「幸福の科学」観察日記

「幸福の科学」を観察しつつ、心に浮かんだ感想などを綴っています。

『仏説・降魔経』は誰に向けたものか?

2012-03-26 | 感想 1

『仏説・降魔経』について書いてみます。

これについては、アンチ側の解釈はおよそ次のようなものが多いようです。
「『仏説・降魔経』は、大川隆法を疑い、批判し、その活動を妨げるのは、大罪であり、死後は地獄に堕ちると説いている。これは脅しであり、信者をマインドコントロールしようとするものだ」

一方、信者側の解釈は次のようなものらしい。
「『仏説・降魔経』は、悪魔に対する言葉であって、人に対してのものではない。だから、人に対する脅しを目的とするものではない」

自分の意見は……、『仏説・降魔経』とその解説を読んでみたところでは、その対象は、前半と後半ではちがっているように思えました。前半は、地上に生きている人に対する警告で、後半は、地獄の悪魔に対する一喝になっているのではないか、ということです。

まず前半については、大川隆法さんご自身がこう解説してます。


「もはや 人間として 生まれるは
これが 最後と 悟るべし」
仏・法・僧への誹謗・中傷をして、それを潰そうとするようなことをした場合には、人間として生まれるのはもう最後です。これは、そのとおりです。「人間として生まれるのが最後になる」というのは、どういうことかというと、「悪魔になる」ということです。
[省略]
悲しいことに、地上の人間を見ても、そのようなことを考える人間が一部います。彼らは徹底的に悪いことをします。それが、邪教団の教祖であったり、週刊誌等の編集長であったり、宗教学者のような学者であることもありますが、確信犯的に、悪を正義と信じて活動している連中がいるのです。
この人たちは、人間としては最後です。そして、死後に間違いなく悪魔になって、攪乱してくるのは確実です。
(大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版、1995年、327-328頁)


これを読むと、『仏説・降魔経』の上記部分は、悪魔に対するものというよりは、まだ悪魔になっていないが死後に悪魔になる人(地上に生きている人の一部)に対するものであるようです。

「人間として生まれるは“これが”最後と悟るべし」とは、「人間として生まれるは“今生が”最後と悟るべし」というような意味合いであり、

今、地上に生きてる人は、死後に地獄に堕ちて悪魔になりたくないなら、三宝誹謗、和合僧破壊の罪を犯すなという警告なのでしょう。

後半については、大川隆法さんは次のように解説してます。


「邪悪な 心を 持ちたれども
汝ら もとは 人間なり
仏性 その身に 宿るなら
仏の 慈悲が わかるはず」
悪魔ももとは人間なのですから、そのように言っています。
(大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版、1995年、338頁)


これは、大川隆法さんの解説を待つまでもなく、もとは人間だったけれども、今は悪魔になってる存在に対する言葉であることは、容易に分かります。

……というわけで、自分は現時点においては、『仏説・降魔経』の前半は今生きている人、後半は地獄の悪魔に対する言葉なのだろうという風に考えてます。

 

(追記 20120407)
「元・幸福の科学信者のブログ」さんの記事へのリンクを貼っておきます。豊富な資料を活用しての記事は圧巻ですね。

>幸福の科学の器
http://ameblo.jp/egao-ga-1ban-smile/entry-11202265845.html
>正義の言葉『仏説・降魔経』について
http://ameblo.jp/egao-ga-1ban-smile/entry-11205516759.html
>『仏説・降魔経』序盤は誰に対しての経文なのか
http://ameblo.jp/egao-ga-1ban-smile/entry-11215702751.html



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