ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

「コードを読み下せ」 メラメド氏の講演から

2008-09-28 21:11:50 | 社会・経済

 ひとつの世界的金融機関と絶対安全云われた住宅金融会社が破綻した。米国のリーマンブラザースとファニーメイの破綻がそれである。

 そうした世界的金融危機のなか、日本経済新聞9月24日付け株価指数先物20周年記念シンポジュームが開かれレオ・メラメドCME名誉会長が講演した。冒頭「20年前私は日経平均先物の取引開始に立ち会うために来阪し、「歴史は繰り返す」と申し上げてきた。さかのぼること200年以上前、1730年に世界最初の先物市場が生まれたのが大阪だったからだ。」と明確に堂島米会所を意識した発言だった。当然、先駆者である淀屋についての造詣も深い。

彼の元には、新山道江著 真説淀屋辰五郎(上)(下) 今井出版をシカゴCMEあてに贈呈した。無論日本語であるがCME(シカゴ、NY)両市場とも日本人のスタッフがいるので 別に言語に不自由はないはずである。)

更に、現在の世界市場が店頭デリバティブなしに機能するのは疑わしい。ただ、これらは非常に複雑かつ高度な金融商品であり、扱うには専門家だ。・・・・ここで問われているのは、先物市場はどのような振る舞いをしたかということだ。・・・・こうした混沌とした市場環境の中で、取引所に上場しているデリバティブは何の問題もなく運営され、破綻やディフォルトもない。

(非常に複雑高度な金融商品を取り扱うには専門家が必要と云っているのは、淀屋言当が三市場の決済しステムを全て為替でおこなっている事に起因する。茶人であり、優れた経済学者である言当は、幕府の相次ぐ貨幣改鋳によるインフレとデフレによる価格のぶれに反対したフィッシャー主義的要素を持っていた。これは、先物を現在価値に直す魁となった数学的要素そのものである。だから信用のリスクヘッジの概念が生まれた。そこに破綻やデフォルトはない。日本の債権デフォルトは徳政令という形で出されたがそれはあくまで限定的なものである。)

 先物市場は、価格発見の場をつくり出し、低コストのリスクヘッジを可能にしている。情報開示もオープンで透明だ。先物には人工的な根付けは行われない。中央清算機関もあり、全ての取引について取引相手の信用リスクを排除している。日々損益の計算が実施されトレーダーが損失や利益を隠すことも出来ない。規制当局の監視も受けており、これらが店頭デリバティブと違うところだ。

(これは、井原西鶴  日本永代蔵 の解説でもなければ淀屋店頭米市場の話でもない。現代のデリバティブの現場の話である。しかし、同様のことは淀屋の店頭でも行われていた。そしてこの画期的制度が淀屋箇斎が始めた「消合場」の設置である。消合場は堂島米会所時に英語でクリアリング ハウスと訳されている。清算機関であり、正確な記録を記帳し、その日の損益計算を素早く行った。箇斎は優れた会計学の天才だったのかもしれない。これは、ヨーロッパの市場の失敗が清算期間を設けてこなかったためトレーダーの損益が把握できないことによる情報の隠匿が頻繁に行われやがてはバブルを生む原因となった(和蘭チューリップ相場事件)ことを巡察使ヴァリヤーノから聴いていたことからではないだろうか。ちなみに彼は、スペインで会計学を学んでいる。)

・・・・・このプロセスは国家の生産性向上にもつながっている。

(淀屋の最終的目標も同様だった。米市場を通じて生産の向上による物価の安定を目指した。それは、創始者 常安が戦乱の中で家族を失い古い時代の呪縛から開放された市場を創設しようとした志と似ているのかもしれない。メラメド氏も同様なプロセスを辿った経歴を持っている。もしかしたら淀屋常安を一番理解できたのはメラメド氏かもしれない)

日本のマスコミは、リーマンの破綻をのんびりと伝えた。また、AIGの買収劇も他人事に付け加えた程度に報道したが 世界はいち早く日本以外ではトップニュースである。ここには、米国大統領ケネディ演説の上杉鷹山を知らない日本人が透けて見えてくる。歴史は繰り返すは真実なのか。Codeをメラメド講演の中に見た思いであった。


「金融危機を回避せよ」と箇斎は命令する

2008-09-21 20:57:48 | インポート

 淀屋箇斎について余り資料がなく知られていない部分が多いが、箇斎の生涯は学者であり実業家としての側面を語らえる事が少ない。

■淀屋箇斎 1602(慶長2年)~1648(慶安1年) 淀屋の三代目であるが、先代言当に嫡男がいなかったため弟五郎右衛門道運の子を養子として迎えた。言当没後僅か5年後の46歳の生涯を終える。

 箇斎が本格的に言当の名の元に実質を切り盛りしていたことは朱印状の「花押」に見られる。

 1633(寛永10年)言当が、糸割符50丸に増額が認められ朱印状を下知された時の請願書は言当の花押ではないと言われている。ほんの少し、箇斎の花押が見られるという。

