:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 時間の流れに

2022-08-25 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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時間の流れに

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在りし日の聖イグナチオ教会

 

 私の仕事場は四谷見附の麹町通りに面しています。数しれぬほどの自動車が、それぞれの警笛をならしながら、物すごいスピードで走っていきます。みな、どこかへ、そして一刻も早く行きつくところへいきたいのです。その自動車群のあいだをトラックがわれ遅れじと重いからだをひきずっていきます。すると地震のときのように私の小さな家はゆれるのです。大型バスが猟犬の群れさながらにあえぎながらかきわけて走っていきます。中には駆けている猟犬のしるしが横腹についているのさえあります。都電もまけてはいません。警告するように大きな音を出して自分の軌道にはいってくる自動車や人を追い払います。ときどき明るい子供たちの一団が、遠足にでかけるのです。かたまって横断していきますが、まるで夏の森にいる小鳥のようにそれほどにさえずりながら通ります。

  先だって総選挙の時は、色とりどりの自動車から声をからして候補者の美徳をどなっていましたが、たしかにあの時は騒音がその極に達したときでした。私の友だちはこれは政治家のくだらぬ宣伝ですときめつけ、母親たちは子供がそのために怖がって困ると新聞にかいていました。それにくらべると筋向いにある消防署はもっと親しみがあります。義務とはいえ、防火週間中うっかりした人びとに「火の用心」をすすめています。むろん拡声器を使ってです。けれどもありがたいことに、うきうきするようなメロディーを聞かせていました。それに、私もときのたつのもわすれ、あらゆる騒音もゆるし、いつまでもこういう賑やかな波の中に生活したくなりました。そうです。こういう騒音は健康で気持ちがいいのです。世の営みは元気よく前進しつつあることを私に知らせてくれます。そうでなくてはなりません。怠けていることほど世の中の意味に反対するものはないからです。

 麹町通のごった返す流れのそばに広い芝生があり、まん中にその騒ぎを知らぬ顔な、しゅろの樹の一群がじっと立っています。そして聖堂の前で番をしています。ときどき人は往来の流れを渡って、このしゅろの樹を見上げ、それから教会の静けさの中へはいります。すると、世のざわめきは遠くの方に聞こえるだけです。時間の波は永遠に向かって潮が引いて行くように消えていきます。

 さて、私は照る日も曇る日も、通りに面したこの角の部屋で時間と永遠の間に坐っています。そして人びとに両方のことを説明する務めをもっています。つまり、時間だけのことを考えている人には永遠のことも考えなさいと、永遠のことだけを考えている人には時間のことも軽視してはいけませんと。幼い子供が来るときには苦労はしません。子供はおかあさんや代母のうでに抱かれて来ます。そして私は子供に「神の教会から何を望みますか」とたずねます。子供は大きな目で、まず私をそれから代母を眺めます。代母は「信仰を」と答えます。私はまた「信仰はあなたに何を与えますか」とたずねますと、代母が「永遠の命を」と答えます。子供たちが早くから永遠の命を知るように、私はこんどは少しの塩を口の中に入れてやります。「英知の塩をうけなさい、あなたが永遠の生命に入れるために役立つでしょう。」子供は塩を少し味わいます。めずらしい味がするので不思議に思い、口もとを歪めます。ときにはほおえむものいます。私がわざと意地悪く塩を入れたのではないと思うからでしょう。

 子供が大きくなりますと、毎土曜日の午後、公教要理の勉強にきます。彼らは時間と永遠をたやすく理解します。私は「みんなで時間をつかまえましょう。それはほんとにそうできるでしょうか。」といって、「さあ、いま!」叫びます。いまはつかまったでしょうか。いや、もう私たちのうしろへ逃げていってしまいました。それはちょうど流れの岸に私たちが立っているようなものです。山から水が流れて来て、私たちのそばを通るときに「いまです」と叫ぶと、もうその水は谷のほうに下っていってしまったのです。しかし私たち自身もそれと同じです。決して時の流れのそばに静かに立っているのではありません。みなさんは今若くて元気いっぱいです。しかし聖書にも書いてあるように、人間は野辺に咲く花のようなものです。朝には咲き、真昼の太陽にしぼみ、夕べに地面に倒れるのです。そのようにみなさんも神の思し召しで長生きすれば、やがてお爺さんやお婆さんになるのです。——子供たちの瞳の輝きがにぶります。時間のうちにありながら、心は永遠に向かって身をととのえる準備をしています。

 学生が私の角部屋へくるときには、真面目な顔で難しい問題をたずさえて来ます。彼らは時間のことがらを基礎の上に立てたいのです。すべてを新しく秩序づけて人間社会の真の幸福をうち立てたいのです。私が「人間の社会とは何ですか」とたずねますと、結局は人間が問題となるのです。私はつづけて「人間とは何ですか、人間の価値はどこにあるのですか」とたずねます。たいていだまってしまうか、あるいは「人間はまあ、やはり人間です」と答えます。もし人間に何の価値もないのなら、われわれのそばをざわめき流れるいとなみはどんな意味や価値を持っているのでしょう。そのことは人間にきいてもわかりません。神の教会にたずねてみなければなりません。教会は今なお昔の思想家の紡いだものを頭髪につけています。なかんずく、永遠からの音ずれをもっています(ゲルトルート・ル・フォール)。

 人間の花は花嫁と花婿です。すべてのほかの花と同じようにやはり時間のうちに咲きでます。ゲーテがいったように、どの草花もどの樹花も一つの驚きです。なにか思いがけないものであります。根や幹や葉からではどんな種類の花が咲くのかあてることはできません。朝につぼみは割れて花が開きます。その形、色、陽の光をうけて澄んだ空気の中にゆれているそのさまは驚くばかり妙なるものがあります。詩人はみな春を、花を、若い心が互いに愛しあうふしぎさを歌によんでいます。ふしぎなのは時間と永遠のためなのです。どの詩人も「とわに緑に栄えよかし、若き愛のうるわしき時よ」(シラー)を念願しています。

 若い二人が神のみ前に立ち、互いにかわらぬ愛の誓いを立てようとするとき、私は二人に彼らの心の「大切な時間Hochzeit (結婚)」の意義を説明しようと試みます。「あなたがたお二人は互いに贈り物として与えられたのです。今日から後はともに歩まねばなりません。それをあなたがたは望んでいます。神に向かってともに歩むのです。婚姻ミサの初めにはこう書いてあります。神よ、汝は選ばれしこれら両人をあわれみ給えり、彼らが汝をさらにもましてほめ讃えるようになし給え」花嫁と花婿には時間がいかに弱く、またどれほど粗いものであるかたやすくわかります。時間が花の若々しいつやをみなほろぼしてしまうからです。時間がこころのつやをほろぼしてしまうことが無ければよいのですのに!

 ごくまれに、歩みつかれたひとが私の角部屋おとずれます。その生涯中にただ時間のみを考えて暮らしてきた人たちです。永遠などはありえないと思っていた人たちです。しかし今やその心の花が開いたのです。おそ咲きの秋のはなのように。老年に咲くその花を彼らは少しはずかしがっているようです。しかし、彼らは次第に上手に神に話しかけることができるようになり、あるいは、克己の業が神への愛ゆえにうまくできるようになると、彼らはまるで子供のようによろこびます。これらすべては、われわれの時間が永遠によってつつまれることのうつくしい保証であります。

 ときの流れは毎日私の角部屋のそばを迅速に流れ去ります。本当をいえば、目の前のきまった目的に向かって走っていくこれらすべての人が、ちょっとここにとどまっていけばよい、そして四谷見附橋の交番ではなく、私の部屋へ来てすべての目的の目的についてたずねていけばよいと思うのです。

 

在りし日の聖イグナチオ教会内部

 

 この一編の表題は、ホイヴェルス神父様の初期の単行本「時間(とき)の流れに」のタイトルとしても使われています。

 この一冊には28編の小品が収められていて、それらは、

  • Kreatur —— 生きもの
  • Kind —— こども
  • Mensch —— 人間
  • Gott —— 神
  • Theater des Lebens —— 人生の舞台

の5つのテーマに分かれています。

 私はこのブログで今までに1.と2.のテーマから数編を選んで取り上げてきました。今回の「時間の流れに」は4.の「Gott —— 神」のテーマのもとに集められた8編の最初のもので、ホイヴェルス神父様の作品の中でも最も代表的な、内容の充実したものの一つ言えるでしょう。

 60年以上前に書かれたこの一編をよりよく味わうためには、その舞台となった聖イグナチオ教会の主任司祭室の環境を知ることが助けになるかもしれません。教会は東京・四谷の見附橋のたもとにあって、新宿の大ガードから皇居の半蔵門に至る都電通りに面しています。当時のこの通りは今のちょうど半分ぐらいの道幅で、その名のとおり都電がゴロゴロと音を立てて走り、雑多な車の騒音と人々の活気にあふれていました。

 師が初代主任司祭になられた時に建てられた教会は、正面の脇に一本の塔のある絵になる建物で、主任司祭の執務室は、米軍払い下げのカマボコ兵舎の端に小さな平屋を付け足した二部屋のちいさな建物にありました。そして、教会の前には、まん中にソテツの樹を配した広い芝生があって、そこは土曜学校の子供たちの遊び場になっていました。

 塔の上には、技術者になったホイヴェルス神父様のお兄様が作って贈られた四つの鐘があり、カランコロンと地上の喧騒の上に明るい天上のメロディーを降り注がせるのでした。しかし、1964年の第1回東京オリンピックを境に様相は一変しました。都電は廃止され、道は2倍に拡幅され、道沿いの二階建ての古い町並みは大きなビルに建て替わり、人間の臭いのする喧騒も消え去りました。そして今では日曜のミサの開始を知らせたり、アンジェラスの祈りや、結婚式やお葬式を告げる柔らかい鐘の音も、ただの騒音として住民のクレームに押されて沈黙したままです。

 師が日長いちにち座っておられた角部屋は、「時間」と「永遠」つまり、この世界と神とをつなぐ神聖は場所でした。

 わたしたちはホイヴェルス神父様の跡を継いで、時間と永遠を繋ぐ大切なお仕事を継承するように招かれています。なぜなら、日本人の大部分は時間のことばかり考えて、永遠を忘れているからです。

 一例をあげましょう。私より年若い畏友のT氏は、ビル・ゲーツとも面識のあるIT関係で一世を風靡した明晰な頭脳の持ち主でしたが、難病をわずらって仕事半ばに惜しくもこの世を去りました。晩年かれは私に、「死は少しも怖くない、自然の摂理で無に還るだけだから。しかし、自分が生きてきた証し、実現した価値までが、すべて虚しく消えてなくなるのかと思うと、限りなく寂しく思う。」と告白しました。彼は多くの理系の頭脳の人がそうであるように、神の存在も自分の体の復活も信じていません。だから、自分の存在の証しの永遠性を本能的に希求しているにもかかわらず、それが無慈悲にも無に飲み込まれて消えてしまう不条理の前に、無限の寂寥感を抱いても、それを癒すすべを知らないのです。 

 私は国際金融マンだった時代に、今の世の人々がいかに保険に依存しているかを興味深く見てきました。

 車の任意保険や健康保険はまあ普通として、生命保険、火災保険、地震保険、ゴルフ保険、葬儀保険?ペット保険?・・・あらゆることが保険の対象になっています。

 それなのに「あの世保険」だけは聞いたことがありません。これは、何か大きな片手落ちではないでしょうか。あの世の命なんてないに決まっているが、もしあった時にうろたえるリスクを回避することをどう担保すればいいのでしょう。

 せっかく何十年も火災保険をかけて来たのに、まだ一度も火事に遭ったことがない。だから、多額の保険金を払って損をした、金返せ、という人はいません。むしろ、火事に遭わなくてよかったと喜ぶことでしょう。反対に、もし保険に入っていなくて火事に遭ったら、それこそ大変です。後悔しても、もう後の祭りです。

 同じことは、あの世についても言えるのではないでしょうか。死んだら一巻の終わり、ただ無になるだけ、復活もない、あの世もない、神なんていないだろうと甘く見て、この世の幸せと安楽だけを追い求めてその日暮らしをしている大多数の日本人が、死んだ出会い頭にばったり神様と鉢合わせしたら、さぞ慌てふためくことでしょう。

 自己過信して、保険を掛けないで火事に遭った人と同じように、死んだらどうせ無になるのだからと高をくくって、死後の命のために生前から保険として生活を整えておかなかった人は、死んでから慌てふためいてももう手遅れ、後の祭りでどうしようもありません。それで、十中八九ないとは思うが、もし万一死後の命があった時に備えて保険を掛けておかないと大変とだ思って、大手の保険会社に飛び込んでも、「あの世保険」などという保険商品を売っている保険会社はどこにもありません。 

