ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

許されざる闕所の赦免 帰郷 田舎暮らしに土地がない

2017-05-08 19:47:43 | 社会・経済

宝永2年(1705)淀屋が闕所(けっしょ)処分となり淀屋辰五郎が所払いとなり、大阪から去ることになった。無論、財産は没収され淀屋常安の代から所有していた土地財産も没収となった。特に、山城八幡の山林・田畑三百町歩についても同様な処分が下されたが、10年後の正徳5年(1715)に日光東照宮100年忌大法要にあわせて赦免された。

このような赦免は、幕府の大法会で大赦を行うときでなければ許されない事なので、辰五郎もひたすらこの時期を待って10年を過ごした。正徳5年(1715)4月7日は、家康の百回忌にあたり天下をあげて大法会を執行し、全国にわたって大赦を行ったとき老中井上河内守から奉書があり、辰五郎を呼び出し(後略)沙汰した(国書総目録第6巻)。淀屋闕所の際の所領は、八幡から主に機内に及び丹波の田畑188ヶ所など膨大な田畑、屋敷などがあったが、悉く没収されている。赦免になって返還されたのは山城八幡の山林だけだった。

淀屋の闕所で注目されるのがその宝物ともいうべき金銀、書画、骨董であるが実は、この膨大な不動産にこそ秘密が隠されている。淀屋辰五郎を闕所処分にし、恩赦を与えた人物こそ老中井上河内守である。同一人物が、行ったこの処分は、その土地政策にあった。寛永20年(1643)に出された「田畑永代売の禁」で田畑の売買は禁止されていたが、貨幣経済の拡大と農業生産の拡大で農村の格差が拡大しまた、下級武士が帰農するなど社会構造が大きく変化した。しかし、城下に居住する武士階級が帰郷してみると質に入れていた領地や小作に出していた土地がなくなっていたという事態が頻発するようになっていた。宝永年間この訴えが大量に奉行所に届くころになると収拾がつかなくなっていた。淀屋の所有していた田畑も同様の状態となっていた。これを、「流地」と呼びようになった。

老中井上河内守は、元禄9年(1696)寺社奉行と奉者番を兼任し、元禄10年(1697)丹波亀岡城に転付後元禄12年(1702)若年寄に就任、宝永2年(1705)老中に就任した。役職就任の年号と、土地政策の責任者だったこと、寺社奉行と淀屋が妙心寺に経蔵を寄贈した時期など井上正岑(まさみね)の役職就任が重なりあうことなどは果たして偶然の一致なのだろうか。それとも・・・・・。

 八幡市に残る淀屋辰五郎の居宅跡