Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

武見太郎

2015年03月24日 07時00分00秒 | B型肝炎訴訟
1930(昭和5)年に慶応大学医学部を卒業、武見太郎は、戦後1957(昭和32)年から1983(昭和58)年3月までの26年26年間日本医師会会長を務め、日本医師会のドンと呼ばれた男である。
武見は、卒業と同時に内科教室に入局した。当時の内科教授は西野忠次郎、平井文雄(京大、大正2年卒)大森憲太(東大、大正4年卒)であり、主任教授は西野忠次郎(明治37年)であった。
「当時の医局風景を思い出すと、これまたこっけいの一語に尽きる。西野教授が酒を飲みだすとお相手をする取り巻き連中で、医局は夕方から宴会場とまでは行かないけれども、特別な雰囲気を持った酒場に変わった。その後片付けをする当直の看護婦さんは、たいていなことではないと同情してみていたことが度々あった。私は酒を飲まないので、このグループの人々と一緒になることは少なかった。このグループの結束は、純粋に学問上の結びつきとは云えないが、非常に強いものがあった。医局の片隅に天井に達するビール箱が置いてあったし、月給日ともなれば安い待合(料亭)の女中が医局に行列して勘定を取りにくるという有様で、医局生活を学問の場として考えていたわれわれは、大きな矛盾を感じた。この医局の隣が、図書室であったこともまことに皮肉なことであった。この酒びたりの雰囲気の中で、患者に取り返しのつかない生と死の問題が出てくることを考えると、容易ならざるものを私は感じた。」
「大森憲太教授は脚気心臓を研究され、心電図を読める数少ない学者の1人であった。大森先生の指導で私は心電図の勉強に入ることになった。
彼は33歳のとき決意をして、医局をやめることにした。この時大森先生は西野教授の間に入り、苦労されたが、しかし私は人生のなかで33歳から5年間も台無しにする気はなかった。
彼が辞表を出したのは、医学について根本的に認識を異にするというのが辞職の理由だったので、西野教授からひどく叱責(しっせき)され、「家庭の事情という風に書き換えて来い。」と云われたが、彼はとうとう書き換えることに同意はしなかった(武見太郎回想録、日本経済新聞社、1968)。 
1938年(昭和13年)私は仁科芳雄博士の生物物理学の構想に対して全く賛意を表していたので、生き甲斐をその方に求めることなり、理化学研究所に入所、仁科芳雄の指導の下、心電計を作った。翌年には、研究活動の傍ら銀座に武見診療所を開業し、開業医(自由診療)として生計を立てながら吉田茂とつながりがあり、政財界の要人とも交わるようになった。
1951(昭和26年)年文芸春秋4月号で、「結核撲滅策の撲滅」―これは人ごとではないーで武見太郎は「昭和17年からの結核予防対策閣議決定要綱に基づいて諸方策および諸施設にも関わらず、患者数の激しい増加をみただけに終わったではないか。それと同時に、BCGがこのファッショ的時代から強制されたことも明記する必要がある。」「ツベルクリン反応の根拠となる生物学実験が、どこで行われたかを私は知らない。又結核の専門家に聞いてみても今までのところ即答を得られないという状態である。」
つまり武見太郎は戦前日本の医者や厚生省官僚が、戦後細菌戦の技術提供の代わりに戦犯を免れたのだが、わが国の医者や官僚が中国で何をしたがよく知っていたのである。
ツベルクリン反応、BCG開発がどのようにして行われたかは当然のことである。武見太郎は医師会のなかでも恐れられた存在であった。
戦後の厚生行政に於いては、時には保険診療の拒否を強行するなど厚生省の官僚との徹底的な対決をも辞さない姿勢はケンカ太郎(武見天皇)と言われた。
武見太郎の再現を期待する医師会の声もあるが歴史的みてに不可能である。



にほんブログ村 病気ブログ 肝臓・胆嚢・すい臓の病気へにほんブログ村
↑↑↑
クリックお願いします
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本のBCGの歴史 | トップ | C型肝炎における経口2剤の適... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

B型肝炎訴訟」カテゴリの最新記事