ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

襤褸の護民官 慶長の十字軍 明石掃部の影に怯えよ

2011-09-23 19:48:16 | 社会・経済

慶長19年(1614)10月、淀川京橋口、八軒屋浜に聖ヤコブの彫像と花クルスの旗の下約1000名のキリシタン武装部隊が集結した。その先頭に、豊臣五将軍の一人明石掃部(ジョアン・ジェスト)が超然と姿を現した。その姿を一目見ようと畿内から1万人近くの信者が大坂城までの沿道を埋め尽くし、讃美歌が響き渡った。それは、かつて信仰の十字軍の遠征を見るようであった。宣教師たちは、彼らが聖なる任務のためあらゆる犠牲を厭わず自由の擁護者となる決意を見た。レオン(蒲生氏郷)亡きあとのローマ・カソリックの護民官の姿を目の前にしている。(イエズス会日本年表 ゴア宛報告)

 キリシタン大名の中で、淀川の船奉行として小笠原権之丞と最も近い人物が明石掃部である。掃部は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで宇喜多秀家の客将兼執政として西軍で戦い敗れ、黒田直之(黒田官兵衛後の如水の弟)に戦闘中に救出され黒田藩秋月に亡命した。若年より兵書のみならず宇喜多の備前の藩経営に加わり検地制度の確立、船運交易の保険制度、徴税制度などその手腕が高く評価された人物である。また、領民の生活についても、学校(当時としては男女共学、身分を問わずの普通教育を実施)、医療(宣教師の中でも医療従事者を多用し病院を設立、妻マリアは互助組織を制度化し、現在の生活協同組合に似た組織を創設)、住宅(年貢から貸付制度を創設)、災害対策など多方面で抜きんでた才能を発揮した。

特に、軍略は職業軍人を常備せず、民兵を任務ごとに集団化し近代的民兵組織と災害対策組織を同時並行で進めた軍師の面もあった。

 宇喜多家が大坂で屋敷を構えたのが現在の常安町付近であり、そこは大坂の陣では木津川口にあたるところである。経済大名としては、蒲生氏郷に次ぐ手腕を発揮した。

 大坂の陣で敗退し、三男三郎とともに死亡が伝えられたがその後の行方ははっきりしない。鹿児島でジョアン又左衛門(呉服商 綿織物商人で淀屋と取引関係にあった)のもとに手代筆者(会計兼記録)として逃れていたが、寛永10年(1633)捕縛され京都に送られた。(西日本新聞)。また、長男は、武士を捨て長崎で医療を学び陸奥江刺で救貧の医師として開業していたが捕縛。江戸に護送中須賀川付近で病死したと伝えられている。元国連事務次長の明石康氏は、明石掃部の末裔と伝えられている。徳川が恐れた明石掃部。孫権太夫9歳が処刑されたのは、寛永17年(1640)のことである。この年、鎖国が完成した。

(明石掃部屋敷跡 碑 岡山県備前市吉永町)

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(備前保木城跡 岡山市東区旧瀬戸町)

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