私は法華経の中で使われている義と事の区分についてはとても重大なものと考え
ており、「義」については「大切」を意味し、それに対し「事」とは「大事」を
意味しているように思えています。
この大切と大事とはその使い分けがあいまいで難しいものと思いますが、例えば、
大切な友達とは日常的な世間話やジョークなどが中心となる便宜的な仲間の関係、
それに対し、大事な恋人や結婚相手などは人生一生を共に生き抜く伴侶としての
契約的な関係というふうに多少或いはだいぶ違った意味があると思います。
法華経の中で釈迦などが偈を宣べる際にはほぼ決まって、「此の義を宣べんと欲
して」とあるように、偈とはそもそも便宜的で補足的な意味があって、多少別な
言葉表現に変えたスタイルに直して示していると思いますが、この感じがそもそ
も方便説法スタイルだと考えられます。
そして釈迦などはその都度に重ねて此の義を宣べんと欲して偈を説くわけですが、
その、重ねてということはとても重大視しているということですよね。
その重大なことこそ方便スタイルで説くのだと釈迦は教えているのだと思います。
そして、重ねて何度も言わせるということは、それだけ一度の表現だけでは覚え
させたり理解させ難い事だからということでしょうね。
ところで、自分の為だけに解くことと、他人の為にも説くこととは、比較すれば
どちらが難儀難入でしょう?
釈迦が舍利弗へ方便説法は難しいと、あれほど厳しく忠告する意味は、やはり他
人の身になってあげることがまだまだ未熟すぎるということを言いたいのかもし
れませんね。
⇒ 全文はこちらで、今だけお読みいただけます!
ており、「義」については「大切」を意味し、それに対し「事」とは「大事」を
意味しているように思えています。
この大切と大事とはその使い分けがあいまいで難しいものと思いますが、例えば、
大切な友達とは日常的な世間話やジョークなどが中心となる便宜的な仲間の関係、
それに対し、大事な恋人や結婚相手などは人生一生を共に生き抜く伴侶としての
契約的な関係というふうに多少或いはだいぶ違った意味があると思います。
法華経の中で釈迦などが偈を宣べる際にはほぼ決まって、「此の義を宣べんと欲
して」とあるように、偈とはそもそも便宜的で補足的な意味があって、多少別な
言葉表現に変えたスタイルに直して示していると思いますが、この感じがそもそ
も方便説法スタイルだと考えられます。
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その、重ねてということはとても重大視しているということですよね。
その重大なことこそ方便スタイルで説くのだと釈迦は教えているのだと思います。
そして、重ねて何度も言わせるということは、それだけ一度の表現だけでは覚え
させたり理解させ難い事だからということでしょうね。
ところで、自分の為だけに解くことと、他人の為にも説くこととは、比較すれば
どちらが難儀難入でしょう?
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人の身になってあげることがまだまだ未熟すぎるということを言いたいのかもし
れませんね。
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ブログを更新しました。 『法子羅侯羅の秘密事業』
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法華経をひも解いて奇想天外な日本の暮らしを楽しもう!
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