ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

言当よ河内岡山で遥かなる降臨の調べを訊け(後編)

2014-03-23 14:02:24 | 社会・経済

淀屋言当が(淀屋二代目)が、八幡石清水八幡宮の神人(じにん)の地位を取得したのが関ヶ原の合戦の年、慶長5年(1600)のことである。神人の地位は、淀の魚市の専売権、淀川を始めとする水陸運送権を持っていた。また、神人の地位は、石清水八幡宮に限らず、京都の祇園(京都八坂神社)にも存在し、堀川神人と呼ばれ主に材木の独占的専売権をも有している。淀屋言当は、この堀川神人の地位も同じ時期に取得している。二つの神人の地位を獲得することは、極めて稀なことである。

 ところで、この祇園八坂神社の牛頭天王(ごずてんのう)の「祇園守」が表十字になっていることから「隠れキリシタン」「潜伏キリシタン」の信仰に利用されていたと云われている。大名の中でも、池田氏、立花氏などはこれを信仰のシンボルとして使用している。淀屋闕所後に、大豆葉町淀屋などは、「祇園守」が使われていた。

 大阪城落城後60年を経て、天和元年(1681)~貞享3年(1686)阿波の竹林院鉄崖(てつがん)和尚が淀屋の別荘に滞在していた。この間に、弟子の月津釈人(げっつしゃくにん)と付人の僧侶が滞在していたが、この付人の僧侶が何故か消息不明と記録された。

 この消息不明の僧侶が、見つからないうちに河内キリシタンの盛んな地で「野崎まいり」が盛んになった。慈眼寺(大阪府大東市)で現在5月1日から10日まで行われている野崎まいりも当時は、4月1日から8日まで行われていた。この時期は、キリスト教の復活祭の時期と重なり、当時の殉教者の墓所である「八幡山」に向かって無縁法要が行われていたとされ、これが潜伏キリシタンの偽装礼拝ではないかと云われる所以である。更に、慈眼寺には、祇園守である「牛頭天王(ごずてんのう)」が祀られ、更には高山右近と関係が深いといわれる近松門左衛門の「女殺油地獄」の碑がある。また、山門の常夜燈の寄付者の名前が「平戸 紙屋和三郎」の名前が伺えるが、平戸に紙屋和三郎の記録はない。この人物の手掛かりは、近松が生まれたとされる下関(異論は多数あり)劇場のパトロンに紙屋の名前があり、同様に唐津近松寺にも「紙屋」の名前が散見される。唐津近松寺は、潜伏キリシタンの寺であると云われているが、これも偶然の一致か。

 元禄年間の淀屋重当(四代目)の時代は、淀屋全盛の時代であり、米取引が盛んに行われた。この時期淀屋が扱った米取引の相手は「鍋島藩」(佐賀藩)である。鍋島藩では、キリスト教禁教令がさほど厳重ではなく、多くの潜伏キリシタンや隠れキリシタンが偽装礼拝を続けていた。この潜伏キリシタンの偽装礼拝が行われた寺が、鍋島藩の「天福寺」であり野崎観音の慈眼寺とよく似た関係にある。

 豪商淀屋の闕所(けっしょ:所払、財産没収)が行われたのが元禄バブル崩壊後の宝永2年(1702)の年だった。言当(淀屋二代目)から辰五郎(五代目)まで山城、河内、摂津、堺、大阪までの交易、交通ルートと不思議に重なるキリシタン街道は、無言の降臨の調べを奏でていたのかもしれない。
参考文献 鴻鵠の系譜 新山通江 今井出版  野崎観音の謎 神田宏大 文芸社
028(上)野崎
046_7観音の鐘に残された十字

(下)平戸 紙屋和三郎寄贈の常夜燈      

046_5