 では何処に行けばよい?それは四谷見附の教会の質素な角部屋に坐っているホイヴェルス神父様の所へ行けばよいのです。

 神様なんていないに決まっている、死んだら無に還るだけで何も残らない、復活なんてあるはずもないと人はふつう思うでしょうが、もしもの時のために一応保険だけは掛けておきたい、というのが保険好き人間の賢明な選択ではないでしょうか。

 四谷見附のホイヴェルス事務所にいけば、神父様は忍耐強く懇切丁寧に「神様保険」、「あの世保険」の手続きをしてくださいます。

 先日、久しぶりに銀行時代からの友達のS氏と昼食を共にしました。先にふれたT氏は彼の特別な親友でした。無論S氏も神様保険に入っていません。その彼、無二の親友のT氏に先立たれて、心のどこかに空洞ができて、何となくこころ寂しい日々を送っています。優秀な人ほど、また、現役時代は生き甲斐に満ちた充実した生活を満喫していた人ほど、定年後の天下りした先の仕事も終わると、上品な趣味で時間を満たそうと努めてはみるものの、そこはかとなく侘しい気分に襲われるのは避け難いようです。

 思うところあって国際金融業界から早くに足を洗って、勉強し直して今は神父をしている私ですが、教養もプライドもある立派な紳士をつかまえて、不躾にあの世保険のセールストークも気が引けます。

 そこへ行くと、あの根っからのベテラン宣教師ホイヴェルス神父様は、たぐいまれな人格的魅力の魔術で、さり気なく人の心を捉え、着実にあの世保険のセールスの成績を伸ばしていかれました。どれほど多くの日本人が、神父さまから信仰の手ほどきを受け洗礼に至ったか、神父に結婚式をあげてもらい、生きる意味を見失って懐疑と絶望の淵に立ったとき再び生きる希望を与えられ、また、犯した罪の重さに潰れそうになったとき、神との和解まで優しく手引きされたことでしょう。

 今の平和ボケした日本に、生きることの意味、目的、死の彼方に何が待ち受けているかなどの、人生にとって最も重要な問いに対して何の答えも持っていない人間が多すぎるのは驚きです。魂の盲目、霊的無知の暗闇に住む人は驚くほど多いのです。

 そんな世にあって。グッドニュース、「福音」の宣教は全てのキリスト者の使命です。

 聖書には全世界に行って福音を宣べ伝えなさい。あなたがたは「地の塩」、「世の光」である、と書かれています。私たちはみな、現代日本の偉大な宣教師だったホイヴェルス神父様から学んで、今の世代に福音を伝えるように招かれています。

 具体的にどうすればいい?どこからどう手をつけたらいい?それを共に学ぶのが「ホイヴェルス師を偲ぶ会」の存在意義ではないでしょうか。

 6月9日はもうすぐです。JR四谷駅の麹町口から徒歩1分。主婦会館3F「ソレイユ」の間で午後3時からです。詳細は2つ前、3つ前のブログに出ています。

* * * * *

注を一つ:ホイヴェルス神父様の「時間の流れに」の中にHochzeit(結婚)という言葉が出てきます。ドイツ語で hoch は「高い」Zeit は「時」という意味です。合わせて Hochzeit = 結婚はドイツ語では人生の最も「高い時」を意味します。

 

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古語へのおきかえを修正いたします (新米信徒)
2024-04-30 09:26:17
谷口神父さま

先のコメントにおいてミサの第一奉献文の「死者の記念」から引用いたしましたラテン語の祈りを再び古語風におきかえてみました。たびたびすみません。

ああ主よ、信のしるし(証)をあらはして我らに先立ち、事無(ことな)き長き眠(ねぶ)りにいぬる、御身のぬひ(奴婢)の N と N を復(また)覚え給へ。

それから神父さまの記事「★ 「コメント」への「コメント」
一部補足しました(12月22日)2012-12-22 08:12:45 | ★ 神学的省察」の最後の方にあるお墓の写真の後に神父さまの妹さまのことが書いてあることにようやく気がつきました。わからないことはわからない。すべての永眠された方をおもって祈ることが大切である、と今は思います。以前、神父さまから頂いた
「死者への祈り」についての助言からも影響を受けています。正教会の信仰も近いように感じます。
返信する
上のラテン語の祈りの補足 (新米信徒)
2024-04-29 17:07:54
谷口神父さま

わたし(新米信徒)が上に引用したラテン語の典礼の祈りは、
"The Order of Mass in Latin and English The New English Translation Catholic Truth Society Publishers to the Holy See (2011) " からの引用です。cf. p. 40. Catholic Truth Society は London にあるようです。この本にある上のラテン語の祈りの英語訳は、

"Remember also, Lord, your servants N. and N., who have gone before us with the sign of faith and rest in the sleep of peace. "

Catholic Bishop's Conference of Japan カトリック中央協議会の上記の日本語訳の冒頭は「聖なる父よ、」。先日も書きましたが、この祈りに対しても "Domine" を「主よ」とは訳さないようです。

大変無知である者が古語風におきかえてみました。覚え給へさらに、おお主よ、御身のぬひ(奴婢)の N また N を、信のしるし(証)をあらはして我らに先立ちて息絶えたる、また事無(ことな)き眠(ねぶ)りの中にい(寝)ぬる。

上の英語訳は、神父さまが煉獄について書かれた記事に近いように感じます。

翻訳のことで検索すると、日本正教会の「『パニヒダ』永眠者の記憶の祈り」に出会いました。わたしが上におきかえた奴婢にためらいがありましたが、例えば、「大連祷」に、「輔 常に記憶せらるる神の僕(婢)(某)に安息と平安と福たる記憶をたまわるがために主に祈らん。」、とあります。『パニヒダ』にはただただ圧倒されるばかりです。また、ミサの "et cum spiritu tuo" にあたる祈りは、日本正教会では「 なんじの神(しん)にも」であるそうです。

「★「コメント」への「コメント」 一部補足しました(12月22日)2012-12-22 08:12:45 | ★ 神学的省察」を最近読み、神父さまの(神学的)見解はこのことに対して一貫していることを知りました。
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日付の訂正と補足 (新米信徒)
2024-04-27 13:29:40
谷口神父様 

上のコメントに Ophelia の絵を描かれた方のことをわたし(新米信徒)がコメント欄に書いた日は次です。すみませんでした。
正 12/05/2023. 誤 22/05/2023

それから、この記事を書いたときに「シェイクスピアの宗教観 (2011)」という郡司 郁 先生が日本大学のある紀要に公表された論文を読みました。その論文によると、シェイクスピアはカトリックの信仰を持っていた可能性が高い(推測で、研究途上)とあります。そのため、Ophelia の今はの際の姿から、Ave Maria の祈りを思い出します。

"nunc, et in hora mortis nostrae. Amen." "mortis nostrae" です。

ミサの第一奉献文の永眠された方々を記念するラテン語文は、

"Memento etiam, Domine, famulorum famularumque tuarum N. et N,
qui nos praecesserunt cum signo fidei, et dormiunt in somno pacis. ..."

"Memento" は未来の命令法のようで、古語風におきかえてみると、覚え給へ。正教会の「永遠の記憶」に近いように感じます。煉獄のことは全く感じません。「キリストと我等のミサ(改訂版)サンパウロ書店 (1991)」には赤字で「死者の記念」とあります。また、正教会では「主、あわれめよ」、と唱えるようです。YouTube にある正教会の「聖体礼儀」を視聴して知りました。また、主の御復活と言わずに、「ハリストス、復活」と言うそうです。敬語の用い方が異なるのかもしれません。
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院内学級の生徒の方の絵 (新米信徒)
2024-04-27 00:20:15
谷口神父様 

昨日、以前 YouTube で見たウクライナから避難してきた 12 歳の少女の動画のことを思い出して、また観てみました。何度か観てきましたが、その少女が画布に描いたと思われる絵をみて驚きました。以前は、その絵を見ていても見ていませんでした。真ん中に女性がいて、その女性の左半分の世界は戦闘状態にあるウクライナを、右半分の世界は穏やかなウクライナの自然を表しているように見えました。女性のちょうど真ん中で二つの世界がつながっています。その少女の心の葛藤があらわれているように感じます。二人の親友ができて、心が前を向くようになってきたようで、プロの方の指導を受けて、マジックに挑戦され、破られたはずの新聞がもとにもどって、「ありがとう」と書かれていました。親友の方も大変喜んでおられました。ホイヴェルス神父様のことばにもありますが、信者にとって、"Deo Gratias" 、このおもいが大切なことだと感じます。

一年程前の 5 月 22 日に、「★時間の流れに 2022-08-200:00:01 | ★ ホイヴェルス著=時間の流れに=」のコメントに、ある病院の院内学級の生徒の方が書かれた Ophelia の絵のことを書かせていただきました。今日は、その病院の院内学級の生徒の描いた鳥獣人物戯画の絵をみました。その絵の隅にいる蛙の上に「世のおわり」とあり、大変驚かされました。しかしながら、家に帰って来て、戦争に対する抗議の絵ではなかろうか、と思いいたりました。蛙に見える人物の口から炎のようなものがでて、兎のように見える人物が炎を受けて苦しんでいるように見えました。大変上手に描かれていて、絶望ではなく、「生きている」、ということをみておられるように感じてきました。
Ophelia の絵を描かれた方も油絵を見事に完成させていて、Ophelia が古い聖歌をうたい神様を賛美していることに、「生きている」ということをみておられたのではなかろうか、とあらためて思いました。苦しんでいる人、病気の人から「生きる、生きている」ということについて教えられているように感じます。
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上のコメントの続きです (新米信徒)
2023-12-30 20:35:21
谷口神父様 

上のコメントでわたし(新米信徒)が引用いたしましたホイヴェルス神父様のこと(言・事)だけでは誤解を与えかねないので、上記の「私と日本の歴史ーH神父さまの和敬塾での講演ー香取 国臣・記」の後半の日本の歴史から長く引用することをお許しください。

「まず、私は決して預言者ではない。」、ということを断っておられます。cf. p. 212. 日本に到着後直ぐに起こった関東大震災(大正十二年 1923 年)から日本の歴史は、「新しいほうに運ばれた、と私は思います。」、とあります。そして、「いちばんの不幸は、もちろん第二次大戦の戦後のときです。そのときに、なんと日本の将来は暗いことばかりではないか、希望なしという人も相当ありました。私は決してそうは感じなかった。かえって、日本にはまだ将来に向かってたいへん大きい一つの使命があると思ったのです。これは決してあとから預言したということではないんです。
 一九四〇年、紀元二千六百年の記念のとき、私は上智大学の学長として教壇にのぼり、・・・。『遠く世界のはてに二千六百年よ、静かに己に満足しておまえは深く根をおろした。さあ、今度は花を咲かせ、実を実らせるのだ』。それが私の日本歴史に関する結論であります。・・・」、とあります。cf. pp. 213-214.

「次に現在は科学も哲学も神学も、前より静かに、また正直になりました。」、とありますが、「いちばん困っているのは哲学者です。哲学者たちは自分の知識だけで人間という問題を解決したい、あるいは研究したいのです。けれども人間は、人間だけでは人間について何の結論も得られない。道徳の問題にしても、道徳は永遠のみ心というものがなかったら、どうして存在するでしょう。」、とあります。cf. pp. 214-215. また、「科学は神の使命です。この科学に対する頭、能力を神は人間にくださったのですから、人間は科学によってこの地上を救わなければならない、そして世界戦争を防止せねばならない。・・・」、とあります。cf. p. 215. そして、人間のパーソナリティのこと、細川ガラシャ夫人のことが続き、「それは現在の私たちのことに対する、一つのしるしではないでしょうか。すなわち哲学上も信仰上もいわゆる生きているパーソナリティ、絶対的な価値ある人間の自我、また神のパーソナリティのつながりがあって、こうしてはじめて歴史の中のいちばんの目標が生まれ、そのために歴史があるのです。」、とあります。cf. p. 218. そして、結婚式のことから、哲学者カール・ヤスパースの結婚のことが続きます。相手がユダヤ人の娘である
ことから、結婚後、彼は、哲学者としての結婚についての疑問をもって旧約聖書をみると、「第一ページの人間の使命についても、人は父母を離れて妻に接すべきもの、それから男の使命は、大自然を征服すること、また女の使命、それは助けの意味と、また命の泉であること。それで神の存在を発見しました。この話は結婚式のときにするのです。」、とあります。cf. p. 219. この後に、「愛」のはなしが続きます。その最後に、「世の中は困難でいっぱいですけれども、神と一緒にそれを忍びますと、まあ、なんとかなります。それは歴史、また日本の歴史においても、その中心点ではありますまいか。」、とあります。cf. pp. 220-221.

