ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

決済手段は銀 その相手の符牒は「ジョアン」である

2011-01-23 08:24:23 | 社会・経済

慶長9年(1604)家康の外交通商顧問ヤン・ヨーステンやウイリアムアダムスらの対外貿易の開始の進言を受けて、29隻の朱印船が海を渡った。朱印船貿易の主な交易品は「絹」、「生糸」などの繊維製品、砂糖などの甘味料など当時の貴重品が主なものである。しかし、これらの商品の多くは、生産地からの直接輸入ではなく、マカオなどの港で中国船との「出会貿易」が主流であった。「出会貿易」以外では、安南、ルソンなどの東南アジアを中心に世界24カ国を貿易相手として「朱印状」が家康によって発せられている。主な朱印船貿易を担い手は、記録されているだけで105人から110人(記録されていない者を含むと200人程度いるとされている)存在したと云われとぃる。その中でも京都の京の三長者と云われる「茶屋四郎次郎」(家康の経済顧問)、橋本十左衛門(その娘は、淀屋次郎右衛門の妻)、角倉素庵(角倉了以の長男でその妻は、淀屋次郎右衛門の娘 「船中規約」を作成し、現在の海商保険制度とも類似する規約)、大阪堺では、平野藤次郎、末吉孫左衛門などの豪商が多い。これらの豪商たちは、家康の「伏見銀座」の関係者が多い。堺の朱印船貿易家であり徳川の武器商人今井宗薫(今井宗久の長男)は、生野銀山の経営し決済手段として「銀」を用いた。また、茶屋四郎次郎など豪商との関係が深かった家康の側室「お夏の方」(お奈津 長谷川三十郎の娘で、家康の金庫番と云われるほどの経済通女傑)は、女性最初の朱印船貿易家でもある。

 朱印船貿易は、主に豪商の2代目達によって海外に目を向けた最初の契機となった。そして、貿易の決済手段は「銀」であり、その相手の符牒は「ジョアン」であったと記録された。

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