ジョアンコード

Joan Code  その時謎に満ちたコードが明かされる

壽庵と常安が目撃した大震災

2011-04-16 21:31:30 | 社会・経済

慶長1年(1596)9月5日夜間に京都伏見を大地震が襲った。秀吉の伏見城の瓦がすべて落ち、禁裏ですら大きな災害に巻き込まれた。詳細な記録が残されていないが京都のみならず、堺、大坂でも被害が発生し、東寺、大覚寺などの寺院のほか倒壊家屋は、数知れず死者2000名以上を出す災害となった。京都方広寺に建造した大仏も倒壊し、慶長3年には大仏のない開眼供養を行うこととなった。後に、文禄堤を構築する淀屋にとって、この震災はによる土木技術の習得は中之島開拓に受け継がれた。明治期に淀川改修で活躍するデ・レイケにとっても驚きであったエピソードが残されてる。

秀吉の震災復興計画は、「醍醐の花見」による公共事業の振興と物価の安定であった。醍醐の花見の経済効果は、京都から醍醐までの道路整備と家屋の復興、花見で女たちが使用する衣装代(多くは薩摩藩に依頼したが、友禅を発注した加賀前田も多くを受注している)で現在価値100億円を市場に流した。また、最大の懸案事項であった「牢人」問題も公共工事(伏見城普請)で吸収しようとした。まさに市場経済による需要喚起を思わせるものであった。

米相場(この頃は、まだ淀屋は米を扱っていない)は1.5倍に跳ね上がり、豪商達は新田開発についてのきっかけを得た。

慶長大震災から3日目には、豊後で大震災があり、これは津波被害と地盤沈下が同時に起こり瓜生島が水没した。これらは、イエズス会宣教師によって、海外にも伝えられ、国内記録もある。ここで、皮肉にも奥州キリシタン後藤壽庵の迫害逃れの旅の途中での被災だった事が、後の見分(現在の奥州市水沢胆沢)の壽庵堰の建設につながる。京都に立ち寄った際「水と米が民心を支える」と次郎右衛門に教授されたと云われこれを実践した。次郎右衛門とは誰だったのか。元和の奉答書にも登場するが・・・・。関東大震災の東京復興では、同じ水沢の後藤新平が大風呂敷と呼ばれながらも震災復興を指揮した。

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醍醐の桜と三宝院

■平成23年(2011)マスコミ各紙が若狭湾の津波被害について、400年前の「天正大地震」(1589年)についての記事を掲載した。文献記録として、京都吉田神社の吉田兼見日記「兼見卿記」とルイス・フロイス「日本史」に内陸地震でもあったにも関わらず津波が発生した記述である。これらは、若狭湾に林立する原発の立地、安全管理の事前調査に問題にされなかった記述である。フロイスの記述を伝聞資料だとして無視してきたがここにきて、日本側の資料と合わせて改めて信頼性が出てきたと記事は伝えている。吉田神社は、徳川家康の神格化で南光坊天海と金地院崇伝が争った歴史があり、フロイスについては、キリシタン禁教令で弾圧された歴史がある。3.11東日本大震災の復興問題は、大きな地震を何度も経験してきた日本人の歴史の知恵を借りる「知恵の復興」かもしれない。

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文政13年(1830)7月の京都大地震 瓦版 泉州堺の手島には神社の鳥居や御堂が漂着した


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