斜めから降り注ぐ人付き合い

ふれあいの人付き合いについて綴っていこうかと思います。

ねばならぬ思考からの解放

2020-10-15 16:29:34 | 人付き合い

「ねばならない」(あるいは「べきである」)と「である」をなるべく使わない文章記述にすること。

「ねばならない」「べきである」からの解放は心理的健康に大きく影響する。

悩む人の有する文章記述は圧倒的に「・・・であらねばならない」「・・・すべきである」というスタイルのものが多い。

そしてこのスタイルの文章は人生の事実を無視して、願望を述べているにすぎないのが特徴である。

願望を何度唱えようと、事実が変わるわけではない。

例を挙げて説明しよう。

「妻は食事と育児に専念すべきである」といきまく夫がいる。

それゆえ妻はカルチャーセンターにも行けず、寿司を注文するのも気が引ける。

「妻は食事と育児に専念してほしいなあ」と素直に願望らしい文章にすれば事実(夫の本心)に近くなるが、「べきだ」と永遠の真理を説くような言い方をするので、これが悩みのもとになるのである。

今の時代は夫も食事の準備をし、赤ん坊のおしめを替えないと家庭生活が維持できない時代になりつつある。

そういう事実を無視して願望だけを唱えてもいかんともしがたい。

自他を不快にするだけである。

それゆえ、事実に則して「べきだ」という文章記述を修正するのである。

一案を示そう。

「妻が料理と育児に専念してくれたらそれにこしたことはない」

「私は料理や子守りは好きではない。しかしそれをした方が家庭生活はスムーズに流れる。

それゆえ、好きではないがしないよりはした方が得である」

この世の中で、「どうしても・・・でなければならぬ」という事柄は意外に少ないものである。

大部分が「・・・であるにこしたことはない」という類のものである。

イラショナル・ビリーフ(とらえ方)を修正する場合の第二のチェックポイントは「である」である。

「・・・である」と断定的な文章記述がある場合には、次のようなことを考えるとよい。

第一は拡大解釈の度がすぎていないか、である。

アメリカのある大学に留学した人が「アメリカの大学はだめである」と言ったとする。

たまたま自分のいた大学がだめだったからといって、アメリカの大学のすべてがだめのような言い方をするのは事実に則していない。

それゆえこう言った方がよい。

「私が在学していた大学はだめでした。だからといってアメリカの大学すべてがだめであるといっているわけではありません」と。

「私は語学が不得意である」という表現も拡大解釈のしすぎである。

「今のところ私は語学が不得意です。だからといって今後永遠に不得意だというわけではありません」と。

このあたりの感覚は統計学のアイデアを模倣するとよい。

統計学では「知能の高い者は学力も高い」と断定しない。

知能の高い者は学力も高い場合が多いが、そうでない場合も何パーセントくらいはありうる、といった具合に確率が高いだけであるといったような慎重な言い方(事実に則した考え方)を持っている。

「である」に注意したほうがよい第二のことは、解釈にすぎないものを事実のごとくに記述する危険性である。

たとえば「父は私を愛していません」というのはいかにも事実を語っているようであるが、これは解釈(推論)である。

「父は私に送金してくれません」なら事実の記述である。

倒産したから送金しないのかもしれない。

そこで概していえば、ラショナルな文章記述は「である」という断定が少なく、「という場合が多い」とか「・・・ならば―となる確率が高い」といった事実を記述する表現になることが多い。

 


出来事そのものよりも、受けとめ方が大切

2020-10-07 20:41:16 | 人間関係

人間の悩みというのは、ある出来事そのものが原因ではなく、その出来事をどう受け止めるかが原因である。

たとえば、ある学生が単位不足で卒業延期になった(出来事)。

そして落ち込んだ(結果)。

するといかにも出来事そのものが落ち込ませたように見える。

しかし本当はそうではない。

「大学は四年で卒業すべきである」とか「卒業延期の人間は人生の失敗者である」などといった考え方、あるいは受け取り方、あるいはビリーフがあるから落ち込んでいるのである。

「留年を機会に英会話をものにしたらもとではとれる」とか「留年すれば友達も増える」あるいは「留年したおかげで都会生活があと一年楽しめる」と考える学生は多分それほど落ち込まないはずである。

私にもそういう経験がある。

三十代のとき、勤め先でひぼしにされたことがある。

私のほかにもひぼしにされた人もいるがこの人たちは「ひぼしに耐えることはできない」とか「屈辱に耐えるのは男らしくない」というビリーフのためか転職して去った。

私は「ふだんからしたくてもできなかった学位論文を仕上げるチャンスが到来した」というビリーフをつくった。

それゆえ学位論文は不遇時代の産物であり記念となった。

A(出来事、事実)そのものがC(結果、悩み)を生むのではなく、B(ビリーフ、受け取り方)が悩みの根源であるというこの理論は、この人生で窮極的に存在するのは各自の受け取り方の世界である、との哲学に立っていることになる。

こういう哲学を現象学という。

私は現象学の哲学をとっているが、しかし現象学的世界のみが窮極的存在だといい切っているわけではない。

客観的な事実の世界と論理の世界は現象学的世界とともに、この人生で必要不可欠な存在だと思っている。

実在するものはひとつに限るという法則はない。

カウンセリングに折衷的立場があるように、哲学においても折衷主義がある。

それゆえに私は、前述の三大存在(事実、論理、現象学的世界)を認めるのである。

ところで同じ出来事に遭遇しても、ビリーフは各人各様であり、したがって悩みも各人各様である。

現象学の世界は人の数だけあるということになる。

そしてそれぞれのビリーフはいずれも後天的に他から洗脳されて身についてしまったものである。

家族や学校や交友関係や、そして文化に影響されて信じ込むようになったものである。

当人にすれば金科玉条であり永遠の真理であると思っているが、その大部分はたまたま洗脳されてしまったものである。

それゆえに後天的に自分が自分を逆洗脳して、ビリーフを変えることはきわめて可能である。

むつかしいこともあるが不可能ではない。

喜怒哀楽の世界―感情の世界、つまり悩みの世界―はビリーフの結果なのである。

離婚すべきではない、離婚は良くないというビリーフがあるから、何となく自分がなさけなくなるのである。

ビリーフが悩みを生んでいる。

それゆえ、ビリーフを変えると悩みがかわる。

そしてビリーフを変えるには考えることである。