修行の半分は片付いたと実感できる!
自分自身で厳しい修行に挑み、自分自身の信じる道を一途に貫いて行くのは一番の理想な修行なのかもしれません。
しかし、その厳しさに他者が憧れて見習ったり、または余計に恐れたりする追随の修行者も多く存在しているのです。
ですから、自分一人だけで修行に打ち込むということは並大抵な事ではないはずなのです。
その場合はどうしても自らを高めていくと同時に、いずれは追随の弟子たちのことを面倒見ていかなければならない段階へと現実に遭遇してくるものだと思います。
私はこの両者バランスを欠かさず整えることこそ唯一存在する真実の生き方、つまり修行だと思っています。
そして、これが一番到達の早い方法に間違いないと思うのです。
それは他人の面倒を見ない、つまり他人を救済せずして自分だけを成長させる、或いはそのために他者からの援助救済を受け続ける、つまり面倒を掛けるということこそ一番厳しすぎる、ほぼ不可能に近いことだと信じています。
修行の最初から妥協は良くないと思いますが、いずれこの妥協点に自然の究極と共に遭遇し、それを発見することができれば、修行の半分は片付いたと実感できるはずです。
リンク ⇒ 第10-8日号-多聞にして智慧ありと現じ-五百弟子受記品第八…/
