ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

歴史作家 新山 通江氏TVに出演

2008-11-16 09:12:38 | 社会・経済

国際淀屋文庫監修 顧問 新山 通江氏がTVに出演する。忠臣蔵の軍資金5000満両の行方についての解説を行う。

番組は、TV東京「歴史ミステリー」であるが放送日時は番組表を確認していただきたい。

もうひとつは、淀屋研究会のTV番組(NHK)関西で放送された豪商淀屋について「常安」についての話であるが、作道洋太郎氏は質問に答える形で「淀屋の屋敷が大阪城の京橋口のところにあり、作道氏が京橋には青物市場、あちらの側に渡ったところに魚市場があって、その市場をつくったのは淀屋个庵であるということになっている。しかし、それらの資料は後の時代に作られています。常安か个庵か」

これに答えて作道洋太郎氏は「新修大阪市史では、京橋に市場が出来たのは元和2年か3年だろうと考えています。そうするとまだ常安が存命中だから、市場づくりを取り仕切ったのは常安ではないかということになるわけです。」

なにわ大坂の歴史と経済 作道洋太郎 2002 ブレーンセンター

歴史作家新山氏も同様な見解であり、宮本又次氏もその著書の中で三代市場は「常安」によるものであると述べられている。

歴史は、後世の作家がつくるとは面白いが、どうせ記録を調べるならリアルタイムの記録を調べるべきだろう。

淀屋についての正確な記録がほとんど残されていない現代では新山氏のように自分で歩いて確認できた記録の断片をそのときの情勢と併せて考えなければ記録が生きてこない。記録が果たして本物なのかを検証する作業は続く。

11月22日~23日に倉吉淀屋サミットが開かれるが今回は、淀屋とは関係のないまちづくりがテーマらしい。倉吉淀屋の発見者は、新山氏であるが正式にコーディネーターとして招待はされていない。まちづくりの専門家が「牧田家」を利用について考えるらしいが、今更の感が強い。国際淀屋文庫は、ベルギーのアントワープ、ブルージュ、ゲントを昨年1月に訪問したが全ては世界遺産に登録されている。また、パンフレットには、童門冬二氏がどうも淀屋とアントワープ、シカゴとの関係を発見したようなことが書かれているがどの著作か書いていない。それでアントワープやシカゴの取引所の写真でも同所に展示されていたらどうやって説明するのだろう。ちょっと国際的な話を話題にすれば人が来ると思い込んでいるのだろうか。他の土地は、海外からの記録を日本の記録とともに大事にしているがどうも倉吉は淀屋を単にエピソードで終わらせるらしい。 


「重当よ苛政と対峙せよ」と常安が囁く

2008-11-05 21:07:09 | 社会・経済

 淀屋二代「箇斎」が慶安元年(1648)43歳という若さで逝去し、重当は14歳の若年で淀屋を相続する。

 明暦元年(1655)重当が年寄役に就任した21歳の年に、浜先(大川筋)で正米取引の朱印状を受けている他、家業については特に伝えられてはいない。

 寛文元年(1661)27歳の時、彼は大坂城番勤務の米津出羽守の末娘で、桑山左近太夫貞晴という家老の養女と結婚した。輿入れしたのが14歳だったという。

 寛文10年(1670)長女安影   延宝7年(1679)妻 日円  延宝8年(1680)長男言丸清功

 貞亨元年(1684)一男、一女(嬰児)   元禄2年(1689)継妻素月  元禄7年(1694)末男   春雪

 これらは、重当の妻、子供の死亡記録である。

「一生珠算と秤の目も知らず、親譲金如何程ありしことにや、年中家内くらし方何程の入用やら、一向に知らず賢人とやいはん、又やく体をなしとやいはん、雨天に長き衣装を著し、泥の中を引摺りて、大坂中を経めぐり、直に座敷へ上がりて泥だらけにする」  「元正間記」

 重当は、神仏に対する宗教の念深く、また文化人として学問芸能の道に秀で、精神的に不遇の半生をよく絶えて信望も高かった人でもある。

(鴻鵠の系譜 新山通江より引用)

 先立つ寛永14年(1637)10月島原・天草で農民一揆が起こる。島原の乱である。元々、キリシタン思想が残るこの地で松倉家の苛政が直接の引き金だが弾圧されたキリシタンたちは逆に棄教から復活するきっかけをつくってしまった。当時は、キリシタンたちは「コンフラリア」という地下組織(「講」とも約されているが)で深く結びついていた。特に、女性についてはその自立と相互扶助においては男尊女卑の社会のなかでキリスト教の果たした役割は大きい。人は、性による区別はなく神の元での平等を説くパードレに対しては尊敬を持って対応したという。しかし、イエズス会とスペイン・ポルトガル カトリックは女性を奴隷として海外に売りさばいたことも事実である。こうした光と影はあるにせよそれ以上に松倉家の年貢は2.8倍、寺沢家に至っては2.0倍の高さである。寛永13年(1636)九州地方を台風が襲い、また冷害が襲う。冬は、干ばつでの水不足と旧有馬家臣や小西の百戦錬磨の家臣たちは耐えに耐え抜いたが、遂に代官所襲撃事件を契機に大規模な農民の武装蜂起が自然発生的に起こった。

それから11年後慶安元年(1648)大阪市中諸商売仕置、諸法度、町人作法や上荷船・茶船の仕置が定められた。大坂の聖母教会病院、聖ファン病院も既になく、高額の医療費をむさぼる漢方医が多数いる中で北村友松(寿庵)がひっそりと淀屋屋敷の近くの北濱で開業した。ジョアンの特徴は、診療費を取らないことで有名であり、重当一家もジョアンを頼りにしていたことをうかがわせる。重当の妻「日円」と後の辰五郎の隠れ住んだ八幡「下村」家は紀州徳川の縁続きだった。ジョアンは、徳川頼信の「脚気」と「リュウマチ」の治療に赴いており少なからず縁があったようである。この逃禅堂北村友松(ジョアン)のことについては詳しくは記録にない。ただ、友松が寿庵と呼ばれていたこと元キリシタンであったことだけは確かのようである。苛政に苦しめられたのは、農民ばかりではない。

                               (参考 出星前夜 飯島和一 小学館)