ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

威風堂々(マジェスティク)世界よ 気弱な意思を攪拌せよ

2009-12-20 06:55:10 | 社会・経済

淀屋が突然姿を消したのは万延元年(1860)倉吉の当主八代目孫三郎の江戸下がりのことであった。桜田門外の変で世情が荒廃し、開国か攘夷で騒然とした中で彼は、突然大阪と倉吉の店をたたんで歴史の闇の隠れた。孫三郎は誰に、何を伝えるため江戸に向かったのか。否江戸ではない。彼が向かったのは横浜である。横浜には、冬木屋がいた。

横浜開港の最大の功労者は、岩瀬忠震であり、ペリー来航の折幕府の中では最初に開国を唱えた人物である。岩瀬は、父が設楽市左衛門、伊達政宗の直系の血を引き、幼いころから支倉常長、後藤壽庵によるヨーロッパや西洋事情に明るかったと記録されている。しかし、これがキリシタン弾圧の口実に使われ44歳で憤死した。後藤壽庵の死と同年代だったのは歴史の皮肉だったのかも知れない。

豊後日田からは、川路聖謨が日露交渉をまとめあげた。日田は、「日田金」として大阪の両替商や江戸の両替商の掛屋が多く出入りしていたことで西国大名貸で名が知れたところである。天王寺屋、淀屋、鴻池などの名前がいたるところで散見される、九州金融の中心的存在でもあった。川路は、天保9年佐渡で大きな農民一揆が発生すると。幕府側の汚職役人を処断、農民側の言い分を聞き入れた政策を実施した。しかし、井伊直弼に疎まれ勘定奉行を罷免。その後、川路屋敷は、江戸の「種痘館」として蘭方医52名を集め天然痘から民衆を守れと号令する。川路のモデルとなったのは、ハップスブルク家の「マクシミリアン」と述べている。

 こうして、淀屋の血風とコードが幕末まで生き続けた。

054 大阪城で行われた「豊臣期大阪図屏風」とハップスブルクのイベント」