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Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

猿島の奇病

2014年11月05日 08時30分08秒 | 猿島肝炎
私たちは「猿島の奇病」の原因を明らかにすべく、平成26年6月28日から7月8日の11日間、猿島を考える会(代表 鶴巻 進)主催の肝がん検診を実施した。
この検診では肝機能検査、肝炎ウイルス検査、腫瘍マーカー、超音波検査を行ったが、あいまに積極的に50年前の「猿島の奇病」についても聞き取り調査を行い、それらを参考にして「猿島の奇病」について書いたものである。

1.「猿島の奇病」とは、昭和37年から昭和43年にかけて茨城県坂東市猿島(旧猿島町)に大流行した肝炎のことである。
猿島町は逆井・山(さかさい・やま)村と生子・管村(おいご・すが)村、沓掛村が昭和30年2月合併し富里村になり、昭和31年4月猿島町になった。
当時の猿島町の人口は約1万5000人であるが肝炎が流行したのは逆井・山(さかさい・やま)と生子・菅(おいご・すが)の2地域であり、この人口約8700人であった。
肝炎は、10才未満の子供ではなぜか発症をみなかったが、流行地での10才以上の人口は約6100人になる。
町のデータによると、昭和38年から昭和42年まで肝炎を発症した人は776人であり、猿島肝炎の発症者は流行地では約13%ということになる(図1)。
猿島は、都心から50kmしか離れてないとはいえ、交通の便もきわめて悪く不便な場所で、猿島肝炎の流行地は蜘蛛巣状の平坦な地形で、道路も狭く車が一台通るがやっとである。
外部の者が行っても迷うばかりで、カーナビの効果はないという。
こんな田舎の農村に突然肝炎(沓掛は除く)が大流行したのである。
肝炎の流行を初めて知ったのは当時の日本医大公衆衛生学教授、乗木秀夫(のりき ひでお)であった。
たまたま昭和38年暮、寄生虫対策を行うために猿島を訪れたが、肝炎の大流行にぶつかり寄生虫対策どころでなくなったといっている(新しい医院 5:(6)92-98,1964)。
この年、昭和38年度の古河市・境町・総和町・猿島町・三和町・五霞村の6市町村での肝炎に於ける死亡者は79名であるが、そのうち猿島町では26人で、これは同町の死亡者の18.3%(他の5市町村では平均 5.2%)であり、いかに同町で肝炎が猛威をふるっていたかが解る(境町生活史資料編p1078)。
また猿島町の昭和38年度肝炎死亡者数は肝炎102人中27人、26%で、昭和38年から昭和42年までの肝炎発症者数は776人中61人で死亡者数は7.9%であった。
乗木秀夫は、この猿島肝炎を「猿島の奇病」と宣伝したので、猿島の肝炎が「猿島の奇病」と呼ばれるようになった。
乗木は町から肝炎対策を一任され、猿島(旧富里村)役場に対策本部を置き、乗木を含め5人の教室員が派遣された(境町p1078)。
猿島での肝炎大流行の時、総務課長として乗木秀夫に協力した、第6代町長(昭和61年~平成13年)木村好(きむらよし)(大正14年4月1日生)は、乗木は勿論、柚木斉(ゆのき ひとし)、吉川楽など3人の名前を覚えていた。
猿島の奇病についていち早く報道したのは朝日新聞であり、昭和39年1月26日付けで「それにしてもなぜ2年間も(こう言い切れるかどう疑問)このような奇病の続発が外部に知られず放置されてきたのか」と疑問を投げかけている。
乗木秀夫 日本医大公衆衛生学教授は、猿島に着くとすぐ原因は水の汚染によるものあると結論づけた。
また当時地下水のポンプ(ガチャポン)による汲み上げあったが、NHKでは「つるべ井戸」を撮影させ、食事時にも魚や肉が食卓に出ているとテーブルから下ろさせたものを放映した。
貧しい、タンパク質も取らない農村を強調したかったのである。
「猿島の奇病」が大々的に報道されるにつれて、風評被害も大きくなり、猿島の野菜の値崩れがおきた。
他の町では、差別を恐れて、猿島出身者であるとは言えなった。
「猿島の奇病」は水が原因と思い込ませられた住民は、劇症肝炎で死亡した人の葬儀の手伝いには手弁当で行くしかなかったという。
 乗木秀夫らは、対策本部を立ち上げると同時にの集会所で肝臓病学者のために健康な人も含めて1000人を超える人の採血を行い、血清を保存し、また劇症肝炎の肝臓も冷凍保存したという(新しい医院 5(6)92-98 1964)。
 精力的に活動した乗木らは翌昭和39年2月29日、今後は猿島肝炎の原因究明ではなく、肝炎にならない環境づくり(過労を避け、タンパク質を取る)をすることが必要であると強調し、毎月29日を肉の日とすることを提案し、東京に帰った。
 昭和39年1月30日の朝日新聞の記事によると、厚生省は同省の諮問機関である伝染病調査打ち合せ会に「流行性肝炎に関する特別部会」を設けることを決めた。
このメンバーは、柳沢謙(国立予防衛生研究所副所長)、北岡正見(同ウイルスリッケチア部長)甲野礼作(同中央検査部長)、多ヶ谷勇(同腸内ウイルス部長)、松田心一(同疫学部長)、北本治(伝染病研究所付属病院長)、佐野一郎(国立第一病院内科部長)、乗木秀夫(日本医大)であった。
このメンバーは、もと東大付属伝染病研究所(現医科学研究所)に所属していたもので、乗木秀夫も学生時代から伝染病研究所に出入りしていた。
 佐野一郎、北本治も「猿島の奇病」調査時は現地入りしている(新しい医院 5(6)92-98 1964)。
 猿島肝炎は当初から、伝染病に準じた扱いをしており、このことは猿島で発生した肝炎は、どこの医療機関にかかっても町役場に届けなければならないことを意味する。
したがって町の肝炎発症数が最も正しいということになり、肝炎発症数は776人である(図2黄)。
ところが乗木秀夫・柚木斉(ゆのき ひとし)(昭和45年発表)の肝炎発症数は、彼らが疫学調査を入ったあと猿島肝炎は収まったかのようになっている。 
乗木・柚木の作ったグラフでは正確に計算出来ないが、昭和39年の発症数は145人で、町のデータでは384人と大幅に異なっており、また彼らは発症総数を公表していないが、グラフから数えると猿島肝炎発症数は約742人となる(図2、青)。
同教室の昭和58年若山葉子が公表した統計によると、7年間で678名(男398名、女280名)というが、これも町のデータとは違う。
唯一、合致しているのは、昭和38年の発症数のみである(図2、青)。
ところが日本医大公衆衛生の乗木・柚木と同じ教室の、若山の年度別肝炎発症者数は不思議なことに違っている。 
日本医大公衆衛生学の教室、乗木・柚木(昭和45年発表)および若山(昭和53年発表)の月別発症者数は見事に異なっている(図3、青と赤)。
乗木・柚木は、彼らの疫学調査で肝炎が収まったと思わせたいために作ったデータあることだけは確実であるが、両者のデータが驚くほど異なることについては全く理解できない。

