:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ キリストは「メシア」か? では「王」か? ―賢い少女の答え―

2012-12-04 21:34:50 | ★ 新求道共同体

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キリストは「メシア」か? では「王」か?

― 賢い少女の答え ―

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 カトリック教会の典礼暦(カレンダー)は1月1日に始まるものではない。それは、クリスマス(12月25日)の週の3週前の日曜日(待降節の第1主日)から始まり、翌年の春の「復活祭」をピークに、晩秋の「王たるキリスト」の日曜(今年は11月24日)の週で終わる。

 また、カトリック信者の典礼的一日は、深夜0時に始まるのではなく―ユダヤ教の伝統を受け継いで―日没に始まり日没に終わるのがバチカンの正式の決まりになっている。私は、今年の「王たるキリスト」の祝日のミサを、ローマ市の中心にある「主のご降誕教会」でその祝日が始まったばかりの23日夜8時から私の共同体の兄弟姉妹と盛大に祝った。

 ミサの中では聖書の朗読がある。その後、私が短い説教をすることになっているのだが、新求道共同体のミサでは、説教の前に信者たちが、今聞いたばかりの聖書の言葉について、この「みことば」が自分の心にどう響いたかを自由に分かち合うことが、バチカンの典礼省から文書で正式に認められている。

 ミサにはたいてい子供たちも参加している。誕生してまだ年の浅い共同体は、若いカップルが多いから、子供たちもうじゃうじゃいるが、私の共同体は誕生23年のベテラン、中学生以上の子供たちはとっくに親から離れて若い共同体に移っているから、残った子供は6-7人しかいない。

 分かち合いでは最初に子供たちに話させるのが習慣だが、それを問答形式でリードするのは司祭ではなく、親たちの中から選ばれた誰かの役と決められている。これが、世代を越えて信仰を伝えていく実に大切な役割を担っている。

私は、その日一番目立った10歳ぐらいの女の子の言葉に痛く感心して聞き入った。どこからこのような賢い洞察、聖書理解が生まれてくるのだろうか。それは、物心ついたころからの家庭における宗教教育の賜物なのだが・・・・。

 その日の対話を忠実に再現するために、少しだけ我慢して聖書の言葉にお付き合いいただきたい。「王たるキリスト」の祝日に朗読された福音の箇所は以下の通りだった。(ヨハネによる福音18章33節b-37節)

  〔そのとき、ピラトはイエスに〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのか。」
ピラトは言い返した。「お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしが引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることだ。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
(朗読はここで終わるが、聖書はその後に)ピラトは言った。『真理とは何か。』ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。『わたしはあの男に何の罪も見いだせない。』と続く。

 問答はおよそこんな風に展開した。リード役の男性が子供たちを見まわして聞いた。

「ねえ、子供たち。今、神父さんが朗読した聖書の言葉をちゃんと聞いてたかい?」

(子供たち)   「・・・・・・。」

(リード役)   「今日は何の祝い日だっけ?」

(一人の男の子が手を挙げて) 「はい、『王たるキリスト』の祝い日でーす!」

(リード役)―隣の小さい女の子の目を見て―   「では、イエス様は王様?」

(小さな女の子) 「そーでェーチュ!」

(リード役)「イエス様は自分でそう言ったの?」

(子供たち)「・・・顔を見合わせて長い沈黙・・・」

(リード役が何か言おうとしたとき、少しお姉さんの女の子が)

「答える代りに質問したのよ。」

(リード役)「おや、どうして?」

(大きな女の子)「だって、王様だと言えばローマ人に殺されるし、王様でないと言ったら嘘ついたことになるんだもの!」

 私は、その女の子の賢い答えを聞いて舌を巻いたが、このブログの読者の皆様にはまだ話のポイントが見えていないかもしれないから説明を続けましょう。

 イエスの時代のユダヤ人社会は、長年のローマ帝国の圧政をはねのけて、強力なユダヤ人王国を興すメシアの到来を待望していた。そこに貧しい民衆の圧倒的人気と共にイエスが登場した。ユダヤ社会の指導者は彼が「メシア=ユダヤ人の王」として立つことを期待した。しかし、イエスはその期待を裏切り、かえって彼らの偽善と腐敗を厳しく糾弾した。怒った彼らは、キリストの弟子のユダの裏切りを期に、彼を「偽預言者」とローマ帝国に「謀反を働く者」と言う廉でローマ人に訴え、亡きものにしようと企んだのだった。