最後は、「最後に、一言で全部を申しますとみなさんは若い人です。大きいエネルギーをもって日本の将来のために、正しく力強く働いてください。物質的な文化だけでは、どうも人間には足りないのです。精神的な文化、すなわち心の文化がその目的です。心の文化は、いずれ永遠の花が咲きます。それは人類の存在のありさまであります。
 ごきげんよう。 」 cf. p. 221.

この書(ふみ)に仕合(しあ)はせ覚(おぼ)ゆれど、秋の気色(けしき)もまた見(み)ゆ。
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私と日本の歴史(ホイヴェルス神父様) (新米信徒)
2023-12-29 15:32:33
谷口神父様 

「森 緑 編 ホイヴェルス神父を語る 中央出版社(昭和 52 年)」、の、「私と日本の歴史ーH神父さまの和敬塾での講演ー 香取 国臣・記」 は、上の記事に深くつながっていると思われますので、長い引用をお許しください。

「・・・。まず歴史について、私は少し形而上学的に申し上げたい。なんのために人は歴史に興味をもって研究するか。ー三つの答えがあります。一つは、過去を知るため。・・・。二つには、現在を理解するために過去を研究する。・・・。たとえば私のような外から日本に入ったものは現在の日本ばかり見て、とくに東京の現在だけを見ていますと、まだ本当の日本についてたいしたことは知り得ないのです。三番目の答えは、将来を知りたい。」 cf. pp. 202-203. 上の「現在から・・・見て」、に傍点があります。

「・・・。いちばん厳しい歴史上のものは死の裁きであります。『死』、恐ろしい言葉です。ドイツではトート (tot) と申します。死というものがあるから、歴史もあり、若いゼネレーションもあり、年取ったゼネレーションもあるのです。いずれ地上のすべての歴史は消えてしまうはずです。それは当然のことではないでしょうか。この地上の人間の存在は永遠のものであります。いまどういうふうにして滅びるか、まだ決まっていないのですけれども、滅びる可能性はたくさんあります。あるいは天文学の研究からもどういうふうにして地球は滅びるのか聞いてみたい問題です。・・・。もし人類が地球から消えてしまうならば、いままで築いてきた文化、たとえばギリシャの彫刻とかあるいは数多の詩人たちのりっぱな作品、あるいはすべての人たちの美徳、こうしたあらゆる価値は、どうしてそのまま滅んでしまうのか、という疑問に逢着します。
とにかくこの人類の目標については、何らかの信仰、確信を
もっていないと答えることができません。」cf. p. 205-206.

フォイエルバッハのハイデルクベルク大学の学生たちのための
講演についての考察の後に、「このこと(*「祈る人より
働く人になれ」、「あの世の志願者より、この世の人間になれ」、「半分動物、半分天使である状態から人間になれ」)は歴史のいちばん深い問題に触れています。私たちは、いつも、これでもなく、あれでもなく、両方を認めなければならない。
それではじめて健全な人生観になる。・・・。人は祈りなさい、そして働きなさい、両方必要です。働くだけで人間の使命を十分に果たすことはできません。死んでからどうなるかーハムレットも嘆いて言っている。
to be or not to be, that is the question. はっきりと not to be だったら、非常に簡単な人生になります。私自身の気持ちでもそうです。もしあの世は、確かに何もないならば、無意味な動物的な世界です。それならこの世の中において非常に自由な気持ちになれます。心とか良心の拘束とかいうものが何もない、
本能とか欲望のままになんでもーただ警察と衝突しないように。それで十分ではないでしょうか。ですから、to be or not to be, 確かにそれは疑問だ。そのためにまた働くことも必要です。これも、たびたび私たちキリスト教に対して言われる不平は、世の中はそんな甘いものではない。あまり糞まじめすぎる。でもそれはまちがっています。もしこの世の中を充分まじめにとらなっかたら、私たちは人間の使命に反します。この世の中の働きによって永遠の生命は決まるのです。」cf. pp. 209-211. ハムレットからの引用のカタカナの部分は省略しています。

「・・・。全部動物だったら、どうにも希望がない。同時にまた人間は半分天使です。人間は理想主義者です。人間はいい気持ちで、どんなに理想的に考えるか。よいことをした時の人間は、まったく普通の人間概念を越しています。重要なことはそこにバランス、つり合いをとることです。それこそ結局歴史の中の人間の難しい仕事であります。」cf. p. 212. この後に日本の歴史について話が続きます。

この講演の冒頭の言葉から推測すると、この講演は 1968 年または 1969 年頃になされたのではないか、と思われます。この書に出会えて仕合(しあ)はせです。
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異邦人への宣教 (新米信徒)
2023-07-07 00:54:57
神父様 

わたし(新米信徒)が上のコメントに書いた 1 Pet 2:12 の Nova Vulgata の古語風のでたらめなおきかえをする前に、バルバロ神父様による訳 (1980) を読みました。そして、"bonam" に相当すると思われるバルバロ神父様の訳におけることばは、「申し分のない」だと知りました。このことは古語ではどのように言うのだろうか、といろいろ考えて、一応、「うつくし」、にたどり着きました。このおきかえは妥当だろうかと、ど素人なりに考えているうちに、神父様がよく知っておられる、いくつかの(大)家族からなる共同体のことが思い出され、 それほどおかしくもないように感じました。Liturgia Horarum では、通常、主日の前の晩の寝る前 (Ad Completorium) に、申命記 6:4-7 を唱えると思いますが、これは「シナゴーグ」でのことではないと思います。

次に、わたしがまたみた少女のことを書きます。一月ほど前に、スーパーのカートを小学三年生ぐらいの少女が押していました。そのカートには四歳ぐらいの男の子が座って乗っていました。その少女はカートをカート置き場まで押していきました。めずらしいことだと思って見ていると、その少女は、男の子を肩の上程まで持ち上げて、いったん抱いて、それから腰のあたりまで下げて、そのまま抱きかかえて、母親と思われる方とスーパーの外にでていきました。今日見たのは、中学一・二先生ぐらいの女学生でした。保育所にいた子供をだき抱えかかえて家に帰っている母子をみつけて、小走りにかけよっていき子供を抱こうとしていました。その女学生は、急に向きを変えて、わたしの横を小走りですれ違って行きました。このようなことをしている男の子の姿をわたしは少なくとも、ここ二年間程の間、見たことがありません。

最後に、「摂理の根の海に沈んだ医師のことほぎの書
ールカ聖福音書 押田成人(神父様) 出版社 思草庵 平成二十五年」の「まえがきに代えて」に、「あれは『使徒の行録』ではない、『神家族の現(うつつ)の展望』だね。・・・・・・」とあります。押田神父様が学生のときに出会った師は、ホイヴェルス神父です。このコメントは、あえてぼかして書きました。
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1 Pet 2:12 の文語訳 (新米信徒)
2023-07-04 22:35:19
谷口神父様 

わたし(新米信徒)が、上のコメントにおいて、(疎・愚)かな動機により、1 Pet 2:12 を、でたらめに古語におきかえました。そのままにしておく訳にはいかないと思いますので、2 つの文語訳を以下に引用します。

後からコメントに書いた多くのことを振り返ると、ホイヴェルス神父様の「時間の流れに」につながっている一つの流れのようなものを感じます(わたしの主観ですが)。多くの感じたことをコメントに書いていることをお許しください。

ラゲ訳 (1910 年版)

使徒聖ペトロの前(さきの)書簡 2:12

「汝等異邦人の間(あひだ)に在(あ)りて善(よ)き行状(ぎゃうじょう)を守れ、是(これ)彼等をして汝等を
惡人として譏(そし)る所に於(おい)ても、善業(ぜんげふ)によりて汝等を重んぜしめ、訪問せらるる日に神に光榮(くわうえい)を歸(き)し奉(たてまつ)らしめん為なり。」

舊新約聖書 文語訳 日本聖書協会 (1887, 1917, 1982) の 1982 年版からの引用。

ペテロの前の書 2:12

「異邦人の中(うち)にありて行狀(ぎゃうじゃう)を美(うるは)しく爲(せ)よ、これ汝らを謗(そし)りて悪をおこなふ者と伝(い)へる人々(ひとびと)の、汝らの善き行爲(おこなひ)を見て、返(かへ)って眷顧(かへりみ)の日に神を崇(あが)めん爲(ため)なり。」

「眷」は、ケン、かえりみる。「藤堂明保 編 学研漢和大辞典 学習研究社 1978 年初版」によると、眷は、「目をぐるりとまわしてみること。」のような感覚からきているそうです。文字通り、聖ペトロの上のことばをとると、今のカトリック教会の教えにあるとおり、イエス様に出会っていない人とのかかわりは、大変大切なことのように感じます。ただし、教導に従うことも大切なことだと感じます。

ホイヴェルス神父様が日本に来られて、日本人と出会われて、初めに日本での宣教についておもわれたことともつながるように思います。無知なものの単純な感想です。
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返信そしてキコ氏のこと (新米信徒)
2023-07-02 21:48:10
谷口神父様

大切なことばをありがとうございます

プロテスタント教会との関りで、4 月の初め頃から 1 Pet 2:12 が気になっていて、Nova Vulgata 1 Pet 2:12 "conversationem vestram inter gentes habentes bonam,
ut in eo, quod detrectant de vobis tamquam de malefactoribus,
ex bonis operibus considerantes glorificent Deum in die visitationis." を大変(疎・愚)かな了見で、でたらめですが、古語におきかてみました。汝らの縁(ゆかり)異邦人の中でうつく(愛し・美し)く保て、其処(そこ)で悪(わろ)しかるとまさに汝らから離(か)る者、うつくしきわざをはか(計・量)りて、御訪(おとづ)れが日に隠る身様を湛はむがため。

「角川 新版 古語辞典 久松潜一 佐藤謙三編(昭和四十八年年 新版初版)」には、「『うつくし』は本来、非常に親密なる感情を表わし、やがて、小さいもの、幼いものについての愛情へと転じた語。」とあります。途中からキコ氏の証言にはどのようにあるのだろうかとおもうようになり、「キコ・アルグエヨ 著 IL KERIGMA 福音の告知 バラックの貧しい人々の間で フリープレス刊 (2013)」にあるキコ氏の証言「バラックで:証言」の冒頭を再び読み直しました。その中の「死から命へー『神は存在する!』」の pp. 27-28 に、「・・・。私はマルクス主義者ではなかった。正義への強い憧れを抱いていたマルクス主義者の友人たちに私は言っていた。『私にはわからない。あなたたちは、すべての人に正義が行われる共産主義的天国を創ることを望んでいる。しかし、全歴史に対する答えを出さなければ、あなたたちも結局はブルジョアだ。さらに言えば、もしあなたたちがこの天国を創るようなことがあったら、私は爆弾を持ってそこを訪れたいものだ。なぜならあなたたちには、歴史上の不正義の代償の上に幸福をつかむ権利はないからだ。捕らえられ、船倉にぶち込まれ、そこで惨めに死んでいった黒人たちに、あなたたちは正義をもたらすことができるのか。・・・』」。わたしには、このことは、キコ氏に「神の現存」の感覚が来る前からあったことのように感じます。ここまで徹底されたことであることを忘れていました。理念や観念だけから到達できることとは思われません。心の痛みを越えているようにも感じます。
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ありがとうございます。 (新米信徒)
2023-06-30 00:54:08
谷口神父様 

貴重な助言をありがとうございます。初心にかえって、祈りをみてみます。

わたしの私的な祈りには隔たりはないように思いますが(単なる願望かもしれませんが)、「時課の典礼」全体からは
教父やカトリック教会の信仰のありかたを強く感じるような気がします。わたしのような未熟者には両方必要な気がします。ミサは、与るだけで、何かが変えられるような気がします。

「祈り」につながっているように思いますので、以下のことを書きます。

神父様のブログの
「鶯と詩人  
ホイヴェルス著 =時間の流れに=」 (28/08/2022)

に、神父様がナイチンゲールさんのことを書いておられますが、わたしがプロテスタント教会と関わったことからの動機により、比較的最近、ナイチンゲールさんについてのいくつかの論文を読んでいました。
そのうちの一つである  

