ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

我が意思を暗号文「ブラックスワン」に託せ

2012-10-08 10:08:49 | 社会・経済

寛永5年(1852)9月加賀百万石で事件は起きた。当代随一の豪商銭屋五兵衛が捕えられた。銭屋は7代前から両替商を営み五兵衛の時代になると醤油の醸造、呉服商、質屋などを経営し、更に海運業を営み始めてから莫大な財を築くようになる。利益は北前船によってもたらされた。また、各地に支店を設け加賀藩の物資を各地に売り込む先進的な経営を行った。

 また、天保年間の飢饉を目撃した銭屋は、鎖国幕藩体制の公然と反旗を翻し窮乏と飢餓に苦しむ農民のためサツマイモの普及に力を入れた。寛永4年(1851)河北潟の開拓に乗り出そうとして漁民との衝突の際「干拓の魚の毒」にあたったという嫌疑で捕縛され獄中で死亡したが、真相は現在もわかっていない。

 銭五の経営ブレーンとして本多利明の経済論や加賀のダビンチと云われた大野弁吉など多彩な顔ぶれが見えるが、その多くは米を大阪で換金し、銀と銅の調達に費やされた。そして、海外貿易。銭五は、オランダ、英国、ロシア、米国などと広く海外貿易を手掛けたとされるが、その際に使用された通信文は、「ブラックスワン」と呼ばれる黒の折り鶴である。加賀は、古くから高山右近などキリシタンを保護してきた歴史があり、類族が多くいた土地柄である。通信文は黒の折り鶴で暗号化して伝えられた。もっとも、大野弁吉に至っては、京都で生まれ、大阪経由で長崎に遊学している。そのきっかけが、「淀屋のびーどろの屋敷」だったと云われている。海外貿易では、黒の折り鶴は、重要な秘密文書を暗号化したものとして扱われていた。この暗号化された文書は、蒲生氏郷が松坂や会津の領主となっても使用されていたものであり、家紋も「向かい鶴」、淀屋が毛織物扱いを長崎奉行に申し出た屋号も「鶴屋」であった。

幕末、英国商館から本国に宛てた手紙は、「ブラックスワンが届いた」と記載されてあった。ジョアンコードは、黒の折り鶴の中に隠された。

 そして官軍が一番恐れた幕府の勘定奉行小栗上野介が処刑されたとき難を逃れた妻が会津に向かったときその懐には黒の折り鶴があったという。淀屋が、三井組とのやり取りの相手方とした三野村に宛てた手紙も黒の折り鶴の中に書かれていた。明治は、こうして始まった。

2北前船と鞆の浦(福山市立鞆の浦歴史民俗資料館)