ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

わが魂は天に舞 屍は地に倒れる 右近と淀屋

2013-09-23 18:54:43 | インポート

天正15年(1587)秀吉が伴天連追放令を出すと、一人の武将がその領地を放棄し世間を驚かせた。武将の名は、高山右近。明石城主。その後、小西行長の庇護のもと小豆島、肥後を転々として、天正16年(1568)加賀前田利家の招きで金沢藩の相談役を務めるようになる。

金沢時代の右近に多くの資金援助を行ったのは、姪の嫁ぎ先でもある越前屋片岡休庵であり金沢では、豪商である。特に、「米」の出荷に於いては北陸の有力特権商人でもあり、茶人でもある。卸先は、淀屋。淀屋个庵言当とは茶人名仲間でありしばしば、大阪、八幡、金沢で茶会をも開いている。

越前屋は、加賀米を大坂に出荷するに海上輸送か陸上輸送かを右近に助言を求め、最初は陸上輸送後に海上輸送を提案する。

慶長17年(1612)徳川幕府は、豊臣方に多くのキリシタン大名が集結するのを恐れてバテレン追放令を再度発布して、右近らを処分した。更に銀の国外流出を抑制するため江戸銀座に淀屋次郎右衛門らに町割りを命じている。(これが後に、江戸の隠れキリシタンの連絡所となるが・・)

慶長19年(1614)右近は、元八木城の城主内藤如安(ジョアン)らとともにマニラに追放されたが、最後まで一行に寄り添う「岡本惣兵衛」の出自は明らかになっていない。ただ、岡本惣兵衛は、内藤如安の日記によれば、追放時、大阪雑魚場市場に幽閉されていたとき、比較的自由に手紙をやり取りできたと伝えられている。

2013年(平成25年)3月23日 新名神高速道路建設工事に伴う茨木市千提寺西地区の発掘調査現地説明会が行われた。同地区は、高山右近の領地であったため「隠れキリシタン」の里として、また多くのキリシタンドラマの舞台となった。この近くには、米相場を遠方に伝達する「旗振り所」もある。明石亜矢も、後藤壽庵も一時身を寄せたことでも知られている。今回の発掘調査で、キリシタン墓地が発見されるなど意義深いものとなった。信長死後、安土常近くにあったセミナリオ(神学校)の分室も蒲生氏郷と分担してこの地に移設したと云われている。(教会堂)また、大坂の淀屋屋敷に連絡所を設けていた。金沢滞在中内藤如安が岡本惣兵衛に宛てた書状に「旧領千提寺」の名が散見される。

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