 1634年(寛永11年)将軍家光が上洛後大坂に移り、大阪城に市中総年寄21人を引見した際、言当ただ一人が苗字帯刀を願わなかったとき付き人として箇斎が寄り添うようについていたといわれている。

 1637年(寛永14年)10月天草の乱が起こり翌年2月に原城が陥落した。このとき、幕府はオランダ船に城の砲撃を要請してる。もともと、島原の乱はキリシタンたちの反乱いう宗教戦争の性格で語られるが、そうではない。

 島原半島は、有馬晴信の旧領であったが、元和2年(1616)松倉重政・勝家が藩主になるとキリシタン弾圧ともに年貢負担は2.8倍~3倍に加増して百姓の困窮は餓死者を出すまでに至り蜂起した。旧有馬の家臣や小西行長の家臣が多く軍略に優れたものが多かったため武装蜂起は小西の遺臣でもあった益田甚兵衛好次の子、益田四郎時貞(天草四郎)を総大将に起こった。これには、秘密組織であり互助組織コンフラリア(信心、ゼウス講兄弟会)が深く関わっている。

 寛永19年(1642)5月になると寛永の飢饉が頂点に達し、諸国に巡見使を派遣し、代官、旗本に飢餓対策を命じて、農家の酒造を禁止した。これは、食料米が極端に不足して相場そのものが成り立たなくなり、酒造用の加工米さえも食料に回す必要が生じたからである。更に、寛永20(1643)になると田畑永代売を禁止した。幕府は、初めて飢饉による土地制度の危機と石高経済の崩壊に遭遇する。むろん、産地偽装米や偽米が横行して幕府の統制は崩れたかに見えた。一方、僧侶を始めとする宗教寺院は相変わらず贅沢な暮らしを続けていた。箇斎は、こうした生産能力に見合わない農業政策について警鐘を乱打する。つまり、淀屋援米と水利争論の解決である。援米は、次の年に作付け用の「もみ」を貸付て、収穫時に返納することで「もみ」さえも食料にした百姓の救済と共に先物取引の萌芽が生まれた。

 更に、大名貸し、掛屋制度を改革して公的資金を公共投資(新田開発と水利事業)に振り向けるように誘導した。天王寺屋の併せ金融制度などを巧みに誘導する。現在のケインズ的発想である。当時、有効需要と乗数効果があったかは分らないが。

 寛永20年(1643)大坂に古手・古金商売の触書を発布し、大坂市中の諸営業に関する条例を発布するが、特に米については米切手の売買を禁止するような内容もあった。ここに諸物価が高騰し始める。

 箇斎は、この生産性の不安定と金融における信用低下に「私札」で対抗する。元々「私札」は、山田羽根書から始まるとされ伊勢神宮の御師(おし)と呼ばれる伊勢神宮に仕える有力商人の信用力とその宗教性から発された「私札」である。これが一般流通に流れ始めると交換価値から大量に発行されるようになった。やがて、伊勢、大和、摂津で発行されたため「畿内古紙幣」と呼ばれ寛永8年(1631)には良質な貨幣が流通しなくなり三方会合所という経済自治組織から発行されるようになった。金融危機回避の方法として、信用を利用したのである。米切手もその「私札」の一つである。元和元年(1615)年には豊臣氏滅亡に伴う江戸堀川の開削工事おける人足手間賃として桔梗屋伍郎左衛門と紀伊国屋藤左衛門で大坂江戸堀川銀札が発行されたりした。


言当よ「天下の台所」を再構築せよ

2008-09-15 08:15:26 | インポート

 淀屋の市場形成の一つが「天下の台所」を創ったといわれているが正確には淀屋常安と言当が現実的には市場を整備した。それまでは、市場と云わず「座」の拡大したものであった。だから、経済史的に観ると天下の台所と呼ばれるようになったのは、大阪夏の陣(元和元年 1615)以降の事である。大阪夏の陣で豊臣政権が滅ぶと多くの大名が改易となり牢人問題が再度浮上する。徳川二代将軍秀忠は、天領請地(公共事業)で活性化することで何とか経済の活性化を図ろうとする政策が天下の台所を確固たるものとした。淀屋常安は、元和2年(1616)に京橋1丁目淀屋所有地に青物市場を再開し、更に八幡山林300町歩を下賜されて八幡侍格となった。(参考 鴻鵠の系譜 新山通江)

 元和3年(1617)には池田光政が因幡、伯耆32万石の太守として鳥取に入部した。

 元和5年(1619)常安は中之島開拓竣工して、常安町の成立がなった。一方、葦が茂っていた船場より西域は堺、平野、京都伏見から有力商人が集められそれ以降、商都大坂が発展する。

 しかし、同年キリシタン60余人が京都四条河原で火刑になると常安は、剃髪して妙林と号して表舞台から姿を消す。「妙林」の号は、人民の林の中に隠れて神妙に時期を待つの意味が込められている。火刑になったキリシタンの中には、中之島開拓で優れた土木技術を習得した者やルミナリエ(高槻)で最新の鉱山技術を取り入れたものなどがいたといわれている。実際、小堀遠州宛の伝江月宗玩書状にはキリシタン処刑の様子が詳しく述べられている。(神戸市立博物館所蔵)

