ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

重当よブルスの残した経済方程式を解け

2014-06-08 08:27:14 | 社会・経済

証券市場の語源となったファン・ブルスが残した方程式であった諸外国との為替取引、商品の証券化、権利と義務は瞬く間に世界に広がった。

特にジェノバ商人やスペイン商人、オランダ商人などには、複式簿記として広まった。複式簿記の形式が、今でも世界共通の形をとり、哲学者カントは美しいと絶賛されるに至るほど優れたものだった。

ブルスは、宿屋を経営していた宿帳の記録からその収支を正確に計算したといわれ宿で行われる外国通貨の両替から商品の出入りを記録するようになりやがて未入荷の商品について「買う権利」と「売る義務」を一枚の紙に記録して決済した。これが大陸簿記と云われ、経済の中心がオランダに移る17世紀には、「期間計算」が導入された。

淀屋米市が盛況を博し、多くの蔵屋敷が中之島、常安町に林立したころの寛永21年(1644)頃から、蔵元(蔵の物産の管理、出納を行う者)、掛屋(蔵元の代金を受け取る者、送金、保管を行う者)を各藩の武士から、有力商人に委託されるのが延宝7年(1675)から本格化する。重当46歳のときである。蔵屋敷では、藩から米が入荷すると公告を出し、落札した業者は代金の3分の1を銀で支払い、蔵屋敷発行の米切手を受け取る。そして、30日以内に米切手と残り3分の2の代金を支払い現物の米を受け取る仕組みである。これが、淀屋の最盛期には、米切手だけが売買の対象となり蔵屋敷の貯蔵されている米とは関係なく転売され投機の対象となった。また、30日決済も無期限に延期され、米の証券化が行われるに至り、その記録は正確に帳簿に記録される必要が生じ、ここに売買における複式簿記の知識が必要不可欠となった。また銀を金に代えて江戸に送金するための為替相場の知識も宣教師から言当が学んだものと云われ30日決済の「期間計算」もオランダの糸割符決済から学んだものと云われる。

井原西鶴の「日本永代蔵」に描写された「淀屋久しき分限にて一刻の商高五万貫、北浜の米一日本一と・・・・・豪商の大名貸盛んとなる。」とは、重当の「米が貨幣か、貨幣が米か。いずれも貨幣でなく、ただ信用こそが貨幣なり」とは、元禄期から「信用経済」こそが金融の経済方程式を解くカギだった。ブルスの方程式は、重当の手で現実の上方経済のものとなった。

平成26年(2014)5月10日蔵屋敷発掘調査の現地説明会が行われた。場所は、国際会議場の近くである。説明会では中小藩の土蔵跡が見つかるのは珍しいとのことであり、その構造についての説明があった。土蔵の使われ方としては、川から船入れで荷物を陸揚げした構造のものだという。確かにそれらしき跡が調査で明らかになっている。ここに、蔵屋敷の使われ方に「国際性」をみることができる。ブルスのブリュージュでの取引方法が船を利用した「船入」方法だった。

現代でもブリュージュは話題に事欠かない。4月2日に周近平中国国家主席がベルギー、オランダ、フランス、ドイツを訪問した。遥かなる西方への旅と同一行程の旅である。ゲントでは、中国が買収した自動車メーカー「ボルボ」工場を見学し、聖なる十字路も見学した。また、最終のブリュージュ講演では、中国の経済を語っている。そして、ヨーロッパの十字路ブリュッセルでは、いまウクライナ問題を討議されている。今でも経済の歴史をブリュージュは語り続けている。日本人も知らない淀屋とブルスの謎の関係をヨーロッパの人々は知っていたのだろうか。

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2014年の発掘調査

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高松藩の船入れの様子(リーがロイヤルホテル前)

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ブリュージュ運河の倉庫街(世界遺産)

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ブルス家(ブリュージュ 世界遺産)


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