ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

誰か 望郷のレジーナの声を聞いたか

2013-03-16 11:26:51 | 社会・経済

経済危機に揺れるヨーロッパで今一人の日本人女性が注目を浴びている。慶長のジャンヌダルクと呼ばれている明石亜矢、洗礼名レジーナ。日本女性初の南蛮外科医であり、阿蘭陀ライデン大学医学部初の日本人上級外科医である。レジーナは、大坂夏の陣の名将明石掃部の末娘である。

 明石掃部は、高山右近と並ぶキリシタン大名であり、宇喜多秀家の家老として関ヶ原の戦いに西軍に味方して戦ったが敗れ、黒田如水に救われ秋月藩に逃れた。その後、大阪の陣ででは、花クルスの旗の下、多くのキリシタン武士を糾合して慶長の十字軍とまで呼ばれて戦った。明石亜矢も娘子隊に加わり衛生兵兼野戦病院に参加したが、敗戦。戦乱の中を父明石掃部、兄内記ジョアンとはぐれ一家集合場所である船場京橋の青物市場に向かう途中福島正勝配下の梶原半右衛門(ペドロ)に捕えられたが、家康は、若干の金子と着物を与え釈放した。亜矢は、弾圧を逃れ、茨木の千堤寺や下音羽、伏見、大坂を転々とした。

 明石亜矢が、本格的な外科手術を手伝ったのは、伏見の酒蔵に身を寄せていた宣教医師フェレイラ神父による大坂の女性患者の切開手術が最初だと伝えられる。その後、弾圧が激しくなると長崎に医療活動を移し、マカオで本格的な外科女医としての教育を受けようとポルトガル船に乗船した。同じ頃、島原の領主松倉は、重税の代わりに女、子供を奴隷としてスペイン・ポルトガルに盛んに売買していた。その奴隷たちの中継基地がマカオであった。

しかし、スペイン無敵艦隊が英国に敗れるとオランダは、マカオに進出。当時多くの日本人がいたマカオでレジーナは、果敢にオランダ軍と戦うが、ついに捕虜となった。しかし、オランダの軍船の中で敵味方区別なく医療活動を行うレジーナに乗船外科医がバタビアの医師院への入学を紹介される。そして、台湾へ軍医として赴任することになったが、1627年オランダに帰る軍船で本国のライデン大学への入学が許され、解剖学を専攻し上級外科医としてオランダ東インド会社の商館付けの医師として再び台湾に赴任することとなった。レジーナ51歳のことである。レジナーの記録は、広くヨーロッパの大学に流布され、その後オランダ商館を通じて日本へも伝わった。

最後まで、母国日本に帰れなかった明石レジーナは、台湾の貧しい人々に医療を提供し、また長崎の沢野忠庵の著した「阿蘭陀外科指南」は、その後の日本の蘭学医療の基礎的教科書となった。沢野忠庵こそフィレラその人であり、レジーナに伏見での外科手術手解きを与えた人物である。長崎には、淀屋がいた。淀屋闕所の折り大量の蘭学書が出たという。また、現在の俵物会所跡にはかつて大阪教会があった。それも、淀屋の敷地内だった。

台湾でのレジナーは、父明石掃部、母マリア、兄ジョアンとの再会は果たせせず、また多くの医療から遠ざけられた日本人にいつも望郷の声をあげていたという。その壮絶な人生にフランスの各新聞は、レ・ミゼラブルの物語を重ね合わせたのかもしてない。(参考文献 「南蛮キリシタン女医 明石レジーナ 」森本繁 聖母文庫、 「日本キリシタン宗門史」岩波文庫、「鴻鵠の系譜(上)」新山通江 今井出版)

かつて大阪教会があった 明石レジーナもこの教会に通った また高山右近、蒲生氏郷など多くのキリシタン大名がここで洗礼を受けた。教会は、伏見にもあった。伏見教会は、伏見銀座の銀の鋳造所になった。写真は、大阪俵物会所跡 

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