ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

眠らぬ常安 覚醒する言当 塩座の淀屋

2010-03-20 14:50:47 | 社会・経済

淀川は、古く飛鳥時代から国際河川であり、交通、運輸そして文化、宗教を伝えてきた重要な物流河川である。

中世末期荘園瓦解の時期、多くの重要物資は九州、四国に荘園をもつ寺社や貴族達の経済基盤を支えた。その中継地が「淀」である。淀には、物流の中継地として市場が成立していた。「淀屋」を最初に名乗った人物は誰か。山城六人百姓に木村与二郎高信という人物がいる。常安は、この木村氏の子供を養子として長女の「きい」の夫とした。しかも、この養子のために常安町家の二代目として四代目「善右衛門」を襲名している。

木村与二郎高信の弟新次郎は、淀魚市場で東坊城家の塩公事徴収代官を務めており、この人物が「淀屋」を名乗った最初の人物である。新次郎が屋号を名乗ったことは当時の「土倉」の有力者であったことが分かる。「塩」は当時の有力な戦略物資であり、多くは瀬戸内で生産され、瀬戸内から畿内へは水路が使われ、淀津は重要な取引所兼艀でもあった。

淀屋が中世荘園構造の崩壊時期にあったころ、ヨーロッパは、十字軍の負債処理に追われていた。イタリア商人の力が増大した時期と、十字軍の負債処理はバチカン財政にとって最大の課題となった。いずれも14世紀から16世紀に起こった出来事である。

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ヒストリアの殉教と世界最初の二人

2010-03-07 14:44:52 | インポート

1280年 ハンザ商人ファンブルスがドイツ北部から移住して宿屋を経営した。一族は、家族が多く一軒の宿屋では部屋が不足した。1285年ブルス家の二代目ロバートは、現在のブルージュのマルクト広場に主家を移し、元の宿屋をギルドハウスとして貸していた。1423年四代目ヤコブは、商品取引から始めて小麦の価格を左右する、穀物市場を現在の宿屋の中で始めた。ブルージュに残る風車で、小麦を引くためのレンタルを始め、その権利を売買するようになった。世界最初の小麦引き証券と呼ばれる証券である。この証券を買うためジェノバ商人たちと地元のパン屋は、両替商に借金するようになり初めて「為替権利証券」が生まれた。ヤコブは、遠方のハンザ商人、フランス、ジェノバ商人と取引するようになり、公正な入札を実施した。これが、証券市場の最初の姿である。やがて、戦乱の足跡(ネーデルランド独立戦争)が聞こえてくると、彼らは一時、アントウェルペンに避難したが、やがては、ブリュージュに戻ってきた。ブルス家の名前は証券を表す語源となった。

一方、300年後、今度は、極東で商品先物市場の萌芽が見えてきた。慶長14年(1609)大阪に米座が開かれ、座人として江戸竹川町、淀屋甚兵衛らが名を連ねた。大阪の街に戦乱の暗雲が立ち込めた慶長19年(1614)大阪夏の陣で豊臣政権が瓦解して徳川の世になると元和2年(1616)京橋1丁目に青物市場を常安が再開し、中之島を開拓して近代大阪の礎を切り開いた。米座設立から、僅か15年の間に世界はめまぐるしく変わり、ブルスと常安、言当は、キリスト教という媒介に乗せて、世界最初を作り上げた。2010年世界資産でその謎が解き明かされる

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