ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

食料を確保せよ 戦う経済 淀屋前史 Ⅰ

2010-04-24 19:24:33 | 社会・経済

■記録された食料■

永徳8年(1565)京都に滞在していたルイス・フロイスがゴアに向けたイエズス会年報に「子、住院に在りし者、皆悪寒発熱の病に罹りしが、当市(都)に於いては、少しも肉又は魚類を得ること能わず、他に調味なきにより、水のみに煮たるヨモギ、苣(きょ)少量及び干大根の葉及び米の他、なかりしが、後に少しの塩魚を得、これより恢復(かいふく)し始めた」と都の食料事情の悪化と、「塩」が極めて貴重品であったことがうかがえる。当時の食料事情を具体的に記録された文書が少ない中、この記録は当時の栄養状態と疫病の関係が色濃く反映されている。

この中世経済の特徴は、宗教的特権と朝廷が深く結びつく「特権商人、国人経済」ということがある。唯一食料を押さえていたのが宗教勢力である。東寺に見られるように塩の独占販売権や山崎油神人集団、淀魚市場の石清水八幡宮の神人集団などその独占性は、満済准后日記永享3年7月8日の記録のように米商人でさえ幕府の命令は行き届かず米価を自由に操る商人に無力であった。こうした中で、木村与三郎貴信と淀屋新次郎が始めた参入自由の「座」は粟津(琵琶湖を本拠地とする魚市場を独占)と山崎油神人連合の前ではなすすべがなかった。あえて、天正5年(1577)織田信長による大胆な経済改革である楽市楽座の成立による専売権の廃止まではその日の目を見ることはなかった。ヨーロッパ自由市場の成立から200年後、フランドルからやって来たジョアン宣教師は、安土セミナリオで若きレオンに囁いた。戦う経済を復権せよ!旧習と対決せよ!と。これ以来Joanは、自由で活気に満ちた商人たちのコードとなった。(有馬セミナリオと安土セミナリオ)

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