「日本赤十字九州国際看護大学紀要 第 12号 (2013年 11月)
F.ナイチンゲールの近代看護の確立
ー科学とキリスト教信仰 という内在的矛盾を抱えてー
徳永 哲 1)

1) 日本赤十字九州国際看護大学」

の 19 page から一部を引用します。

「ナイチンゲールに影響を及ぼした同時代の神学者はフレデリック ・モーリス (Frederick Denlson Maurice,1805-1872)であった。 モーリスはガイ病院(Guy's Hospital)で 1836年から 1846年まで 10年間病院付司祭 として道徳哲学を担当した。彼はユニタリアンの牧師の息子
として生まれたが、国教会に移り、オ ックスフォード大学を 1830年に卒業。彼の「キリスト教社会主義」(chrlstianSociallsm)はナイチンゲールの思想形成に大きく影響した。塚田理は 『イングランドの宗教』C~2)において次のように書いている。
  キリスト教社会主義とはふつう私たちが考える「社会主義」 という一つのイデオロギーを指すのではなく、社会的関心から遠ざかっているキリスト者に対してまさにキリスト教の福音の立場から社会問題に関心を抱き、そのために行動するように促した。モーリスの宗教論の前提は、キリストは全人類の救済者であり、王である。人類はキリストの購罪によって罪を赦され、キリストの王国の民とされた。そうして、人間は新しい実在において生きるようになった C~2),p.319
0

モー リスの 「キ リスト教社会主義」は 「キリストの王国」 (The Kingdomof Christ)を建設するということでもある。」

「C 2)塚田理:イングランドの宗教 教文社、2006」

その他にナイチンゲールさんの信仰のことが多くあり、またそのことと実践のこともあり、多くのことを教えられるように思います。岩下神父様とハンセン病との関りをどこで知ったのか思い出せませんが、神父様のブログのコメントに、神学の研究者としてしか知らなかったことを書いたことは、比較的最近だと思います。ばらばらではなく、つながっているように感じます。いつも長文をすみません。
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新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2023-06-28 10:15:31
私は祈りにおいて、カトリック、正教会、プロテスタント、強いていえば、祈る全ての人の祈りに、ことさらに垣根を設ける必要はないと思います。
祈りを聞いておられるのは唯一三位一体の天地の創造主の神様であって、神様はすべての人のすべての形の祈りを組織や集団の媒介を必要とせずの聞き分けられると思います。
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「正教会の祈り」について (新米信徒)
2023-06-28 08:48:17
谷口神父様 

神父様のブログにプロテスタント教会の「信仰の友」について曖昧に何度か書きました。その方(そのかたの共同体)のことについて、神父様に個人的に伝えようと思っていますが、根本のことでよくわからないことがあり、まだ控えています。カトリック教会の(イエス様の)無償の愛(アガペー)のありかたについて、相手の共同体のありかたと隔たりがあるように感じています。わたしの邪推かもしれませんが。

わたし(新米信徒)が上に書いた「Romania 観光・商務局」の site の「正教会の手引き」の、第五章 正教会の祈り、の、私祈祷、に、「正教徒は、教会に来た時だけお祈りすればよいのではありません。 普段から、家でもどこでも祈りを神に捧げることが大切です。 しかし、正教徒がプライベートに祈る時にも、 『小祈祷書』と呼ばれる本にそって行うよう勧められています。『小祈祷書』の中の言葉も 教会で公に祈る時に使用する奉神礼書の中から引用され編集されています。 つまり、正教会では、個人と教会は祈りにおいて分離されません。 個人的に一人で家で祈る時も、正教徒は、孤独ではなく教会と共に祈っています。教会でみんなで口をそろえて祈る時も、正教徒は個としての自分を失いません。・・・」とあります。わたしの感覚と少し似ているように感じます。その一方で、例えば、カトリック教会の祈り "Ave Maria" の最後の "nunc, et in hora mortis nostrae." の "nostrae" が日本語訳から欠落しているように思います。 以前、でたらめかもしれませんが、今、また我等が今はの際にときに、と古語におきかえました。わたしの愚かさ故に間違っているかもしれませんが、死に臨むときに、神様とわたしだけではなく、すべての信者が祈り合い、マリア様を通してイエス様とつながるように、というおもいをこめました。

ただし、わたしには、ベネディクト十六世教皇様も仰ったように、カトリック教会の人間味がある信仰が合っているように感じます。これからも、正教会とカトリック教会の対話が続けられることを願います。
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[Romania 観光・商務局の site の補足 (新米信徒)
2023-06-27 07:37:20
谷口神父様 

わたし(新米信徒)が先に書いたコメントにおける「Romania 観光・商務局」の site にある正教会については、この site の、

top -> 一般情報 -> 「ルーマニアの宗教ー正教」にあります。
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正教会におけるつながり (新米信徒)
2023-06-27 00:03:31
谷口神父様 

いつも長文をすみません。

プロテスタント教会とかかわってから、つぎからつぎに多くのことに気付かされるようで、不思議です。

偶然、「Romania 観光・商務局」の site の第七章 「正教徒の心得」の、諸奉神礼、の、埋葬式、の後半に、「ハリストスと結びつく正教徒同士の絆は、死によって切断されません。教会は、精神的な面において、生きている者、死んだ者に区別を置きません。生きた者同士が互いに祈り合うように、相手が永眠してもその祈り合いは継続されるのです。永眠者のためにハリストスに天国と安息と罪のゆるしを祈る行為は、愛の行いの一つです。」とあります。わたしに起こった(であろう)衝動とその後の感覚は、正教会の信仰に近い面があるようです。28/05/2023 に、上のコメントに書いた「可愛い八歳の娘ラケルを交通事故で失った、母親の手紙」にこころが響いたこともそのあらわれだと思います。Liturgia Horarum (教会の祈り)の影響が大きいかもしれない、と感じます。ただし、わたしに初期の教会の信仰のありかたの大切をはっきりと述べてくださった最初の方は、谷口神父様が最初だと思います。正教会のことを少し意識したのは、「愛と永遠 Vitam Aeternam 
ペトロ・ネメシェギ(神父様) 聖母の騎士社 (1993)」の、第一話 すべてのキリスト者が一つになるように、の、再び一つになるために、にある「永遠のいのちという港に向かって進む者」としての比喩「、正教会の人たちはもう港に着いていると思って安心しているかのようです。」からです。初めて読んだときは、全くわかりませんでしたが、今は、ぼんやりと感じることはあります。年間 第 25 主日 A 年 使徒パウロのフィリピの教会への手紙 (フィリピ 1・20c - 24,27 a)をミサで複雑な気持ちで朗読したことが思い出されます。また、そのミサの帰りに偶然会ったプロテスタント教会の信仰の友に、わざわざこのことばを見せてしまいました。本当に愚かな者ですが、反省はしています。
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聖母マリアの汚れなきみ心 (新米信徒)
2023-06-17 23:27:18
谷口神父様 

今日 17/06/2023 に Liturgia Horarum の Immaculati Cordis Beatae Mariae Virginis Memoria (直訳 聖なるおとめのマリアの汚れなきみ心 記念日)の朝の祈りを唱えましたが、詩編 92, 申命記 32・1-12、詩編 8 のすべてからイエス様を強く感じました。以前は、「教会の祈り」を唱えると、Deus 様が表に出てくるように感じましたが、旧約聖書の中にイエス様やマリア様をみることの大切さに気がついてからは、変わってきました。詩編 92 では、Nova Vulgta の "PSALMUS 92 (91): 11 Exaltabis sicut unicornis cornu meum, perfusus sum oleo" の "unicornis"(一角獣の)からイエス様とおとめであるマリア様を感じました。迷信やこじつけと笑われそうですが、わたしが分析的に聖書を読もうとすればするほど、イエス様から遠ざかっていくように感じます。ど素人の感想です。
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聖チプリアノ司教のことば (新米信徒)
2023-06-16 00:09:47
谷口神父様 

わたし(新米信徒)が 5 月 18 日に、上のコメントで、「『聖書のみ』その前提 クラーク・カールトン(日本語訳)」のことを少し書きました。ごく最近、「主の祈り」で気になることがあったので、ベネディクト 十六世教皇様の著書「ナザレのイエス」を見ました。教皇様は、教父 聖チプリアノ司教のことばを引用しておられました。聖チプリアノ司教は、210 年頃から 258 年。カタルゴの司教、殉教者だそうです(毎日の読書からの引用)。調べると、「毎日の読書 第 5 巻 年間 2 カトリック中央協議会 (1991) 」に、この教父の「主の祈りについて」が年間第十一主日から年間第十一土曜日までにあることを知りました。その中の年間第十一月曜日の「聖チプリアノ司教殉教者の論述『主の祈りについて』 わたしたちの祈りは公で共同のものである」を読んで驚きました。「信用に値する聖書が述べているように、」とことわって、「ダニエル書補遺 アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌(新共同訳聖書 (1987))」のことが引用されていました。この賛歌は、祭日の朝に、Liturgia Horarum(教会の祈り)で必ず唱和されます。他には、使徒言行録 1・14、詩編 68・7(七十人訳)、マタイ 6・9、ヨハネ 1・11-12 が引用されています。この教父のことばは、自然に感じられ、また初期の教会で朗読され、聴かれていた箇所はつながりをもっていたであろうことを感じました。以前は、愚かにも、聖書全体が初めからあって、初期の教父は、その聖書のすみずみまで精通していて、現代の聖書学者のようであると思っていました。正教会の松島司祭が仰っていることを、カトリック教会の信徒であるわたしにおきかえてみると、もし「聖書」を読もうとするのであれば、先ず、主日のミサの聖書の朗読箇所、答唱詩篇、アレルヤ唱を繰り返し味わって、そのつながりを感じることが大切なことであろうと感じました。そのことは、ベネディクト十六世教皇様が「信仰について ドン・ボスコ社 (1991)」で仰っている「カトリック者は各々、自分の信仰(教会の信仰と一致した信仰)が、いかなる専門家や知識人の”新教導”にもまさる、と信じる勇気をもってほしい。」cf. p. 101、とつながっているように思います(もし、わたしが勘違いをしていなければ)。

わたしが感じた衝動は、ことばにすると、つながっているということを強烈に感じていた、ということです。
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「隣人」について (新米信徒)
2023-06-14 07:30:09
谷口神父様 

「隣人」についての返信をありがとうございます。旧約聖書と新約聖書では、「隣人」が大きく異なるように思います。「孤独」であることは深刻なことですが、Liturgia Horarum(教会の祈り)の祭日の朝に必ず唱える、詩編 63 と結びついている Io 7:37 の「イエスは立ち上がって大声で、『渇く者があれば私のもとに来て飲むがよい』と言われた。」(バルバロ神父様によ訳 (1980)、ということが、孤独の人にあれば、と思います。人身事故が増えているように感じます。

先日、偶然、「韓国キリスト教会における生き方の変化 : プロテスタントとカトリックという生き方をめぐって 著者 秀村 研二 収録刊行物 韓国朝鮮文化研究 15 29(172)-39(162), 2016-03-10 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部朝鮮文化研究室」に出会いました。韓国の文化、歴史そして経済等の状況と大きく関わっているようですが、この論文の「はじめに」、に、「・・・。韓国では人口センサスで宗教の統計がとられているが、近年のものでは1985年、1995年、2005年である。この統計でプロテスタント・キリスト教関係者に衝撃を与えたのはカトリック信者の増加であった。逆にプロテスタント信者は減少傾向にある2。少なくとも1945年の日本による植民地統治からの解放以後、一貫して信者数を増加させてきたプロテスタント・キリスト教は1990年代に入ると信者数の増加が鈍化し、減少傾向に入った。」とあります。著者の韓国におけるカトリック教会についての研究はまだ途上にあるそうですが、pp. 169-166 に、プロテスタント教会からカトリック教会に改宗した J 氏から聞き取ったことが詳しく書いてあります。そこに、「・・・。プロテスタントの方が教理に対する熱心さや知識はあると思う。ただ知識が先に立って行動が伴ってないように思われる。カトリックは知識においては劣るが、真心がありそれが行動力になっていると思う。その行動力が貧しい人を助けるなどの実践的な活動になっていて、心が温かいと思う。その原動力になっているのが、ハヌニム(神様)に対して根を張っていて謙遜を持っていて、それだから相手を認めていることだ。プロテスタントはどうも謙遜に欠けるような気がする。だから排他的になり相手のことを考えないのだ。・・・」とあります。日本語の聖書の訳、「愛の掟」と「愛の戒め」の違いも大きいことかもしれません。今の日本では、人は機械に置き換わりつつあると思いますが、人との(善意をもった)対話、相手のことを知ろうとすることは大切なことであるように感じます。しかしながら、日本の社会が複雑になり、そのことは簡単なことではないように思います。「相対的な貧困」も大変難しいことのようです。
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新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2023-06-13 07:28:35
先日たまたま私の共同体の兄弟姉妹たちと「隣人」というテーマで分かち合いました。よいユダヤ人、つまりファリサイ人たち、にとっては、隣人は当然自分の共同体のメンバー、自分たちの近い身内のことですが、イエスはサマリア人のたとえの通り、身内の枠から出て、助けを必要としている傷ついた人、孤独な人の所へ出向いていくこと、リーチアウトすることだということになりました。
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引用の訂正と追記 (新米信徒)
2023-06-12 23:33:30
谷口神父様 

