女 そうかもしれないわ。「菊の香」と「古き仏」との取り合わせの句よね。この二つの言葉が醸しだすイメージには古びたお堂と人々から顧みられることがなくなった仏さまというイメージね。
句郎 力のある仏様は現代社会にあっても力強く人々に訴えてくるものがあるように感じる。例えば運慶作と言われる興福寺の無着世親像などは決して古びることのない新しさがあるように思う。もちろん唐招提寺の鑑真像も決して古びることのない仏さまだと思う。今だにそれらの仏さまの前に行くと跪くことなく拝観はできないような気持ちになる。そのような仏さまが本来の本尊佛なのだと思う。そのような力の籠った仏さまが奈良の街にはたくさんある。
華女 芭蕉にとって奈良にある仏さまは古びている。今を生きる人々には力を持ちえないものとして仏像を見ていたのね。

醸楽庵だより   1153号   白井一道

2019-08-12 11:04:29 | 随筆・小説



   ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿   芭蕉  元禄7年



句郎 「ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿」元禄7年。『杉風宛書簡』。
華女 芭蕉はどこでこの句を詠んでいるのかしら。
句郎 奈良、猿沢の池のほとりで詠んでいる。
華女 今でも奈良公園には鹿がいるわね。昔から奈良の街には鹿がいたのね。
句郎 奈良時代の昔から奈良には鹿がいた。
華女 なぜ、鹿が奈良の街中にいるのか不思議ね。
句郎 710年(和銅3年)、「奈良・藤原京」から同じく奈良の「平城京」へ都が遷都した。「平城京」鎮守のために社を建て、神様をお祀りした。その神様は藤原氏の祖先神「武甕槌命(タケミカヅチ)」だった。その神様は常陸国(現在の茨城県)の鹿島神宮に鎮座されていた。常陸国から「純白の鹿」の背に跨った「武甕槌命」が、新都である「奈良・平城京」へ参った。藤原氏は「武甕槌命」を、すぐさまお祀りするために、「春日の地(御蓋山・みかさやま)」に社を建てました。そしてこの時「武甕槌命」が背に跨ってきた鹿も「武甕槌命」同様に「神の使い(神使)」として、この社で崇め、現代に至るまで大切にお祀りされてきたということのようだ。ちなみに平城京鎮守のために建てられたこの社は、現代では「春日大社」という名前で親しまれている。
華女 奈良の鹿は春日大社の鹿なのね。千年も前から奈良の街には鹿がいるのね。
句郎 今じゃ、奈良の街の鹿は観光資源の一つになっている。
華女 奈良時代から鹿を詠んだ歌があるわね。
句郎 岩波新書に斎藤茂吉の『万葉秀歌』がある。この中に舒明天皇が詠んだ「タされば小倉の山に鳴く鹿の今宵は鳴かず寝(い)ねにけらしも」がある。 高校生だった頃、国語の授業で教わった記憶がある。
華女 オスの鹿が夕方になると妻を恋う鳴き声をあげるのよね。哀し気に鳴く声が今夜は聞こえない。ということは・・ということね。
句郎 「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき」。『古今集』にある歌が『百人一首』にある。
華女 和歌の文化を継承した俳諧は鹿を秋の季語として詠むようにしたということね。
句郎 鹿を詠んだ和歌には上品な哀しみがあるが俳諧になると庶民の感覚になったということかな。
華女 「ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿」。「ぴいと啼く尻声」、ここに元禄時代に生きた農民や町人の感覚を感じるわ。
句郎 その庶民の感覚を継承して現代の俳句があるのじゃないのかな。
華女 この感覚というものも身分によって違ってくるということなのね。
句郎 公家には公家のものの見方があり、感覚がある。武士には武士のものの考え方があり、見方があり、感じ方があるように農民や町人にもものの見方があり、考え方があり、感じ方があるのじゃないのかな。
華女 芭蕉は農民や町人の感じ方を俳諧の発句に詠んでいると言うことなのね。
句郎 「ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿」。この「ぴいと啼く尻声」、ここに芭蕉の独創性があるように思う。
華女 芭蕉は新しい文学を創り出したと言うことなのかしら。それは江戸時代に生きた庶民、農民や町人の感覚を文学にまで磨きあげたということね。
句郎 そうなんじゃないかな。妻を求めて鳴く鹿の声は哀愁を帯びているので秋の季語になったようだ。その哀愁を表現する言葉は町人や農民の言葉だった。
華女 「ぴいと啼く」、即物的な直接性に芭蕉は新しさを見つけたということね。
句郎 その精神を現代俳句は継承している。
華女 分かるわ。橋本多佳子の句に「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」があるわ。この句は芭蕉の句の延長線上にあるように感じるわ。                           
句郎 即物的な直接性のある新しい女性の感覚かな。