気の向くままに junne

不本意な時代の流れに迎合せず、
都合に合わせて阿らない生き方を善しとし
その様な人生を追及しています

(’76) 12月25日(土) 故・牧野京子宅

2023年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム
午後二時、「おきなわ丸」石垣港接岸。ついにやって来た、年末年始の竹富へと…。理想を言えば昨日のクリスマス・イヴをも…と云う事だったけれど、日程の都合上やむを得ず一日遅れた。
竹富へ渡る前に有田貴代美に電話をして(故)牧野京子のお墓を教えてもらえる様に話しをした。九月十八日(土)に肝硬変の為、二十歳と云う若さで逝ってしまった。その事は京子の死後数日経ってから貴代美からの手紙で知らされた。正直なところ泣きはしなかったけれど、泣きそうになる程の哀しみに襲われた事は確かだった。そう、とても言い知れない悲しみが込み上げてきたのを覚えた。だから今度の渡島の時は、絶対に京子の墓参りに行こうと決めていたのだった。
沖縄のお墓は解りにくいとかで、家に行った方がいい…と(何の事か私には理解し難い事を)電話での貴代美は言っていた。それで待ち合わせをして、牧野家の前迄案内してもらった。当然の事ながら貴代美も一緒にいてくれるものと思っていたのだけれど、彼女は何か思うところが有ったらしく、
「それじゃ、私はこれで」
と言って帰ってしまった。後に残された私は玄関前で突っ立ったまま、何と話しを切り出したら良いものか判らず、そして気遅れをして入るに入れずにいた。それはほんの束の間ではあったけれど、とても長い事の様に思えた。
いつ迄も突っ立っているわけにもいかず、思い切って玄関の戸を開けた。私が名前と用件を伝えると、対応に出たあ母さんが(この時はお母さんしかいなかった)部屋に通してくれた。
「手紙がよく来ていたし、京子の口からも聞かされて知っていました…」
と話しながら次第に大粒の涙をこぼしては、
「よく来てくれました」
そう繰り返し言っていた。
病状の事やら、石垣から那覇の病院へ移った事を初め、京子の中に在った私の事など、在りし日の京子の話しを、文字通り涙ながらに語ってくれるお母さんを見ていると、それだけで私の胸は詰まってしまい、涙を堪えるのが精一杯だった。それは私が最も苦手とするシーンであった。
お母さんは私の為に大きな仏壇の扉を開けロウソクに火を灯してくれた。
「どうぞ…京子と話してやって下さい」
「ハイ」
私は京子の前に立った。(ここで『立った』というのは、その仏壇が畳上1~1.2mぐらいの処に位置していた為である)。琉球独特のお線香(平たい六本繋ぎの物で割って使用する様になっている)に火を付け、そして京子と話し始める。静かに目を閉じたまま。それは僅か数分間の厳粛なる時間の澱みであった。人の命というものが二十歳の終り頃無に帰してしまうなんて…残酷と言えば残酷、儚いと言えば儚い。
一度たりとも自分の病気の事を私に伝える事も無った京子。六か月前、私がここ八重山から離れる時には元気そのものに見えていたのに…。その三ヶ月後に逝って、そのまた三ヶ月後に…私は『写真』に会いに来た。臨終に立ち会えなかったとしても、せめて生きている間に今一度会っておきたかった。いやいや、残念と言うならば他に有る。可惜若き燃える八重山の命をもっと燃して欲しかった。旅から旅への転暮らしの私などが、いつか何処かで失くしてしまった大事な何かを、京子はこの八重山の地で育んでいた。
黙祷の後再びお母さんと少しだけ話しをして、私は牧野家を後に波止場へと向った。大切な一人娘を病で失った母親の涙に、私は為す術を知らなさ過ぎたから…。
多分、もう二度とこの家を訪れる事は無いだろう。過ぎ去ろうとしている悲しい思い出を、わざわざ甦らせる様な波紋を投じたくはないからだ。京子に会いたくなった時には目を閉じて、私の中に今も、そしてこれから先も生き続ける京子に会う事にしよう。この気持ち、きっと彼女も解ってくれる筈だと思う。私は居た堪れぬ哀しみを背負って竹富へ渡った。泉屋へ、オヤジさんの許へ。

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