Dr.mimaが医原病を斬る!

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背蔭河(はいいんが)1

2015年05月15日 07時00分00秒 | その他


背蔭河はハルビン(中国黒竜江省)から南東約70kmのところにあった。
1931(昭和6)年春から開始され、ツベルクリン反応の基準づくり、BCGの毒性(副作用)、BCGの結核予防に対する研究、BCG未接種者と既接種者発病率と死亡率の比較(2年間)が行われ、1937(昭和12)年秋には終了した。 
背蔭河について残っている一番正確な資料としては、遠藤三郎の日記がある。
宮武 剛(毎日新聞社)がまとめた「将軍の遺言―遠藤三郎日記」の石井四郎に関するところを、口語訳にして紹介する。
遠藤三郎は、満州事変をおこしたとされる石原莞爾(いしはら かんじ)の後任として、1932(昭和7)年8月下旬満州に単身赴任しました(彼の宿舎は関東軍司令部のあった長春にありました)。
このとき遠藤は石原莞爾から極秘裏に、石井軍医正に細菌戦の研究を命じているから、面倒をみてほしいと頼まれている。
彼の日記の中には、石井四郎の名前が再三登場します。
最初は、「1932(昭和7)年1月20日(水)、この日は曇りで石井軍医正が東京の参謀本部に来て細菌戦準備の必要を説明、共感する点が多かった。速やかに実現できるように手配した。」
「1932年8月1日(月)晴、夕方からようやく涼しくなった。石井軍医正の細菌戦に関する話を聞き、細菌戦の映画をみた。」 
「1933(昭和8)年10月28日(土)晴、昨夜半(真夜中)石井軍医正より電話があった。細菌戦試験の準備に、一大頓挫(とんざ)を来きたせりとのことゆえ実情調査のため午前9時半に出発、ハルビンへ行き、石井軍医正と同乗し拉林 (らーりん=背蔭河)に赴き施設の大要をみて、かつ実情を聞き各種の障害を打破して邁進することを許可するとの結論を与え、午後3時に帰隊した。」
実験動物(人)の逃亡事件は、この時(10月27日深夜)におきた。
10月末だと北海道の峠は雪が降り、路面は凍結する。
まして満州の寒さはこの比ではなかろう。
逃げ続けなければ凍死する。
逃亡事件の日には背蔭河の隊員は、昼間から酒を飲んでいたという。
伝染病研究所(今の医科学研究所)で恒例になっている家畜群霊祭を行っていたと考えられる。
今村荒男は、「結核殊に肺結核」の中で、1933(昭和8)年の秋から大阪の某工場にて900人程に0、02㎎のBCGを皮下に与えましたが、全身および局所における変化は障害のないものであったと述べている。
1933(昭和8)年遠藤は石井四郎の実験場を訪れた。場所はハルビンと吉林の間にある拉林(らーりん)と背蔭河という寒村であった。11月16日(木)快晴「安藤大佐、立花大佐とともに交通中隊内試験場に行き試験場の実情を視察す。」
内容については理解できないように書かれているが、実験動物(人)が実験後高圧の電気炉で痕跡も残さないように焼くのを目撃したのは確かである。「午後1時半の列車で帰京した。夜、塚田大佐と午後11時まで話し床につきしも安眠しえず」と書かれおり、「安眠しえず」に遠藤の衝撃がうかがえる。 

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