返信をありがとうございます。

わたし(新米信徒)が上に書いたコメントにおいて、引用の仕方が間違っていましたので、下記のように訂正します。すみません。

「キコ・アルグエヨ 著 ケリグマ IL KETIGMA 福音の告知 バラックの貧しい人々の間で フリープレス刊 (2013)」の中にあるキコ氏の証言「バラックでーキコ・アルグエヨの証言」の「死から命へー『神は存在する!』」、の冒頭を読み直しました。・・・

上のコメントにおいて不正確に引用しましたので、少しだけ補うと、上記の本は、キコ氏の「証言」、キコ氏の講話「ケリグマ」そしてキコ氏の「新しい福音宣教の試み 異邦人への宣教」からなります(その他にある枢機卿の推薦文とある大司教の解説もあります)。括弧で囲んだ箇所は、長くならないように、少し短縮して書いています。

「新しい福音宣教の試み 異邦人への宣教」の最後の箇所に、福音宣教がどれほど困難なことであるかということと、「・・・。私たちの真の住いは天の祖国であり、私たちは少しでも早くそこに行くことができるよう待ち焦がれている。しかし、私たちがこの世にいる間、神は私たちをご自分の愛の使命に参加させてくださるのだ。『神が私たちを愛されたように人を愛すること』より大きなことはない。神の本質に参加するということは、たとえ相手が悪人で私たちの敵であっても、彼を愛するということだ。これこそが神の栄光に参加することの意味である。・・・」とあります。

FEBC の番組「光、イイススというお方 ギリシャ正教会 司祭 ゲオルギ松島雄一」で、松島司祭は、わたしが聴いた限りでは、Mt 22:36-40 に対して(愛するということに対して)大変厳しいことを仰っていると思います。Io 15:17 に対しては、互いに愛し合うということに対して、大変厳しいことを仰っていると思います。互いに愛し合うことができれば、そこが天の国(神の国)といってよい、という意味のことも仰っていると思います、おそらく。

例えば、Io 15:10 の「あなたがた」を小さい共同体に限定してしまうと、使徒言行録の使徒の行いに反するように感じます。そのことは自覚できていませんでした。FEBC の番組「福音を聴く」で幸田司教様は福音書の二人称を三人称にすることの大切さを仰っていると思いますが、そのことと結びつくようにも思います。目の前で苦しんでいる人がいるにも関わらず、心の痛みをごまかして、イエス様がすべてを解決してくれると、その人をほっておくことができる信仰者はほとんどいないように思います。目の前の人ではなく、ある程度遠くにいる人、かなり遠くにいる人、外国にいる人、特殊な状況にある人、である場合はどうでしょうか? 

谷口神父様もたびたび仰っている、「復活(体の蘇り)」を心の底から信じていなければ、キコ氏のことばは、空しいことになるように思いますが、「使徒信条」を信じて、信仰をもっているのですから、空しくはならないはずです。

自分のことを棚に上げて、書きました。えらそうなことばかり書いてすみません。自省をこめて書きました。また、長文をいつもすみません。
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新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2023-06-12 17:58:34
新米信徒さま
いえいえ、貴重な信仰体験をシェアーさせていただいて感謝です。
谷口
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「善」について (新米信徒)
2023-06-11 23:18:08
神父様 

わたし(新米信徒)が 02/06/2023 に上で引用したキコ氏の書「バラックでーキコ・アルグエヨの証言」の、「死から命へー「神は存在する!」、の冒頭を読み直しました。一部分を引用すべきではないと思いますが、あえて引用すると、

「・・・。そこで、私は神に向かって叫んだ。そしてその瞬間、思いがけず『私の内に神はいた!』という確かな感触を得た。それを感じたのは推論の結果としてではなく、理論的にでもない。否、否!神は居た!本質が自分に触れてくるような感触として、神はいた。

聖パウロは、キリストの霊が人に降って、神がいることを人の霊に証しすると言っている(
ローマの信徒への手紙 8 章 16 節参照)。それが私に起こったのだった。自分の中に神がいること、神が実在していることを感じた。・・・」

わたしは、七年前ぐらいに、衝動がきたように感じたことはありますが、一時間から二時間ぐらい続きました。ただし、初めは恐れも感じました、あまりにも強い衝動でしたから。喜びの方がはるかに強かったので、一応安心していましたが、自分の中から湧き上がるように感じました。

キコ氏の証言から、ガラテヤの信徒への手紙 2:20 を思い出しました。ただし、ここには「信仰」とあるので、全体を読んでみました。そして、この手紙の 6:9 が目にとまりました。思うことがあり、新改訳聖書 (1978 2 版)の訳を見ると、「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」。新共同訳聖書 (1987) の訳は、「たゆまず善を行ないましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」。この二つの訳のながめは、かなり異なるように感じます。わたしは、比較的最近、信仰の友に、神様を信頼して希望をもつ、ということを言いましたが、そのことにもつながっているように感じます。わたしが私的に感じている(感じさせられた)ことが、愚かな勘違いであればよいと思っています。また、私的な長文をすみません。
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新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2023-06-03 10:45:42
まことにそのとおりですね。
谷口
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キコ氏の出発点 (新米信徒)
2023-06-02 23:07:50
神父様

わたし(新米信徒)が書いた上のコメントに、キコ氏の名前をあげましたが、「キコ・アルグエヨ 著 ケリグマ IL KETIGMA 福音の告知 バラックの貧しい人々の間で フリープレス刊 (2013)」を、以前読んだときには、「バラックでーキコ・アルグエヨの証言」の初めの「閉ざされた天と地平線に射す一条の光」の冒頭にあることの重さをあまり感じることができませんでした。pp. 20-21 からごく一部を引用します。

「・・・。当時、私は『神はいるのか、いないのか』と自分に問いかけていた。そして私は心の奥深いところで、サルトルの中にその問いに対する一つの回答を見出した。それは、すべては不条理だということだった。それは一つの答えとなった。

しかし、どうして私は神の存在を疑っていたのだろうか。それは、そもそも私の家庭での両親の信仰の証(あか)しが不十分だったし、私が暮らしていた環境も同じだったからだ。それで、神は私にケノーシス、つまり、深い下降の道を辿(たど)ることをお許しになった。・・・」

今は、大変重く感じます。そして、このことは、東日本大震災が起こった後に、ベネディクト 16 世教皇様が被災したある少女からの問いかけに対することばに深く関わっているように思います。「ベネディクト十六世 霊的講和集 2011 カトリック中央協議会 (2012) 」の「イエスについて」の pp. 135-136 から一部を引用します。「・・・。わたしには答えることができません。けれども、わたしは知っています。イエスは、罪がないにもかかわらず、わたしたちと同じように苦しまれました。イエスのうちにご自身を現わしてくださったまことの神は、皆さんのそばにいてくださいます。このことはとても大切なことだと思いますー ・・・。この苦しみがむなしく、むだでなかったことを。この苦しみの向こうには、いつくしみの計画が、愛の計画があることを。それは偶然起こったのではありません。このことを信じてください。・・・」

イエス様の十字架上の「御受難」と「復活」は、教会に、ミサの中にあるように感じます。わたしのような愚かな者がこのようなことを書くと、色々な意味でお叱りを受けることと思います。子供のように素直になるということは、(わたしには)大変難しいことのように感じます。
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追記 (新米信徒)
2023-05-31 10:29:58
谷口神父様

わたし(新米信徒)が先に書いたことに対して追記します。上の放送があった時の聖書の朗読箇所は、Mt 22:36-46 です。松島司祭のことばを全文そのまま書くことはできませんので、わたしが大切であると感じたことを少し書くと、主なる神を愛することと、隣人を愛することは、コインの表と裏のようなことだということ。隣人を愛さないということは、神を愛さないということ。そして、隣人を「愛そう」とすることから、大変な苦しみを受けること(このことは、本田哲郎神父様も似たことを度々仰っていると思います。キコ氏も体験を通して、そのことを書いておられると思います。)。隣人を愛そうとすることは自己欺瞞等に陥ることになりかねないこと。それでは、神様は愛することから苦しみを感じたことはないのでしょうか、という問いかけの後、松島司祭が引用されたいくつかの箇所は、Mt 26:36-46, Mc 14:32-42, Lc 22:39-48, Mt 27:46, Mc 15:34, Lc 23:34, 等で、神さまは御ひとり子の苦しむ姿を見ておられたはずで、愛することの苦しみを知っておられたはずです、という意味のことを仰ったと思います。はっきりとはわかりませんが、カトリック教会の「今」の信仰とは少し異なるように感じます(聖職者の方は別にして)。ただ、「イエス様」と「神様 (Deus) 」を分けてみることはしないように感じます。ほぼイエス様だけをみる信仰のありかたに最近接したので、遠藤氏の小説のことと併せて書きました。多くの間違いがあると思いますが、愚か者が書いたことですので、お赦しください。長文をいつもすみません。
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鳩そして遠藤周作 (新米信徒)
2023-05-31 00:26:02
谷口神父様

今日、また鳩に出会いました。仕事の帰りに、駅で電車を待っていると、ホームの床に鳩の大きな糞がありました(後からの推測です)。そして、鳩がホームの屋根の下近くに来ました。動きが大変不自然で、その様子を見ていました。屋根の下を不自然に飛んでいるように見えました。わたしの横に並んでいる人は逃げて行きました。屋根は低いです。そして、鳩は屋根の下にある窪みに入りました。実は、神父様が上に書いてくださった少女と鳩の「こと」 (27/05/2023) から、少し鳩のことを調べていました。検索して多く出てくることは、鳩が巣をつくろうとしたときの対策をしている会社の site にあることです。そのことを知っていたので、横にいる人におそらく巣を作ろうとしていると思います、と言いました。鳩の羽の力の強さを感じました。このような鳩は、平和から遠いようにも感じますが、それはわたしの意識を中心とした愚かな見方だと思います。子供のときに、母から「小鹿物語」を読み聞かされたときによく泣いていました。しかしながら、その後、鹿の生態を知ると、そのような甘い話だけではない、ということを感じるようになりました。

前置きが大変長くなりましたが、遠藤周作氏が提唱している(?)イエス様の像 (image) と上のことは結びつくように感じます。遠藤氏の見方は甘いのではないでしょうか? 日本 FEBC でギリシャ正教会の司祭ゲオルギイ松島雄一が担当されたある番組の CD-R を以前に購入していて、最近少し聴きました。いろいろ教えられます。隣人愛については、わたしが聴いた限りでは、イエス様の十字架の「御受難」をみるしかない、と仰っているように感じます。その話のときは、終始、大変厳しい口調でした。松島司祭は、率直に話してくださっているように感じます。信仰によって義とされる。そのようなことはどうでもよい。神学者にまかせておけばよい、という意味のことを仰っていました。丁度、ラジオを聴きながら、寝ていましたが、そのことばを聞いて(文字通りの意味で)目が覚めました。頭による信仰は、大きなことに出会うとふっとぶ、という意味のことも仰っていたと思います。遠藤氏が言う、強い人、弱い人の意味がよくわかりません。このようなことを規定できるのでしょうか?どうしてもそのことを説明しなければ気がすまないのであれば、大変西欧的な感覚だと思います、皮肉なことですが。理念・観念が先にあって、遠藤氏の作品が出来上がっているように感じます。遠藤氏の F. Fellini の「道」に対するコメント他を読んでもそのように感じます。ただし、小説ということであれば、普通のことだと思います。わたしは、小説は小説、映画は映画、と思っています。若いときのわたしの愚かで、苦い経験からです。
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ありがとうございます。 (新米信徒)
2023-05-29 21:33:12
谷口神父様