2.乗木秀夫が帰京後に柚木斉は、猿島協同病院を拠点として、猿島に週2回やってきた。
彼は町の公用車で、1回来るごとに20件ほど家庭訪問し採血した。
町の専属の運転手がいないときには、保健衛生課の職員が運転手を代行したが、最初は柚木以外に1~2人同行したが、そのうち昭和50年頃から柚木斉1人になり、平成元年からはまったく来なくなったという。
彼は奇異な行動を取った。
ある人は肝がんで亡くなった父(68才)の次に何回か採血をうけており、その結果現在ではC型慢性肝炎になっているという。
採血はただだったからやって貰ったという。
また別の人は、弟が昭和48年正月頃黄疸になり、その後兄とともに昭和51年4月に食品工場を立ち上げた。
食品工場を柚木が訪れ、弟から兄の順に何回か採血され、最後に採血した平成元年、初めて肝障害を言われた。
柚木はこれを最後に猿島に顔を見せなくなったが、いま兄は肝がんで何回も治療を続けている。
また夫婦が畑で採血された風景も目撃されている。
猿島には3軒の開業医がいたが、このうち塚原久(つかはら きゅう)は朝6には診療し、夜は8時くらいまでで、昼には往診にも応じていたので、猿島の人たちにとっては便利な開業医であった(図4)。
暇があれば海外旅行にも出かけ、よく働き、よく遊ぶ医者であった。
ところが塚原は注射器具の使い回しをしていた。
彼に往診して貰った3姉妹は、いまC型肝硬変である。

