斜めから降り注ぐ人付き合い

ふれあいの人付き合いについて綴っていこうかと思います。

ちがう自分を演じる

2020-09-16 20:40:04 | 人間関係

自己イメージを変える方法は、現在のイメージと正反対のことをいうか、するかである。

たとえば自分は気の弱い人間であると思っている人は、それと正反対のことを声に出していうのである。

「私は強気の人間である」「私は強気の人間である」と何回も何回も唱えることである。

これは自己暗示ではない。

自己催眠のように見えるがそうではない。

「自分は気が弱い人間である」とのイメージをもっている人は「気の弱い」部分にしか焦点を合わせていない。

実は百パーセント気の弱い人間はいない。

人間の世界に完全はない。

どんなに気が弱い人でも、どこかに気の強さをもっている。

そこに焦点が合わせられていないから、きづかなかっただけである。

いくら気の弱い(と自分で思っている)人間でも、夫婦喧嘩したり、子どもを叱ったり、お釣をことさら強く請求したり、転勤を拒否したり、意外に強いところがある。

ふだんはその強さを意識していないだけである。

たまたまむかし誰かから「あなたは気が弱いですね」と評されたので、そこにしか焦点を合わせなかったのである。

悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのだという説がある。

それゆえ「私は強気の人間です」と声に出して何回もいう練習をしているうちに、強気の自分がリアルに体感できるようになる。

口に出していうだけではない。

行動に移すともっとよい。

「私は気の弱い人間です」という自己イメージの人が、日常生活で、あたかも学芸会で劇に出演した気持ちになって、「強気の人物」を演ずるのである。

強気の人は、1.人の目を見て話す、2.背筋を伸ばす、3.大きな声で話すなど、自分でいくつかの特徴をつかむことである。

特徴をつかんだら、週にひとつずつ演じるのである。

いつのまにか、見かけだけは強気で自信ある青年になる。

ところが最初は見かけだけだったものが、心の中で変わってくるのである。

体→心である。

むかしの心理療法は心→体であった。

しかし体→心のほうが実行しやすいという人もいる。

事実、私たちは生活の知恵でそうしている。

病人が朝は一度起床して化粧するのがそれである。

健康人の格好をすることによって、気持ちも健康人のようになる。

今この記事を書いているとき、テレビで旧制高校寮歌祭を放映していた。

八十歳前後の人たちがニ十歳前後の人たちのような若さにあふれている。

北海道から朝飛行機でかけつけて参加し、歌い終わるやすぐに帰った人もいるという。

ふだんは老人としての自分にしか焦点を合わせていないが、青年の行動をとることによって、焦点が青年の心にシフトするのである。

自分は人に好かれないと思っている人は、自分があたかも人に好かれる人間の如く振舞えばよいのである。

二十歳の青年の如く振舞う寮歌祭の老先輩の心意気を模倣するとよい。


思い込みの自分とあるがままの自分

2020-09-05 21:31:23 | 対人関係

まず例をあげよう。

ある女子高校に勤める教師が生徒から浮きあがってしまった。

彼は女性と接するのがこわいのである。

女生徒をさける。

あたりさわりのない話しかできない。

彼は小・中・高を通して「まじめな山田君」と評されてきた。

それゆえまわりの人間のイメージをこわさないためにも、「まじめ人間」であろうと努力してきた。

そしていつしか自分でも自分のことを「まじめ人間」と思い込んでしまった。

ところが、青年期以降、人なみに性感情が高まってきた。

彼としてはそういう自分を認めることは、「まじめ人間」という自己イメージをこわすことになる。

そこでイメージをこわすまいとして、性感情をもっている自分を拒否する。

つまり、思い込みの自分とあるがままの自分が対立している。

この緊張に耐えられなくなったのである。

要は自分も人並みの人間であることを認め、そういう自分になりきればよいのである。

それをしないから生徒に欺瞞性を見破られ、相手にされなくなったのである。

ふれあいをもつためには、あるがままの自分を、自分がまず許容することである。

あるがままの自分を認められない人のことを自己嫌悪の人という。

自己嫌悪の人は他者をも嫌悪するのがふつうである。

つまり人の好き嫌いの激しい人は、概して自己嫌悪の人である。

例の高校教師についていえば、性感情をもつ自分を嫌悪するがゆえに、性の対象を回避するのである。

たとえていえば、自分の顔が気にくわない人ほど人の顔がよいとかわるいとかを話題にする、あるいは黒人である自分を嫌っている黒人ほど仲間の黒人をバカにする、また、女性である自分を嫌悪している女性ほど、女っぽい女性を嫌悪する、といった具合である。