:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 《百の広場に飛び出そう》 (そのー2)

2014-05-12 18:56:59 | ★ 現代カトリックの宣教「100の広場」

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《百の広場に飛び出そう》 (そのー2)

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前のブログ「100広場の宣教の派遣式」が5月3日の出来事だった。

その翌日、5月4日の日曜日、ローマ市内の100の広場を選んで、さっそく街頭宣教が行われた。

 

私たちの小教区の共同体は、みんな一緒になって、

ローマの4大バジリカの筆頭、サン・ジョヴァンニ・ラテラノ教会の前の

道路を挟んで反対側にある、アシジの聖フランシスコ像の脇の広場に陣取った。

バジリカの正面には一週間前に聖人に挙げられた二人の教皇の肖像がまだ掲げられたままだった。

 

記念碑の石積みの脇に、手ごろな空間が広がっている。

聞いたところによれば、今日の正午の聖ペトロ広場でのアンジェルスの祈りの後の挨拶の中で、

教皇はあらためて、「100の広場に行って宣教しよう」 と呼びかけられたそうだ。

 

広場と後ろの公園の境の柵に付けられた横断幕。そこには、

「パパ・フランチェスコと一緒に広場に行って、イエス・キリストを告げ知らせよう。彼は私たちを救ってくださる。」

と書かれている。

 

大きく輪を描いて兄弟たちが展開する。街頭宣教は先ず教会の祈りの「朝課の祈り」から始まる。

共同体の歌と、詩編の読誦があって、その歌声は

用意された何セットかのポータブルスピーカーから、バジリカ前の広場に居る全ての人の耳に届くボリュームで響いてゆく。

 

  

広場に居る人たち、道行く人たちは、何事が始まったかと、好奇心で耳ダンボ状態だが、・・・・

まだ近寄ってきて人垣を作るまでには行かない。

 

ローマの広場で、髪の白くなったアジア人神父の私が、福音書をマイクを通して朗読すると、

それを受けてベテランのカテキスタが、キリストの復活の出来事と、その意味などについて、言葉豊かに語りかける。

ときどき、キコの歌が間に挟まれる。

 

私の共同体の50才がらみの マッシモ は軽い発達障害があって、コミュニケーションにやや問題があるが、 

ボンギを叩くリズム感だけは達人の域に届いている。このタイプの障害者の特質か、その持続力には定評がある。

ギターがなり始めると、いつまででも叩き続けることが出来るのだ。

 

  

お天気がいいから、子沢山の若い夫婦たちは子供たちを連れてきている。

子供たちは、それぞれ小型のタンブーリなどの簡単な楽器を持たされている。

こうして宣教の習慣は子供の時から身について行くのだろう。

 

   

左の電動車に乗って参加した ダリオ は10年余り前に労災事故で両足を膝下から失って義足生活だ。

彼は兄弟たちの一番バッターで、自分の信仰体験、回心の歴史を語り始めた。

離婚に終わった不仲な両親の間に生まれ、キリスト教の信仰とはおよそ縁遠い環境を生きてきた。

ふとしたきっかけで新求道共同体の集まりを知り、暖かい人の輪に惹かれて教会に近づいた。

結婚をして3人の女の子に恵まれ、幸せをつかんだかに思われた時、事故に遭って、両足を失った。

生活は一変した。神の愛を疑い、死を思った。しかし、共同体の兄弟姉妹に励まされ、支えられて、何とか立ち直った。

あらためて神の存在を感じた。そしていま、共同体の中で信仰を深め、回心の道を歩んでいる。

「神は私に試練を送ったが、 彼は私を愛し、信仰の恵みを下さった。神はいる!

キリストは復活した。私の罪を赦してくださった。私は永遠の命の喜びを見出した!云々。

 

   

ダリオの、そして、それに続く仲間たちの信仰体験、信仰告白に、

道行く人が立ち止まって聞き入る。兄弟たちが声をかける。リーダーが、マイクをもって近づき、対話を始める。

スピーカーから流れて聞こえてくるこの対話の中身に、広場の人たちが耳を傾けているのが分かる。

 

  

だんだん話の輪が膨らんでいく。

 

   

興味を抱いた人が寄ってくる。

 

歌と祈りで集まりは締めくくられる。

「次の日曜日も私たちはここに来ます。興味のある人は同じ時間にまたいらしてください。

共に祈り語り合いましょう。」という呼びかけで、今日の宣教活動は終わった。

あのカトリック教会がここまでやるか!