返信をありがとうございます。

まだよくわかっていませんが、わたしが上に引用したことは、ギリシャ正教会の信仰のありかたそしてある意味ではプロテスタント教会の信仰のありかたに近いような気がしないでもないと思います。わたしの中にはプロテスタント教会の信仰が僅かかもしれませんが、流れているような気がします。四旬節第 5 主日 A 年の「聖書と典礼」を見直しました。聖パウロのことばは不思議に感じます。また、四旬節第五主日の「時課の典礼」の「読書課」の第二朗読、「聖アタナシオ司教の復活節の手紙 わたしたちは近づく主の祝祭を、言葉だけでなく実践によって実現している」を読みました。聖アタナシオ司教は、295 年頃から 373 年にこの地に生きた方だそうで、この時代の教父とつながることができることは本当に有難いことだと思います。わたしが上に引用したことに近い何かを感じ、喜びに満ちていることを感じます。不思議です。わたしには「時課の典礼」も大切だとあらためて感じました。

神父様が上に書かれた遠い先のことから、「福音と社会 Vol. 325」に神父様が書かれた記事の中で特に、p. 94 から p. 95 にある、創世記から始まって全宇宙までの拡散のことを思い出しました。また、Pierre Teilhard de Chardin のことも思い出しました。わたしが勝手に思い出しているだけですが。わたしは無知で愚かな者ですから間違ったことを多く書いていることと思います。お許しください。
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新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2023-05-28 22:46:42
新米信徒さまへ
私は私たちが生きているこの時空の世界と、復活後の命の時空の世界とを思いめぐらします。
同じようでいて、同じでない点もあります。
私は、イエスの友ラザロの妹で、マリアの姉のマルタの信仰を支持します。
兄ラザロは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。(ヨハネ11:23)
人は死んだら先祖とともに深い眠りに入ります。目覚めた時が終わりの日の復活の時です。だから、ラケルの意識の中では死んだ次の瞬間、復活の悦びに入ります。
私たちは、まだこの世にしばらく生き、死んだら深い眠りに入ります。私たちが死んで深い眠りに入るまではラケルも深い眠りの中ですから、まだ復活に達していません。
この時間のひずみを想像力で越えて、気が遠くなるほど遠くの終わりの日を先取りして、いますでにラケルの永福を喜ぶことになるのでしょう。信仰の問題の領域に入ります。
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神様への信頼 (新米信徒)
2023-05-28 21:48:28
谷口神父様 

わたし(新米信徒)が上に書いた、鳩の世界への「介入」ということで、わたしが洗礼を受ける前に神父様の御指導の下で勉強していた本のことを、ふっと、思い出しました。「キリストへの新しい道 求道者のための教えと行い キリストバル・バリョヌェボ 著 サンパウロ (2005)」です。著者は、イエズス会士です。その第一部 道を探して(人生の重大な問題への答え)、の第十章 苦しみの謎 なぜ苦しまなければならないのか、の、5 苦しみを経験した人々、の最後に、「可愛い八歳の娘ラケルを交通事故で失った、母親の手紙」があります。

「私が失望せず悲しんでいないように見えるから、頭がおかしくなったのではないかと人々は言っています。しかし私は、ラケルと神様に非常に近くなっていることを感じ、私の娘は私の中にいて私を助けていると感じています。ラケルを抱くことができないという悲しみは当然あります。彼女の声が聞けず、彼女を愛撫することもできないのは悲しいです。けれども今、彼女は幸せです。私たちの愛の父の元に喜びの顔を持っているということを想像しますし、信仰によって想像以上の確信をもっています。泣いたこともあります。今でも泣いています。けれども、悲しみよりも神に対する感謝と喜びと平和の涙です。真の幸福と平和を与えるのは神様だけです。私の体験がそれでした。人間にとって不可能と思われますけれども、一生涯の一番の平和とそれ以上の喜びに満たされたのは、ラケルの死後の日々でした」。

カトリック教会の信仰で貫かれているように感じます。神様の御顔を仰ぎ見る(であろう)、ということについてはっきり書いてある黙示録は大切だと感じます。わたしはほぼ毎日、英語で Apocalypse 12:1, 22:4-5 を唱えるようになりました。わたしは、英語だと覚えることができました。「教会の祈り」を唱えていて自然にそうなりました。新約聖書(聖典)は、初めからあったわけではないということを自覚するようにもなりました。また、長文をすみません。
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返信をありがとうございます。 (新米信徒)
2023-05-27 17:41:28
谷口神父様

返信をありがとうございます。「ホイヴェルス神父(様)ー信仰と思想 土居健朗・森田明・編 聖母の騎士社 (2003)」の、<公教要理から>の 23 に、「信仰のない人には宇宙は unheimlich(無気味ー親しみの感じが起きないこと)であるとハイデッガーはいう。現代は世界宇宙が神秘的なものでなく世俗的なものとなった。」とあります。仰る通り、ハイデッガーのことの言及を見た記憶はほとんどありません。「親しみ」(の否定)という言葉があったので取り上げられたのかもしれない、と感じます。

鳩のことは、押田神父様と出会うまでは、わたしの意識を用いて、体の大きな鳩(オス)が、(おそらく)テリトリーに侵入してきた鳩を威嚇しているときに、足で蹴る仕草をして追い払っていました。愚かなことです。鳩は、豆鉄砲をくらったような顔をして、今のわたしの言葉では、何をさらすんや、びっくりするやろうが。なんでこんな目にあわなあかんねん!、というような感じでした。先日の、パン粉のことで懲りたので、今度はパン粉が落ちないように気をつけました。それでも、鳩やスズメや他の鳥が近くに来ました。鳩はかなりに近くに来ました。アジフライの尻尾が残ったので、地べたに置きました。鳩が二羽来ましたが、食べませんでした。やはりわたしも食べない方がよいのだろうと、鳩から教わったような気がしました(?)。今後も極力介入をしないように気をつけます。

女性の方の心の傷が心配ですが、家庭を築かれたようですので、本当に良かったと思います。親から虐待を受ける子供が増えて、いろいろな取り組みがなされているようです。わたしも一度仕事の上で関わったことがあります。
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新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2023-05-27 09:12:36
ホイヴェルス神父は紀尾井会でよく実存主義者、実存主義哲学者についてお話してくださいました。
しかし、ハイデッガーの「存在と時間」を取り上げて離されたことは少なかったと思います。
他方では、ニーチェやサルトルやベルグソンについては多く話されたように記憶します。
記憶違いでなければ、テイヤール・ド・シャルダンの名前を教えてもらったのもホイヴェルス神父様からではなかったかと思います。

鳩について。鳩は世界中で同じ本能で同じ行動をするだろうと大まかに考えていますが、同じ行動を見ても、見る人の心の状態で全く違う思いで見るものかもしれません。

何十年も前の私もまだ若かったころの忘れ得ぬ記憶ですが、ある親しくしていた若い女性が、二羽の鳩のよく見る光景、ちょっと大きめのオス鳩がやや小さめのメス鳩に求愛が、お遊びか、近寄ってくちばしでつつくのを見て、身をよじって目を背け、「わたし鳩はきらいよ。大きなのが小さいのをいじめるんだから・・・。平和の鳥なんていわれるけれど、嘘よ!」と言いました。私は、ふだん可愛くて物静かな頭のいい彼女が、母子家庭で幼いころ3つ、4つ年上の一人きりのお兄ちゃんから性的いたずらを受けて、誰にも言えずに苦しんでいたのを、私はずいぶん後になって知りました。
お兄ちゃんは一流企業に勤め、立派な家庭を築きました。彼女も、お兄さんよりも立派な子供を育てました。

鳩に罪はない。鳩はただ神様からいただいた本能に促されて、決まったパターンの動作をしているだけで、平和主義者でも、ロマンチストでも変態でもありませんから。
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訂正いたします (新米信徒)
2023-05-27 08:01:52
谷口神父様 

わたし(新米信徒)が上のコメントに書いた「女子パウロ版」は、「女子パウロ会版」の間違いですので、訂正いたします。すみませんでした。

「とき」のルビのことを聞くまでは、ホイヴェルス神父様は、Martin Heidegger の "Sein und Zeit(存在と時間)" のことも考えておられたであろうか、と思いました。

「愛」は、説明することができないと思います。大部前に、ある港の岸壁近くを歩いていると、鳩が隣の鳩の毛繕いを(熱心に?)していました。暫く立ち止まって見ていました。愛というものを感じました。およそ一週間後に同じところ歩いていると、また同じ場所で同じ姿を見ました。同じ鳩の組かどうかはわかりませんが、かなり驚かされ、人(わたしは)はいったい何をやっているのだろう、と思わされて、その場を後にしました。よく思い出すことです。
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有難うございます (新米信徒)
2023-05-27 00:09:55
谷口神父様 

「とき」のルビのことを教えていただき有難うございます。最後に近いところで、「時の流れは、毎日わたしの角部屋のそばを迅速に流れ去ります。」、とあるので、不思議な気はしていました。女子パウロ版は、あとがきを入れて 157 pages で、ハードカバーですが、大変コンパクトで、持ち歩きやすいと思います。

Ave Maria の最後の

"nunc, et in hora mortis nostrae."

を古語におきかえてみました。今、また我等が今はの際(きわ)のときに。日本語の古語では、とき(時)が用いられているようです。

中学二年生の夏休みぐらいから、過ぎ去るということで苦しみましたが、今、は今しかないと感じていたように思います。ふつうは、だからこそ、今を大切に生きよう、となるはずですが、なかなかそうはなりませんでした。カトリック教会(全体で一つである)との出会いが大きいように思います。ホイヴェルス神父様ともつながっていると信じています。
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新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2023-05-26 09:53:03
私の手もとのものは、ユニバーサル文庫の「時間の流れに」聖パウロ修道会出版、昭和34年初版、昭和42年6版発行で「とき」のながれにとルビがふってあります。昭和42年と言えば私は18歳、高校を卒業して神戸の六甲から上京し、上智のキャンパスのなかの上智会館の学生寮に入り、森一弘司教と一緒にホイヴェルス神父様のミサごたえをイグナチオ教会で始めたばかりの時です。ホ神父様から頂いたものには師のサインが入っていたのでしたが、これはその後自分で買ったものです。
もう65年も持ち歩いて大分ぼろぼろになりました。その後女子パウロから「時の流れに」が出されたことを知りませんでした。
オフェリアの絵を描いた中学生の話は感動しました。
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患者(時間の流れに) (新米信徒)
2023-05-26 00:09:24
谷口神父様 

たった今、気がつきましたが、ホイヴェルス神父様の著書「時間の流れに」は、女子パウロ会から「時の流れに」と、改題されて出版されていました。そのことに対する説明がありません。「日本の古本屋」という site には「改題改訂」と「大変親切」な言葉があります。復刊された本の中には、「時の流れに」の表題の下に、奇妙なことに、上の記事の、「永遠」と「時間」の洞察があります。「時」は抽象概念であり、時間は漢字の通り、幅があり、流れていくもののように感じます。

この本の「患者」を、復刊された本で読み直しました。カトリック教会の信仰で貫かれているように感じます。「義認」の信仰とは全く異なると思います。「時課の典礼」の「終課」の、御身の御手に、おお主よ、我が霊を任せ奉る、と同じものが流れているように感じます。

わたし(新米信徒)が、12/05/2023 に上に書いた、"Ophelia" の絵を描いた方への願いを古語におきかえてみました。

乞(こ)ふ。

この形(かた)ものした汝(いまし)に御身が光照(て)り沃(い)むことを。

汝(いまし)御身を湛(たた)はざれば在(あ)ることおもはなむ。

いまだ労(いたは)りあらば直(なほ)らむことを。

実は、"Ophelia" の絵を描かれた方は、当時、中学校(義務教育)の三年生でした。最近、YouTube で、偶然、高校三年生で天に召された方と出会いました。その方は、重い病になりましたが、高校で勉強をしたい、病院でも勉強をしたい、大学に進学したい、という強い気持ちから、大阪市の橋本市長(当時)に長期入院をしている高校生のための院内学級の設置を訴えた e-mail を送り、橋本市長(当時)から、(府への働きかけがあり)大阪府は、非常勤講師を派遣することによって対応する、という返事をいただいたそうです。大阪府は、現在もその取り組みを続けているそうです。センター試験を受験した翌日から危篤状態になったそうですが、友人達が会いに来て、話しかけている姿を見ることができます。その姿を見ると、病気の人を中心にして「愛」が生まれているように感じます。このことは「意識」や、「理念・観念」で考えたこととは全く異なることだと思います。YouTube の動画は、愛媛県の TV 局の報道からのもので、ご両親が、長期に入院している高校生の学習支援に対する活動をされていて、この番組がこの方のことを取り上げたようです。大阪府はそのような支援をしている数少ない自治体の一つだそうです。長期入院している高校生への学習支援のことは、思いも寄りませんでした。わたしは恵まれすぎていて、事に出会わなければ、どうしようもないようです。
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引用元を記します (新米信徒)
2023-05-23 23:14:44
谷口神父様 