 常安と言当が始めた米市場は、それまで独占的な特権商人(多くは神人から両替商や土倉商人に代わった者で、元は僧侶)たちが質の悪い米を安値で買取、売却するときには高値で売却して暴利をむさぼっていたのを健全な市場形成の姿に戻すことから始まった。業者間取引による不正米取引を破壊することから始まる。それは、倉荷札(倉米証拠)といわれるもので産地偽装を防止して藩米の正確な売却数と売り上げを記録して30日以内に蔵屋敷に通知する方法である。やがては、米切手に発展するが当時は、空札は淀屋にとって最も禁止された行為であった。やがて、保管技術が進み「端境期」にも市場取引が可能となって「米切手」が登場するきっかけとなった。ここに僧侶や神官から独立した「商人」の概念が出来上がりつつあった。そのとき世界史は大きなうねりの中にあった。

Ambassmontan152 京都でのキリシタン弾圧

(九州大学南蛮文化研究センター 蔵)

 


大名貸しを抑制せよ

2008-09-07 09:00:54 | 社会・経済

 淀屋の大名貸しの歴史が何時から始まったかは記録がないので分らないが淀屋言当の時代からではなかと思われる。

 慶長5年(1600)には、言当が八幡石清水八幡宮の「神人」知行獲得(石清水八幡宮文書)して特権武士の仲間入りを果たしている。(鴻鵠の系譜 新山通江 淀屋顕彰会)

 神人(じにん)は、12世紀から各地の律令税の徴収や年貢米の都への輸送に不可欠な商業・輸送ルートを掌握していた。同様な役割を果たしたのに「供御人」(くごにん)がいる。彼らは、天皇や神仏の権威により自由に安全に往来することができた。

■神人 神社に雑役を奉仕する下級の神職。本来、神社に属する社司を指したが平安時代以降荘園体制の確立に伴い国衛や他の荘園領主の支配を忌避してより緩やかな課役負担を求めて多くの農民が神人となる動きが見られた。神人は、社頭警備を職業としたため武装兵力化し、しばしば神社の強訴の主体となった。また彼らの多くは商業活動を行うようになり神社の権威を背景に「座」(初期ギルド)を構成した。(日本史小事典 山川出版社より)

■供御人 金裏供御人ともいう。中世、天皇の供御(食料)を献納した職能民。古代の賢人に由来する。内蔵寮御厨子所や主殿などの多様な朝廷首衛などが属した。供御貢進の代わりに国家課役免除、関所等の自由通行権、営業権が与えられた。中世後期天皇家の勢力低下とともに特権が失われ、貢納も衰退し、近世に入って消滅した。(日本史小事典 山川出版社より)

13世紀に入ると銭貨を対価とした為替(割符:さいふ)が登場すると特産物を購入するのに現金払いの輸送時の危険性、不便性を解消するため割符や替銭などの為替取引が活発化する。

 しかし、為替取引は不払いや不履行が横行して円滑な金融取引や商品取引のリスクとなった。そこで、支払人の住む国や郷が連帯保証人となって国質や郷質など「質」による裏保証が発達する。商業都市では、取立のための「所質」などが出現したが著しく商業活動を阻害するとして幕府によって禁止された。

 これが江戸時代初期に入ると大名貸と土倉(どぞう・どくら)経済を発達させ本格的な金融制度が確立されていく。しかし、金融業の主体は商人ではないことに注目する。主体は、僧侶である。15世紀から始まった「借上」(かしあげ)は、寺や神社の供物を農民や武士たちに貸付け返済が滞ると田畑を没収していた。金利は年約40%といわれているが返済できない百姓が急増して都市に流れ込むか郷を捨てて他国に流れ込んだと各地の記録は伝えている。これに代わるものとして「土倉」が営まれるようになる。室町時代後期に入ると借銭、利銭という質屋金融と民衆から利息付で銭を集め、これを貸し付ける「合銭」(ごうせん)や為替を扱う替銭(かいせん・かえぜに)にも従事する僧侶や神主が急増するようになると過当競争で金利が下がるという事態が生じるようになる。ここに銀行制度の萌芽がみられるが主体はあくまで僧侶である。

 土倉は、その多くが「神人」たちによって経営されていたが戦国大名たちによって領国の経営支配が確立されると次第に神社・寺院の権威が低下し、またキリスト教が普及するに及んで海外金融制度の知識が入るようになると今度は有力商人たちによる両替商が金融の主体となった。

(参考 日本銀行金融研究所 貨幣博物館HPより)

 淀屋は、重当の代になると大名貸しを抑制し始める。それは、言当が云うように相次ぐ貨幣改鋳による悪貨と生産力の低下、それに併せて武士の牢人化が金融の破綻を招くことに警鐘を乱打したからである。

 言当が「神人」の知行を得たことは畿内における「座」後の「会所」市場を発展させる基礎であり、同時に金融業の融合のためには是非必要な一種の資格であったかもしれない。

 言当は優れた経済人であった。

(神応寺に残る左:淀屋辰五郎(个庵)墓碑と右:神応寺)

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