昭和35年頃には、トランスアミナーゼ(GOT・GPT)の測定ができるようになり、黄疸でしか肝炎を診断できなかった時代が過ぎ、黄疸の出ない肝炎の研究が飛躍的に進歩した。
 北本治(東大付属伝染病研究所)は、1960年12月から1961年8月まで結核予防会結核研究所、国立東京療養所、国立清瀬病院、関東逓信病院、八王子医療刑務所の5施設の共同研究で、手術予定者240人について肝機能検査を行い、術前に肝障害の疑われたものを除いた179人について輸血後肝炎の発生様式について検討した。 
輸血後肝炎は、179人中114人、63.7%に合併し、黄疸発症例は22.6%であった。
潜伏期のピークは2~6週にあったが、2週以内のものに最も多く、輸血量と発症率の関係では、輸血量が増えるとそれに伴って輸血後肝炎も増加し、供血者集団には8~9人に1人の肝炎ウイルスキャリアがいることを推定している。
 供血者集団に麻薬、覚醒剤などを習慣にするものが多く、彼らは注射器による感染で感染し、その後キャリア化したとしている。
また供血者間の採血用具を通じての感染も絶無では無いと言っている(肝臓:4(4)23-28、1962)。 
これはきわめて興味深いことである。
上野幸久(自衛隊中央病院)は、昭和32年6月より昭和37年6月までに経験した血清肝炎の症例は179人である。
うち血清肝炎の発症率は、胸部外科手術後の症例では診断確実なものは28.7%であり、このうち肝生検を行えなかった不確実例を入れると63.9%に達したという。
急性期を観察できた161例中、劇症型の経過をとったもの4例は死亡し、1例は肝硬変に移行しており、血清肝炎の慢性化率は30.2%と高率であった。
このなかには心臓手術時、多量の出血をきたしたためGOT1080、GPT810いうトランスアミナーゼ高値の血液を輸血したところ、6週目に定型的な肝炎をおこした症例や、GOT167、GPT102の血液を輸血し輸血後肝炎を発症した症例もあり、輸血後肝炎の予防には異常供血者を除外しなければならないとしている。
輸血後肝炎を除外するには、「病院や医院における消毒については、すべて乾熱滅菌するのが望ましい。 不完全な消毒は血清肝炎を蔓延させるようなものである」とし、不潔な注射器具の使用に警告している(肝臓:4(4)17-23、1963) 。

3.乗木秀夫は、「伝染性肝炎―基礎的立場から(猿島肝炎を経験して)」で、1963(昭和38)年1月より茨城県猿島に多発した肝炎事件については、いまなお組織的に活動している。
この間臨床、病理を中心とした専門家の協力をうけた。
多くの協力者の取捨選択することもなく幸いよき教室員に恵まれこの事件に取り組んでいる(柚木斉退官記念猿島肝炎研究業績集、1988)と、述べている。
 猿島協同病院とは1948(昭和23)年3月に設立された茨城農協の病院で、1994年4月には厚生連茨城西南医療センター病院となっている。
もともと猿島共同病院は結核病棟主体の病院で、1964(昭和39)年10月、猿島協同病院に日本医大公衆衛生学教室から派遣された検査技師、磯目益男(いそめ ますお)は、この頃の病院について「猿島協同病院に到着して唖然とした。 まさにタイムスリップ これが病院か?……。 雑草とアメリカシロヒトリ(毛虫)、そして院内は暗く、さながら化け物屋敷といわざるを得ない。 昔の岐阜の山奥や会津八田村の無医村診療所時代の方が、はるかに明るく感じられた。」と語っている。
また誰も行きたがらない病院に、昭和36年4月から昭和37年9月まで、北海道の根室保健所の所長で勤務していた稲垣光男が派遣されたのである。
つまり昭和38年の初めから乗木秀夫は、猿島肝炎については知っていたのである。
また昭和30年代から猿島協同病院(農協病院)では、境町で巡回診療をしていたが、稲垣光男が赴任と同時に検診車に乗り込み、不潔な注射針で採血した可能性も皆無とは言えない。
「猿島の奇病」は、日本医大公衆学教室が塚原久を利用して、肝炎が注射針で広がることを証明するための野外実験と考えれば、すべて理解できる。
 西雅明(現つくば学園病院)によると、1967(昭和42年)国立公衆衛生院疫学部長の重松逸造を委員長とする茨城県肝炎対策委員会が発足し、調査研究を始めた。
翌年1月に、予防法の要点として、県の衛生部を通し、開業医が注射器使用の際、特に注射針の消毒を厳重にするよう指導した(茨城西南医療センター病院五十年史、181-207、1997)と、述べられている。
つまり猿島肝炎は、「注射器肝炎」であることが明らかにされ、以降やっと猿島肝炎は終焉に向かったのである。






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