「ねばならない」(あるいは「べきである」)と「である」をなるべく使わない文章記述にすること。
「ねばならない」「べきである」からの解放は心理的健康に大きく影響する。
悩む人の有する文章記述は圧倒的に「・・・であらねばならない」「・・・すべきである」というスタイルのものが多い。
そしてこのスタイルの文章は人生の事実を無視して、願望を述べているにすぎないのが特徴である。
願望を何度唱えようと、事実が変わるわけではない。
例を挙げて説明しよう。
「妻は食事と育児に専念すべきである」といきまく夫がいる。
それゆえ妻はカルチャーセンターにも行けず、寿司を注文するのも気が引ける。
「妻は食事と育児に専念してほしいなあ」と素直に願望らしい文章にすれば事実(夫の本心)に近くなるが、「べきだ」と永遠の真理を説くような言い方をするので、これが悩みのもとになるのである。
今の時代は夫も食事の準備をし、赤ん坊のおしめを替えないと家庭生活が維持できない時代になりつつある。
そういう事実を無視して願望だけを唱えてもいかんともしがたい。
自他を不快にするだけである。
それゆえ、事実に則して「べきだ」という文章記述を修正するのである。
一案を示そう。
「妻が料理と育児に専念してくれたらそれにこしたことはない」
「私は料理や子守りは好きではない。しかしそれをした方が家庭生活はスムーズに流れる。
それゆえ、好きではないがしないよりはした方が得である」
この世の中で、「どうしても・・・でなければならぬ」という事柄は意外に少ないものである。
大部分が「・・・であるにこしたことはない」という類のものである。
イラショナル・ビリーフ(とらえ方)を修正する場合の第二のチェックポイントは「である」である。
「・・・である」と断定的な文章記述がある場合には、次のようなことを考えるとよい。
第一は拡大解釈の度がすぎていないか、である。
アメリカのある大学に留学した人が「アメリカの大学はだめである」と言ったとする。
たまたま自分のいた大学がだめだったからといって、アメリカの大学のすべてがだめのような言い方をするのは事実に則していない。
それゆえこう言った方がよい。
「私が在学していた大学はだめでした。だからといってアメリカの大学すべてがだめであるといっているわけではありません」と。
「私は語学が不得意である」という表現も拡大解釈のしすぎである。
「今のところ私は語学が不得意です。だからといって今後永遠に不得意だというわけではありません」と。
このあたりの感覚は統計学のアイデアを模倣するとよい。
統計学では「知能の高い者は学力も高い」と断定しない。
知能の高い者は学力も高い場合が多いが、そうでない場合も何パーセントくらいはありうる、といった具合に確率が高いだけであるといったような慎重な言い方(事実に則した考え方)を持っている。
「である」に注意したほうがよい第二のことは、解釈にすぎないものを事実のごとくに記述する危険性である。
たとえば「父は私を愛していません」というのはいかにも事実を語っているようであるが、これは解釈(推論)である。
「父は私に送金してくれません」なら事実の記述である。
倒産したから送金しないのかもしれない。
そこで概していえば、ラショナルな文章記述は「である」という断定が少なく、「という場合が多い」とか「・・・ならば―となる確率が高い」といった事実を記述する表現になることが多い。