わたし(新米信徒)が先に書いた、「ドイツのバイエルン州の
ルター派教会がルターの神学理論におけるユダヤ人差別に対する声明」とは、"Jewish-Christian Relations
Insights and Issues in the ongoing Jewish-Christian Dialogue

Christians and Jews. A Declaration of the Lutheran
Church of Bavaria
27.11.1998 | Lutheran Church of Bavaria" のことです。大変大切な引用元を書かず、すみませんでした。Internet 上で pdf file (4 pages) を読むことができます。わたしは何も理解できていません。ただし、Marie Dietrich さんが戦後、戦時中ドイツ人がユダヤ人にとった行いを批判したこと、彼女は巴里で亡くなったこと、その報の「巴里で」ということに悲しい思いをしたことを思い出しました。久しぶりに、彼女が歌う "Ich hab’ noch einen Koffer in Berlin" (直訳:わたしはまだベルリンに一つのスーツケースを持っている). 本当に久しぶりに聴きました。ドイツの人は、どのような気持ちで彼女の歌を聴いていたのでしょうか。

ドイツの滞在先で、ソフトクリームを食べながら歩いていましたが、クリームが溶けて手がべとべとになり、困り果てました。幸い(人が作った)噴水があり手を洗うことができました。少し歩くと、二階建ての本屋さんがあり、その二階に Marlene Dietrich さんの写真集が本棚に立て掛けてあり、迷わず購入しました。大変分厚くドイツ語の解説も詳しい本です。ドイツでよく観ていましたが、今もときどき観ます。手がべとべとになったことは、私の自由意志によるところが大きいでしょうから、写真集との出会いも偶発的なことで、有り難きことです。
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Unknown (新米信徒)
2023-05-22 22:55:09
谷口神父様 

先日、日本基督教団 The United Church of Christ in Japan の site の 4815号 2015年2月21日 の「三教会合同礼拝に招かれて」に出会いました。

冒頭は、「2014年11月30日カトリック教会・日本聖公会・日本福音ルーテル教会合同礼拝に招待された。」から始まります。最後は、「カトリックが中心の合同礼拝は感動した。なお大きな違いがあったとしても一つ思いになって礼拝を献げることができる。この礼拝から一致の道が開かれていく。礼拝の最後の所で『ニケア・コンスタンチノーブル信条』(カトリック口語版)を告白した時、感動し心が熱くなった。(教団総会議長 石橋秀雄)」。

わたしのこころも熱くなりました。以前に、教区の便りで読んだ記憶はありますが、人ごとでした。今は、人ごとではありません。今日、仕事の帰りに、駅のホームを歩いているときに、気付かされたことがあります。わたしが以前お世話になったプロテスタント教会のある礼拝でのことです。牧師先生が杉原千畝さんのことを話しておられるときに、泣いておられました。すぐにはわかりませんでした。ときどきそのことを思い出していました。牧師先生の気持ちはわかりませんが、先生はルーテル教会の牧師先生で、もしかすると、ユダヤ人の苦難の歴史、ルターが書いてしまった、ユダヤ人を差別する本のこと、キリスト教徒とユダヤ人とのこと等でこころが一杯になったのではなかろうか、ということに思いがいたりました。今調べると、その礼拝のときと、ドイツのバイエルン州のルター派教会がルターの神学理論におけるユダヤ人差別に対する声明を発表したときが近いようです。

その教会での聖書の学びのわたしにとっての第一日目は、創世記または出エジプト記のどこかだったと思います。そのときに、聖書には「歴史」が書いてあるのか、と素直に思いました。また、その学びの後、どういうわけか、わたしだけが残り、その先生に社会のことについて話しました。先生は、岩の上に家を建てなければいけない、ということを仰りました。今は、本当にその通りだと思います。ベネディクト 16 世教皇様が、たびたび、いくつかの理由で、わたしたちは、まだ主の再臨を望みません、と仰っていたと思います。例えば、「教皇ベネディクト十六世の158回目の一般謁見演説 主の再臨についてのパウロの宣教」。このことを、先生とその教会に対する感謝の念をもって思い出しました。いつも私的なことをすみません。
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愛はすべてを越える (新米信徒)
2023-05-21 23:49:52
谷口神父様

ここ三年程、ロザリオの祈りは、普段は英語で唱えていますが、"Symbolum Apostolicum" を英語で唱える度に、三位一体ということに関して違和感を感じ続けてきました。"Actus Caritatis" も英語で唱えていますが、ラテン語文を見ると、"Domine Deus, amo te super omnia proximum meum propter te, ..." とあります。初めにこのような違和感を感じ始めたことは、「教会の祈り」の訳で、"Deus" のことが随分軽く訳されているように感じたことです。今回のミサの式文の改訂で、"Deus" のことの訳は重くなり、わたしが感じていたことはでたらめでもなさそうだ思いました。また、次のことを思い出しました。

「『心だけは永遠』ヘルマン・ホイヴェルス神父(様)の言葉 土居健朗 森田明 ドンボスコ社 (2009)」の、心について、の、<愛について 2>*、*、
*「愛はすべてを越える。信仰と希望は救いが実現すれば消えるが、愛だけは残る。愛ゆえの妥協は、妥協ではない。世の中のものはそれほど大切ではない。大切なものは心だけ。」

上のことを書いたことには理由がありますが、そのことはまだはっきりしないので控えることにします。

心と論理について、最近、中学二年生のときに出会ったことが強く思い出されます。数学の時間のことですが、担当の先生がしばしば、だれかに質問をして、答えることができなければ、たたみかけるようにして理詰めで質問をされていました。
あるとき、わたしの隣の席の人が当てられ、答えることができず、とうとう泣き出しました。大変可愛らしい方で、わたしは惹かれていました。わたしが答えを教えようかとも思いましたが、火に油を注ぎかねないので、止めました。最近になって、そのことをよく思い出して、心が痛むようになりました。数学嫌いの生徒をうみ出しかねず、その先生は、数学は論理であると錯覚をしておられたのではなかろうか、と感じます。また、二、三度質問をして答えられなければ、宿題にしたらよかろうに、とも思います。生徒の「心」を見ておられたのであろうか、とも思います。数学には、好き嫌い(得手不得手)が極端にあらわれることは、その先生も知っておられたはずです。信仰においても、信仰をもっている人を過度に追い詰めるようなことは良くないように感じます。「義認」についてはどうであろうか、と思っています。信仰者それぞれぞれだと思いますが。愚か者の感想です。
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つながっている信仰 (新米信徒)
2023-05-18 22:37:05
谷口神父様 

プロテスタント教会と新たな関わりをもったので、そのことについてもう少しだけ書くことをお許しください。

偶然、「正教会を知りたい人のために by Fr. George Matsushima
司祭ゲオルギイ松島雄一 
大阪ハリストス正教会」の site にある、「キリスト教をとらえ直してみたい人のために」の中にある、「『聖書のみ』その前提 クラーク・カールトン(日本語訳)」に出会いました。松島司祭のことは、FEBC のある番組で知りました。わたしのような愚か者は、この深いことに近づかない方がよいと思いましたが、読んでみると大変参考になったような気がします。

例えば、「十六世紀の宗教改革運動は、さまざまに言うことができるにせよ、つまるところその根は、キリスト教の黄金時代に立ち帰ろうという試みであった。その標語は「聖書のみ!」、聖書に――聖書のみに――帰ることで、キリスト教からあらゆる付着物をはぎ取り、初代教会の汚れなき本来の姿に帰そうとしたのだ。

皮肉なことに、それによって初代教会の純粋性に立ち帰ろうとしたこの原則は、初代教会があずかり知らぬものであった。『聖書のみ』という考え方は、十六世紀の発明であった。初代教会のいかなる教父たちも公会議も、聖書が教会との関わりなしに、その内に、またそれ自体として、完全に充分な信仰の規則を持っていると主張したことなどなかった。『聖書のみ』という宗教改革の原則は、宗教改革それ自体の発明品であった。」。このことは、ベネディクト16世教皇様が度々仰ったこととつながっているように思います。また、以前から、Liturgia Horarum の読書課を読むたびに、不思議な思いを抱いてきました。信者がばらばらにあるのではなく、ときとところを越えてつながっていることを感じます。ミサの中で、聖書の朗読を「聴く」ことも、大変大切なことだと感じます。全体で一つだと思います。Liturgia Horarum も全体で一つで、素直に唱えることが大切だと感じます。わたしは愚かですから、そのようにはなかなかできませんが、「教会の祈り」に出会ったことも偶然であり、必然だと感じます。ようやく最近、ミサの所作やことば一つ一つが大切なことだと感じるようになってきました。婚姻の秘跡も、「神様」の前で誓い合う、という大変重いことだと思います。

いろいろ反論はあるとは思いますが、ばらばらの信仰は、わたしには無理だと感じます。わたしの自由意志のもとに、カトリック教会に出会うべくして出会ったように思います。口ばかりで、情けない者ですが、これからも変えられていくことと思います。

私的なことを書く場を与えていただき、ありがとうございます。Deo Gratias.
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訂正 (新米信徒)
2023-05-17 23:05:55
谷口神父様

わたし(新米信徒)が上に書いた「復刻本」は、「復刊本」の間違いですので、訂正します。すみません。日本語もままなりません・・・。
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「時の流れに」の復刻本(?) (新米信徒)
2023-05-17 22:57:18
谷口神父様

ヘルマン・ホイヴェルス神父様の「時の流れに」の復刻本(女子パウロ会 1997)を古書で購入しました。奇妙なことに、最後の 「Theater des Lebens —— 人生の舞台」が省略されているようです。戸川敬一氏の「あとがき」には、「一部を省略して、」とあります。わたしは愚かですから、何かがあるのだろうと思わざるえません。谷口神父様のホイヴェルス神父様についての一連の記事のことも併せて考えると・・・。

先日、ある方から、プロテスタント教会の信仰をもつことができなかったことについての理由を尋ねられました。今もよくわかりません。昨日、若い人から質問を受けて、話していました。現実の世界ではありえないであろう函数とその極限に関わることですが、最近は、わかりにくくて当然のような気がしてきました。そのことも併せて考えると、この地に生きるわたしは、イデアの世界、とくに二元論に馴染めないからという気がしてきました。出来上がった純粋数学の理論は、イデアの世界でのことで、論理(排中律を含む)に守られ、「感覚」を通して理解ができれば一応共有できる普遍性を持っていると思います。しかしながら、出来上がるまでは、試行錯誤を重ね、他の人と議論をしたり、先人の結果を調べたり、落ち込んだり、たまに感動したり、先人の苦労に触れ勇気をいただいたり、人と自然と感覚から、「運」がよければ新しい結果が生まれてくるように思います。ですから、煉獄があろうがなかろうが、Ad Vesperas で、亡くなられた方へ祈願を唱えます。聖なる伝承も、神学の裏付けがあろうがなかろうが、わたしには大切なことです。無理に説明をしようとするとこのようになると思います。聖なる伝承と聖書を分離してとらえることはわたしには無理です。ミサに与り、Liturgia Horarum を唱えると、そのことを感じます。普段の素行を棚に上げて書きました。

最後に、ラテン語の奪格は、Vulgate, Nova Vulgata において深いと思います。いつも私的なことをすみません。
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時間と永遠の間(此の日) (新米信徒)
2023-05-13 21:56:58
谷口神父様 

