ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

第三の開国か 新たな侵略か 愛はガレオン船でやって来た

2010-11-22 08:19:22 | 社会・経済

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慶長5年(1600)3月16日一艘のオランダ商船が豊後に漂着した。船長は、クワッケルナック、乗員にウイリアム・アダムス(三浦按針)、ヤンヨーステンなど後の徳川幕府で対外外交の助言者となる者が含めれていた。船の名前は、リーフデ号。在日宣教師の記録によれば大阪に廻航された後、浦賀に停泊したといわれている。この、大阪廻航の際乗員の世話にあたったのが牧野成里である。牧野は、関ヶ原の戦いで、池田輝政のもとに逃れ、慶長8年家康の旗本になった。

江戸に到着したアダムス一行に対して、カソリック宣教師たちは、プロテスタントの乗員を全員処刑するよう進言する。家康は、スペインとの貿易が途絶えることを恐れ、しばらく沈黙していたが、アダムスらのプロテスタント(カルビン派)は、南米での侵略行為、フランダースでのスペインの圧迫と迫害などで反撃し、ここに対立は決定的となった。また、スペインの銀に対してオランダ・英国は、金を中心とした貿易相手でもあった。秀吉で傷ついた外交(朝鮮侵略)の信頼性を取り戻したい家康は、殊更「侵略」には、敏感である。

関ヶ原の戦いの翌年ベトナムとの朱印船貿易を再開し、国内経済の安定を目指し淀屋次郎右衛門ら十人の頭取のもと伏見銀座頭取に参加した。博多豪商 神屋宗湛と今井宗久(石見銀山を含む鉱山経営)、一方で朝鮮侵略に反対した博多商人島井宗室と淀屋常安(対外貿易)などが複雑に入り組んだ豪商たちが世界に目を向ける事件であった。

■オランダ貿易と石見銀山関係では、山陰中央新報社が特集記事を掲載してる。

(リーフデ号リトグラフ左下 Wikipedea )