 

           

広場の一部始終を一週間前に聖人に挙げられたばかりの二人の偉大な教皇の絵がずっと見下ろしていた。

聖ヨハネ・パウロ2世と                  聖ヨハネス23世だ 

 

天国の聖なる教皇が見守る中、共同体の兄弟たちは、なすべきことをなした後の充実感にあふれて

子供も一緒に輪になって踊る

 

私をいつも車で送り迎えしてくれるロベルトとステファニアの夫婦。彼らもこの道30年選手だ。

さて、来週の日曜日も同じ広場に同じ人たちが集まってくれるだろうか。

神学校の神学生、神父たちは、それぞれに自分の関係する教会と一緒にあちこちの広場に行っている。

帰ってくると、それぞれ体験談、武勇伝を食事の席で交換する。

一人が言った。

「自分たちはローマで一番美しい広場と言われるナボーナ広場に行った。200人ほどで行った」

(驚いた、これは例外的に大人数だ!)

広場には、いつものように大道芸人たちが芸を競っていた。

流しの音楽家、ブレークダンスの若者、似顔絵屋、パントマイム、手品師、物売り、カフェー、エトセトラ。

数に物を言わせて、マイクとスピーカーで盛んにキリストの福音の伝道をしていると、町の芸術家がやってきて、

「どうか私たちの営業妨害をしないでくれ、私たちには生活がかかっているのだ。」

と申し入れて来たとか。いやー、これは実に難しい問題ですね。


(つづく)

 

 

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6 コメント

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Unknown (フランシスコ)
2014-05-13 13:34:45
日本のカトリックの聖職者や修道者は、直接宣教しないことについての言い訳探しばかりしています。結局、既存の体制と秩序を壊すことが怖いのです。そして、恥をかきたくない。プライドと保身です。なおかつ、妨害が怖い。日本のカトリックは、宣教の勇気が無いのです。
返信する
Unknown (フランシスコ)
2014-05-13 13:36:19
街頭宣教は公けの証しであり、福音が例外なくすべての人に向けられたメッセージであることのしるしですね。私も資金と時間があれば、このような伝道をやってみたいといつも思っています。
返信する
Unknown (Unknown)
2014-05-13 13:39:10
谷口神父様へ

「100の広場に出かけて宣教する」ブログ記事を
読ませていただきました。

素晴らしい宣教ですね。しかし、これこそが伝道の基本ではないでしょうか。
使徒たちも広場で宣教しました。そして、対話をしました。
それは公けの証しであり、福音がすべての人に向けられたメッセージであることの
しるしです。

日本のカトリックの聖職者たちや修道者も、国家体制に擁護された傲慢な殿様商売をやめて、
このような謙遜で真剣な伝道を始めるべきですね。
日本の新興宗教や新興キリスト教団体の熱心な伝道に見習うべきです。
直接宣教しないことについて、言い訳ばかりしていることをやめるべきです。

私の街、所沢でも、エホバの証人の方々が、駅前の街頭に立って
宣教しています。私の住むマンションの住民に、その中の一人の方がいます。
彼は普段は植木職人をしていますが、日曜日になるとスーツに着替えて(!)、
変身して駅前の街頭に立ちます。
いつもとても晴れやかな笑顔で挨拶してくれます。

街頭宣教は、信仰者の根本的な欲求、ストレスを発散してくれるものでもあるようです。

私も資金と時間があれば、このような街頭宣教をやってみたいものだと
いつも感じてきました。しかし、私の置かれた家庭と仕事の環境では、それは不可能です。

ローマからの素晴らしい記事、ありがとうございました。

T.K.
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Unknown (東京バロック少年)
2014-05-13 13:47:39
神父様、日本にも昔、「辻説法」というのがありましたね。信徒版「巡回説教師」ですね。「殉教と証しは同じ語源」、「教会は宗教の大学ではない」という教皇様の言葉と合わせて、色々なことを考えさせられます。
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コメントを下さった皆さまへ (谷口 幸紀)
2014-05-13 14:44:49
このブログへの反応は早かった。
関心のポイントに触れたようですね。
私がブログに書いたのは、ローマの現実です。教皇フランシスコ以下、教会は今や挙げて第2バチカン公会議を実施に移す段階に入りつつあります。
日本の教会には、第2ヴァチカン公会議はまだ届いていない印象を受けます。ローマは、50年たって実戦の段階に入ったが、日本にはまだそれを届ける努力が必要です。今届いても、実践に入るまでにはまだ50年かかるかもしれませんね。
返信する
ローマの現実 (MG)
2014-05-14 12:50:33
私の知っている限りにおいても,
ローマは,
ある意味世界でいちばん先進的です。
ところが日本では,一般に,教皇のお膝元ローマは,
世界でいちばん保守的と思われているようです。
ミサはラテン語でグレゴリオ聖歌,
そこで暮らす聖職者も品行方正,といった感じで。
ローマのシスターは,
イタリア人のおばちゃんたちのように,
店先で値切ったりはしない,
とそう思われているはずです(笑)。

そのようなわけで,
日本においてローマに倣うということは,
古臭いことをするということと同義です。
現在の日本の教会の懐古主義のようなあり方を見ると,
神父様のおっしゃるように,
第二バチカン公会議はまだ届いておらず,
さらにそれ以前の時代に逆戻りしているように思います。

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