わたしが書いた一連のことは、次の祈りにつながっているように感じます。

「今日という日

わたしの過去、
それがわたしを悩ますことは、もはやない
それはすでに 神の慈しみのうちにある

わたしの将来
それがわたしを悩ますことは、いまだない
それはまだ 神の摂理のうちにある

わたしが心がけねばならないのは、いま、ここ、今日という日
しかし、それも神の恵みのうちにあり
わたしが自分の良き意思を
お捧げすることにかかっている

聖フランシスコ・サレジオ
ドンボスコ社 祈りカード 35

以前、「年間 第 25 主日 A 年」の「使徒パウロのフィリピの教会への手紙 1・20c-24, 27a」を、ミサで、たまたま朗読することになりました。当日、朗読の依頼を受けました。わたしは、事前に朗読箇所を読んでみて、わたしのようなものがこのことばを朗読してよいのだろうか、と躊躇しました。"27a" はみえていませんでした。上の祈りカードの写真には、草原の中の長い道があります。朗読をして、ミサの帰りに、畑の中の道を歩きながら、わたしへの戒めだろうと感じました。そして、たまたま、古くからの信仰の友に出会いました。わたしは相手のことも考えずに、朗読箇所をみせて、また、Liturgia Horarum(教会の祈り)では、日ごとに、此の日のことをおもって唱えているとおもう、という、当時ようやく気付かされたことを相手に話しました。聖フランシスコ・サレジオは、ジュネーブで大変なことを多く経験したようですが、分け隔てなく相手になり、多くの人からの信頼を得ていったことをもう一度知りました。当時(いまもですが)、「愛し合う」ということがほとんどみえていませんでした。

Nova Vulgata

Io 15:12
"Hoc est praeceptum meum, ut diligatis invicem, sicut dilexi vos; "
の "praeceptum" は、カトリック教会での口語訳の聖書では、「掟」と訳されていると思いますが、プロテスタント教会のいくつかの聖書の訳では「戒め」と訳されていました。もしかすると、かなり隔たりがあるのかもしれません。古語では、命(めい)が自然なように思いました。掟、戒め、両方の感じがあるようです。ラゲ訳 (1911) は、「、是我命(これわがめい)なり。」です。わたしの相手をさせられた方には、大変申し訳ないことをしました。ただし、わたしも随分教えられ、少しは学びました。相手のことを知るということは、大切なことだとあらためて教えられました。長文を度々すみません。
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病、希望 (新米信徒)
2023-05-12 22:34:26
谷口神父様

わたし(新米信徒)が上に書いた、病院で見た作品のことをもう少しだけ書くことをお許しください。

実は、ある方が、ミレイの「オフィーリア (Hamlet の Ophelia)」の模写を油絵で見事に完成させていました。初めて見たときは、大変驚きました。しばらく観て、歩きながら考えました。わたしが以前読んだ本には、死の淵に立たされている人とオフィーリアを対比させて、オフィーリアは、まだ生きている、ということに希望を見出していました。そのことを思い出して、また絵の前に立って、絵を観ました。そして、日をあらためて、絵を観ました。絵のオフィーリアは、遠くをながめ、手を上にあげ、口を開いて、確かに、古い讃歌をうたっているように見えました。シェイクスピアの原文の讃歌の部分は、

Queen ...
"Her clothes spread wide
And, mermaid-like, a while they bore her up;
Which time she chanted snatches of old lauds," ...

わたしは、この「こと」を忘れないと思います。

願わくば、この絵を描かれた方が、希望の光に照らされていますように。もし、まだ御身を賛美できないのであれば、この地のことを賛美されますように。まだ病の中にあるのであれば、病が癒されますように。

Fiat, fiat!
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理想化 (新米信徒)
2023-05-09 21:32:17
谷口神父様 

わたしが上のことを書いてからまだ一年弱しかたっていないとは思いもしませんでした。また、ここに帰ってきました。

今日、若い人に瞬間(例えば極限、速度ベクトルのこと)は、本当にあるのでしょうか、と問いかけをしました。数学や理論物理学において、瞬間に幅があったら困りますよね、とも言いました。そして、二千年程前に、ギリシャ人が書いた、「原論」において、点とは、存在するが大きさを持たないもの、と規定され、そのような理想化をして現象を眺めるということがヨーロッパの文明に流れているのではないでしょうか、と話しました。わたしは無知ですから断言は一切しませんでした。上の点の話は、中学校の一年生のときに先生から教わり、いまだにそのことを覚えています。

本当に書きたいことは、先の戦争で、日蓮上人の「末法」の「思想」を自分流に組み立て直して、大陸での暴走をまねいたであろう、ある軍人の方のことです。ある論文で知り、大変驚きました。ただし、その論文によると、その方には迷いがあったそうで、敗戦後は、あっさり持論を撤回されたそうです。その論文だけではわからないことが多すぎるので、その論文の表題を書くことは控えます。知っている人はだれでも知っていることだと思います。ただただ、ホイヴェルス神父様のことばをおもうだけです。「永遠(天の国)」のことばかり観ていると、頭がおかしくなります。・・・。これは NHK の番組でのホイヴェルス神父様のことばです。ときには、Humor は大切だと思います。精神のバランスには。

今年の春にある病院で、長期に入院しておられるある学生の作品を見ました。いくつかの食べ物に関するダジャレがその食べ物の写真とともにありました。また、別の学生は、人参に関する地図(想像の世界の)をかわいらしく書いていました。観ていて、楽しい気持ちになりました。これからもわたしの心に残ると思います。

Deo Gratias.
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Unknown (M)
2022-06-25 20:19:07
仏教にこれまでご縁がなかったのですが、たまたま目にとまりました。

山崎弁栄上人
如来光明礼拝儀 現代語訳
関谷上人訳

如来様のみこころのままに
どうぞ 天地の大生命がわたしのものとなりますように――。
天地の大生命を身とし心として生きてまします如来様よ。あなたが今ここにおいでになることを信じて、一心におうやまい申しあげます。如来様のみちからとみめぐみによって、わたしはきょうこうしていきいきと働かせてもらうことができます。
このすばらしい如来様のいのちを感じて、わたしのありだけの肉体と、精神を捧げつくして、あなたにおつかえいたします。
どうか、きょう一日、立派にわたしのつとめがはたせますように、お育てくださいませ。

あーコピペしてしまいました。文句言われたら消します。

読んでて、なんか良いなぁーこっちがピッタリくるかもと感じました。
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II ペトロ 第 3 章 (新米信徒)
2022-06-25 10:31:48
谷口神父様 

今日の「聖母のみ心(聖心)」の記念日の「教会の祈り」の朝の祈りの短い読書で、II ペトロ 3・13-14 の前後を読みました。このことばは「永遠と時間」に関係していて、また、福音宣教とも関係しているように感じました。12 節に「・・・、それが(神の日)が来るのを早めるようにすべきです。」(新共同訳聖書 1987)とあります。これは、「主の日」はいつ来るかわからないが、突然くるかもしれない。そのため、福音宣教に努め、人々が悔い改めさせられ福音を信じるようにして、自分自身もできるだけ罪を犯さないように警戒して過ごし、神の国を待ち望みなさい、ということのように感じました。待降節の第一木曜日の「時課の典礼(教会の祈り)」の「結びの祈願」とも深く関係しているように感じます。この地での信仰生活が重く問われているように感じます。

M 様、人は心(魂、霊)と身体からなるのではないでしょうか?理性は必要だと思いますが、理性(説明すること)には限界があるように感じます。体の痛みは、まず自分の体を通して覚えていくように思います。心の痛みは自分自身を通して、また苦しんでいる人に出会って覚えていくように感じます。

ホイヴェルス神父ー信仰と思想土居健朗・森田明・編 聖母文庫 (2003)<公教要理から>

16 現在のキリスト教信者は自然によって神を賛美することを忘れてしまったといってよい。

17 存在の不思議についてー

物があれば絶対者があるはずである。物がない方が当然ではないか。

上記の本の<公教要理から>は、昭和二〇年代前期に行われたホイヴェルス神父様の講義の折に土居先生が書きとめておいたノートによるものだそうです。
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Unknown (M)
2022-06-18 08:38:56
「新米信徒」様、谷口神父様
‥返信が欲しいというより、単なるコメントです。スイマセン。

宗教って要するに利他主義を教えているのではないのか?
その上に何か良いものを付け加えることに、最後の晩餐や、贖い主として生まれてきただの、復活しただの、死後がどうの終末がどうのってドグマは役に立っているのか?
その疑問がアタマから離れません。

そして新求道共同体のミサに与ったら分かるとなると、理性でなく体で?感性で?理解せよということでしょうか‥。
理性は捨てられません。
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宣教することについて (新米信徒)
2022-06-17 05:55:10
谷口神父様 

「宣教すること」についての助言を深く感謝いたします。以前にも神父様から宣教することについてのことばを頂きましたが、自分のことになっていませんでした。

わたしの考えですが、ユダヤ人は、先祖が全能の神から受け啓示を自分たちの間で徹底的に教え、律法を守ろうとする。

キリスト教の信者は、イエス様がこの地にご降誕されたこと、イエス様から受けた愛のおきてを守ろうとし、イエス様のなされた事とことば、イエス様の御受難と御復活、昇天される際に残された大切なことば、その後使徒たちにおこったこと、をこの地のすべての人に、救われることへの確信と喜びをもって伝えようとする。ミサを続けることも、使徒から受け継いだ大切なこと。

そのことにより、わたしにも福音が伝わったこと。もし福音が本当にわたしのことになっていれるのであれば、わたしは、福音をまわりの人に喜びをもって伝えようとするはずであること。

先入観を捨てて、よく考えます。大切なことばをありがとうございます。
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新米信徒さまへ (谷口)
2022-06-15 15:45:49
そうです
ホイヴェルス神父様は何よりも先ず「宣教者」でした。「宣教者」であるホイヴェルス神父様は同時に詩人であり、劇作家であり、文学者、哲学者、etc.であったのです。
わたしたちは、司祭たちに「どうか宣教してください」と懇願するのではなく、私たち信者一人一人が宣教者であることを自覚し、私たち自身ができる範囲で宣教することが必要です。
そのためには、まず、これまで「宣教」とはこんなことと考えられてきたことを「本当に宣教とはそういうことか?」と問い直し、「本当の宣教とはどういうことか?」をあきらかにすること。そして、私たちにも出来る宣教を見つけ、それを果敢に実行することです。
わたしたちは、塩味のする「地の塩」であるか、燭台の上に掲げられた「世の光」として生きているか、の反省から始まります。
私は、それらのチェックをする学校を開きたいと言う衝動に駆られます。ブログもささやかながら、その方向に役立てたいと思います。
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宣教師 (新米信徒)
2022-06-14 09:21:07
谷口神父様

上記の本にある「神父に聞く(NHK テレビ「宗教の時間」1968 年)聞き手ー戸川敬一・土居健朗」、の中で、土居先生がホイヴェルス神父様は、「・・・、御自分の本当の使命である宣教師であるという事に徹して生きてこれらたわけです。・・・」と話しておられます。そして、「現代は神学者、哲学者はたくさんいますし、宗教家もいるわけですけれども、本当の宣教師が少ないような気がするんです」と話しておられます。

私のいる教区では、例えば聖書を原典で読む講座や、ギリシャ語で読む講座が開かれていることは知っています。素人の素朴な疑問ですが、そのような講座の他に、聖書やイエス様の教えに殆ど触れたことのない人のための会(集まり)は、洗礼のための講座以外あまりないような気がします。

上記の本の<会話から>の 93 から 104 は雨宮慧神父様による聞き書きであるそうです。この<会話から>は、ホイヴェルス神父様最晩年の昭和五十年前後のもののようなので、雨宮神父様が上智大学の学生の頃に聞いたことばかもしれないと思いました。

街中にある大きな教会におられる聖職者の方々が、一般の人と話す時間をもっともてたらよいように思います。聖職者の方が足りないので無理なことなのでしょうか?
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ホイヴェルス神父様 (新米信徒)
2022-06-09 22:52:18
谷口神父様 

ホイヴェルス随想選集「人生の秋に」春秋社 (1996) に「時間(とき)の流れに」があるので、読み直しました。「怠けていることほど世の中の意味に反するものはないからです。」が印象に残りました。土居健朗・森田明・編「ホイヴェルス神父ー信仰と思想」聖母文庫 (2003) に、神父に聞く(NHK テレビ「宗教の時間」1968 年)聞き手ー戸川敬一・土居健朗、があります。その最後に、ホイヴェルス「確かに時間と永遠は両方認めるべきものです。大ていの人達は半分半分です。時間ばかり考えている人には少し永遠の薬をつけ、また永遠の事ばかり考えている人は、病気になりまして、土居先生の方におくります(笑)。」とあります。今回このことばが上のことばと強く結びつきました。どこかユーモアのようなものも感じます。上の本の<会話から>に、「51 tierisch-ernst, ー「動物のような真面目さ」というドイツ語は日本語の「くそまじめ」にあたる。実際、動物はまじめである。視野が狭く、まわりを見ない。」は、大切な忠告であると感じました。

これからもホイヴェルス神父様の追悼ミサが続けられることと師のことばと流れのようなものが伝えられることを願います。
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