 アメリカのお尋ね者「ウサーマ・ビン=ラーディン」は結局あのような死に方をしたが、仮に、密告者の通報で手配写真のビン=ラーディンに似た男が生きたまま確保されたとしませんか。アメリカ軍の指揮官が、「お前はアルカイダの指導者か?」と聞いて、あっさり「そうだ」と認めたら、フセイン大統領のように、裁判から死刑へと話は展開しただろう。

 ところが、生け捕りにされた男が、貧しい大衆に人気絶頂のスンニ派イスラムの高潔な預言者で、武闘とは関係のない人物が、アルカイダのリーダーに祭り上げられるのを断ったために同胞から裏切り者として売られたのだと判ったら、あとの話は全く違ってくる。

 イエスとはそういう立場に置かれていたのだった。

 ピラト(ローマ帝国の総督)はイエスがユダヤ人指導層の期待に添って反ローマ帝国支配の蜂起を指揮する政治的リーダーシップを執ることを拒んだために偽預言者、偽メシヤとして血祭りに上げられようとしていることを察した。だから救ってやりたいと思った。しかし、自分の管轄下で騒動が起きるのも面倒に思ったに違いない。

 そこで「お前は王か」という罠を秘めた問いをした。「そうだ」と答えれば、ローマ帝国が承認していない王を語って帝国に反逆を企てる者として死刑にし、ユダヤ人指導者の不満を解消し、面倒を回避できる。しかし、イエスが否認すれば、有罪を宣する決め手が見つからない。無実を宣して釈放するのが正義だろう。

ピラトが「ユダヤ人たちの前に出て来て言った。『わたしはあの男に何の罪も見いだせない。』 」と言うくだりがそれを示している。

 イエスが「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」と言ったのは、私はこの世の覇権を打ち立てる「王」として来たのではないが、魂の救済をもたらす「メシア」として来たのだ、と言いたいのだろうが、ユダヤ人の指導者が「メシア=王」と考えているので、その言葉は危険だとして使われなかった。

 他方、イエスの弟子の頭のペトロは、その時武器(剣)を携帯していて、兵士の一人に切りかかり、耳をそぎ落とした。他の弟子たちも護身用の短刀ぐらいは持っていたかもしれない。しかし、イエスの「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26章52節)という言葉を聞いて戦意を喪失し、キリストを棄てて散り散りに逃げ去ったのだった。

 ピラトが重ねて、「それでは、やはり王なのか」と迫っても、イエスは再びはぐらかし、「真理」論争に話を逸らせる。
 イエスはピラトの仕掛けた罠―「お前は王か」―を遁れた。ピラトはキリストを尋問して、無実の聖者であることを確信した。それなのに、結局イエスは十字架の上で死ぬことになった。ピラトはユダヤ人指導者の嫉妬と憎悪の激しさを前に、騒動の持ち上がるのを恐れた結果だった。

 私は、小さな女の子が、「お前は王か」というピラトの問いの中に、「罠」が存在することに敏感に気付いたことに驚き、舌を巻いた。このような、毎週のミサの中の問答を通して、子供たちは少しずつ聖書に習熟し、年齢と共に次第に子供の信仰から大人の背丈に合った信仰へと成長していくのだろう。親に手を引かれて教会に通っているうちはいいが、次第に独り歩きし社会に巣立っていくとき、年齢に相応した信仰の成長と充実がなければ、世俗化しグローバル化した「神無き社会」で信仰を護り続けることはほぼ絶望的だ。若者たちの教会離れはそこから来ている。

 そんな中で、新求道共同体の若者たちの多くが、思春期の難しい時期を越えて信仰を守り続けるのだ。

(終わり)

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