釈迦の如來寿量品での教えは、実には滅せずといえどあえて滅度すると教えているということでしたね。
ということで、方便による滅度後は実には滅していないままに涅槃に入っているという意味になるようです。
つまり、実には滅してはいないけれど、衆生には佛は涅槃に居るということは、もう見ることもできないということで、現実には滅して存在していないにまったく等しいということなのでしょう。
ですから、涅槃後の佛の教えとは、その時代の教えにはなってなく、過去に佛が現存していた時に教えていた真実のみをそのまま衆生が今に引き継いで伝えているというだけと考えられますから、その引き継がれた教え自体は今涅槃に居る佛の教えではないということになるのでしょう。
また、涅槃の仕組みとは、佛が方便して滅度して見せるための身を隠すための世界だと考えられます。
佛が身を隠すこと自体は、衆生自らに佛を頼らずに自立して修行を行なって過ごさせるためだと思いますので、涅槃の中に居る佛からの教えはもう衆生には届かなくなっていると考えて良いと思います。
リンクHPへ ⇒ 第11-18日号 今當に之を分別すべし 【隨喜功徳品第十八】(五十六行~六十六行)
ということで、方便による滅度後は実には滅していないままに涅槃に入っているという意味になるようです。
つまり、実には滅してはいないけれど、衆生には佛は涅槃に居るということは、もう見ることもできないということで、現実には滅して存在していないにまったく等しいということなのでしょう。
ですから、涅槃後の佛の教えとは、その時代の教えにはなってなく、過去に佛が現存していた時に教えていた真実のみをそのまま衆生が今に引き継いで伝えているというだけと考えられますから、その引き継がれた教え自体は今涅槃に居る佛の教えではないということになるのでしょう。
また、涅槃の仕組みとは、佛が方便して滅度して見せるための身を隠すための世界だと考えられます。
佛が身を隠すこと自体は、衆生自らに佛を頼らずに自立して修行を行なって過ごさせるためだと思いますので、涅槃の中に居る佛からの教えはもう衆生には届かなくなっていると考えて良いと思います。
リンクHPへ ⇒ 第11-18日号 今當に之を分別すべし 【隨喜功徳品第十八】(五十六行~六十六行)