淀屋重当の時代からその腹心として活躍したのが後に鳥取県倉吉市で闕所後淀屋の再興をした人物として紹介されているが、その出目については新山通江氏の「鴻鵠の系譜」に紹介された以外に手掛りがない。
系図を調査している者もあるようだがその詳細と活動については謎が多い。最近、池田輝政(メシオン)関係の文書を調査しているとき面白い記述に出会った。
池田丹後守教正は、永禄7年(1564)に洗礼を受けた河内地方では有力なキリシタン大名である。その娘は結城ジョアンと結婚していた。明智光秀の方についたので天正10年(1582)領地を失ったが、後に豊臣秀次の父武蔵野守に仕え、尾張花正で知行を得た。しかし、秀次切腹の後池田は再度知行を失い京都に退いた。しばしば、宣教師の記録に記されており最後まで熱心に信仰を守った。
結城ジョアンに嫁いだ娘は、フロイスの記録によれば、「彼は少年の時にキリシタンになり、イエズス会の真の友人で、この地方の教会のもっとも親しい子供の一人であった。彼の没後、未亡人マルタは3人の子供と一緒に池田丹後守の元に戻った。」
池田丹後守教正は、若江城主(現在、東大阪市)結城ジョアンは、河内岡山城主、どちらも淀屋常安が大阪冬の陣で徳川方に本陣を提供したとされる。また、この二人に共通する普請方勘定番が牧田某であり、彼の出自は記録にない。しかし、淀屋が岡山の陣を提供したのは、この普請方の誘導があったことは単なる偶然ではないだろう。この二人に洗礼を施したのは、グレゴリオ・デ・セスデペス神父とイルマン・パウロ神父、セスデペスは、サラマンカ大学で会計学と政治学を学んでいる。
牧田は、すでに常安の時代から淀屋の経営に深く関与していたと考えた方がいい。後に重当の命令で倉吉に向かうが、もう一人有力なキリシタン大名を忘れてはならない。三箇伯耆守頼照サンチョの出自は、伯耆出身だと云われており池田とともに飯盛山で洗礼を受けており、河内キリシタン三人衆となった。淀屋常安の本名は、岡本与三郎であり岡本家の家紋と池田の家紋、三箇、結城の家紋は丸にアゲハチョウの家紋である。これらは何を意味するのか。単なる偶然か。
そして、後の豪商から絶賛された牧田某とは誰なのか。
参考文献 鴻鵠の系譜 新山 通江
キリシタンになった大名 結城了悟